『デオドラント・スプレー』




小五のとき手塚と出会ってから、ずっと、何かひっかかるものを感じている。




最初に軽い違和感を覚えたのは、大会が終わった帰り道でのことだった。
一緒に駅まで歩きながら、手塚の所属しているクラブのことを色々聞き出した。

「へぇ。駅から近いんだね」
「でもバスを使ってる奴もいるな」
「手塚は?」
「俺は体力作りのために歩いていくようにしてる」

いま僕は特にスクールに所属していない。
けれども両親とは、東京に引っ越した後も、スクールに通いたくなったら行かせてくれるという約束があった。
手塚のいるテニスクラブなら、なによりも手塚がいるのなら、退屈しないテニスが出来そうだと思った。

「じゃあ僕、そこに行こうかな」

そう言ったときの、手塚の表情の動きが、妙だった。
眉間に皺を寄せ、口はポカンと開く。

「…イヤかな?」

あんまりな顔付きだったので、控えめに尋ねてみると、手塚はぶんぶんと首を振った。
それから、いつもの仏頂面に戻った後、一言「待ってる」と告げた。



次に頭に「?」が浮かんだのは、テニスクラブの更衣室でのことだった。
僕がデオドラントスプレーを使うと、手塚はぎょっとしたように白い煙を見た。

「手塚も使う? かけてあげようか?」
「…これは?」
「デオドラントスプレーだけど」
「………」
「つまり、制汗スプレー」

わかっていない風だったので缶ごと手渡すと、手塚はもの凄く真剣な目でパッケージの説明文を熟読し
「…借りてもいいか?」と聞いてきた。
どうぞ、と勧めると、手塚は恐る恐る噴出口のボタンを押した。

なんだろう。まさか知らなかったわけじゃないだろうに。
同じ場所で着替えをしている同世代の生徒もみんな使っている。
…と考えてから思い直した。
きっと本当に知らなかったんだろうな、と。

何故なら手塚はわりと世間からずれている。
この間、「今夜、テレビ何か見る?」と話を振ったら、「クローズアップ現代」と返ってきたくらいだ。
もしかして手塚ってワンピースも知らないんじゃないだろうか。

…あまりにも怖くてそれは訊けなかった。

帰り際に「これ、どこで売ってるんだ?」と聞かれたので、一緒にドラッグストアに行ってあれこれ探しながら買い物をした。
たった一本を選ぶのに30分以上かかったのは、手塚が両手に缶を持って、もの凄く真剣な顔でどちらがいいか
聞いてくるからだった。
何本か使ってみて、お気に入りを探せばいいんじゃない?
というと、目から鱗といった表情でこちらを見る。
目が「不二って頭いいな!」と語っていて、もの凄く居心地が悪いんだこれが。
なんだろう…手塚っておかしくない?




三度目の正直。
とうとう僕がやってしまったのは、やっぱりクラブの更衣室でのこと。
というか、手塚とはテニスクラブでしか会わないんだから、それも当然と言える。


「手塚っていつ来てもいるよね」

そう言ったのは、単なる事実の指摘で、特に他意はなかった。
実際、手塚がサボったり休んだりするのは見たことがない。

「…不二は月曜と水曜と金曜しか来ないな」
「そうだね、僕は週三だし」

言ってみてから何かおかしいな、と思った。

「ひょっとして、手塚って、毎日来てるの?」
「あぁ」
「土曜と日曜も?」
「特別な用事がない限り来るようにしている」

さも当然のように、手塚は言う。
まるで僕がサボっているかのように。

「毎日来てるなんて、じゃあいつどこで遊んでるの?」
そう訊くと、手塚は黙ってじっとこちらを見た。
なにか言いたいことがあるように見えた。

「…何?」
「なんでもない」
「言いたいことがあるならはっきり言った方がいいよ。ただでさえ手塚って何言いたいかわかんないし」
「……」

わざと棘を付けた言葉を向けると、手塚は怒るではなく少し肩を落としたように見えた。

「不二は…」
「なに?」
「不二はなんで毎日来ない?」

「――――だって僕テニスしかしてないわけじゃないもん」
「じゃあ何してるんだ?」

何ってそれは買い物だったり友達の家に行ったり音楽聞いたり宿題したりテレビ見たりカメラの手入れしたり裕太と遊んだり
姐さんと学校の話をしたり…っていう言うほどのことじゃないことばかりだけど。

「…僕だって色々忙しいよ。てゆーか、手塚ってヒマなんだね。友達いないの?」

もちろん、悪意があって言ったことだったけど。
以降手塚は僕を見ても何も言わなくなった。平たく言うと、「絶交」というやつだね。
テニスはしたけど、ラリーの最中もお互い無言のままだった。




  *  *  *


「流石にね、言いすぎたとは思うんだよねー」

次の週の大会で別のスクールに通っている乾を見つけて、全部事情を話した。
何となく収まりが悪くて、コートを囲う金網をがしっと掴んで、ぐらぐらと揺らす。

「でもさ。怒ってるなら「ふざけんな」とか言えばいいのに。じとーって見られるのってすごく気持ち悪い。謝れないじゃん、それだと」
「…まぁ」

乾はいつものようにノートを覗き込んで試合のスコアを付けている。
彼はこちらを振り向かないまま、淡々と僕の話を聞いた。

「俺は手塚の気持ち、わかるけどなあ。俺も友達いない方だからね」

オマケにダブルスのパートナーには逃げられたしね、と彼は自嘲気味に言う。
最近乾は、そのことを茶化して話すようになった。
多分、進歩なんだと思う。前はその話題に触れるな、とばかりに柳に関する会話は拒否していたから。


「分かってるなら乾、どう謝ればいいか教えてよ」
「というかね、そもそも手塚は怒ってるんじゃないし」
「…は? 怒ってるよ。全然話さないもん」
「元々手塚って口下手だろ。不二が話しかけないと会話にならなかったんじゃないかな?」

そう言われてみれば、いつも話しかけるのは僕の方からだった気がするけど。

「手塚が話さないんじゃなくて、不二が話しかけてこないから話せないんだろ」
「…でも怒ってることには変わりなくない?」
「そうじゃないと思うよ。80%の確率で」
「じゃあ何?」

僕が金網から手を放して乾の隣に座ると、彼はパタン、とノートを閉じて得意げに眼鏡を押し上げた。


「不二はこう訊くべきだったんだよ。 『手塚って僕の他に友達いないの?』 って」


「―――ごめん。ちょっと待って。それだとマジ手塚に僕しか友達いないにみたいに…って、ええぇ?」
「マジ手塚には不二しか友達がいないんだよ。つまりそういうことだ」
「……いや、ごめん。ちょっと待ってホント…」
「当然だろ? 週七日スクールに行ってて、放課後は勿論、朝日一人ジョギングとかしてるんだよ。
 土日はたまーに家族でキャンプ。趣味は登山と釣り。家にはDSはおろかプレステもありません。
 そんな手塚に、昼休みにドッジボールを一緒にやるクラスメート以上の友達がいるはずないじゃん」

だから週三で会う不二は、かなりの友達。
そう人差し指でスバリ差された。


……思えば、手塚はデオドランドスプレーを知らなかった。
他の同級生はみんな使ってたのに。
となると、ドラッグストアで買い物をしたのも初めてだったに違いない。
それでもちろんワンピースを知らなくて、「毎日来ないのか?」という質問は、「もっと話せればいいのに」くらいの意味だったとか…。



「ちなみに三メートル後ろの木の陰に手塚が隠れていると思うので、話してきたら?」

乾は振り返りもせずにそう言った。
彼も相当怖いよなー、と思いながら本当に隠れていた手塚を発見して、その顔を覗き込む。


「手塚。今度一緒に映画ワンピース見に行かない?」

謝るとか挨拶とか、前置きを全部吹っ飛ばしていきなりそう話しかけると、手塚は前に見たのと同じ顔を作った。
眉間に皺を寄せて、口を開けて、それから黙って首を縦に振る。
要するにそれが「嬉しい驚き」の表情だってことは、今はもう分かってるわけです。