『非武装論理』



プロとして活動を始めてから、スポンサー契約の話が何件か舞い込んだ。
その中で間違いなく一番いい条件を提示してきたのが、その会社だった。


営業担当の足立さんは30代と思われる男性で、季節にかかわらずやけに黒い背広を着ているのが特徴だった。
随分と気さくな人で、年下の自分でも話しやすかったため、却って突っ込んだ話が出来たのだと思う。

その会社は他のように明確なスポーツ会社ではなく、傘下に幾つかの企業を持つ窓口のようなところだと足立さんは言う。
それにしても、向こうの提示してくる条件は出来すぎだった。
書類を見て、詐欺ではないのかと思ったくらいだ。

もとより疑問を疑問のままにしておく性格ではないので、率直に「何故こんな有利な契約条件になるのかわからない」と告げたところ、
営業担当者は特に隠すわけでもない平坦な口調で返答した。


「契約自体は青田買いとして、うちにとってもいい話だと私は思いますが。ただ、条件が貴方に優位なのは、単に社長が貴方のファンだからですね」

納得がいくようないかないような、しかしわかりやすい理由ではある。
それではこの話をお断りしなければならない、と自分は足立さんに伝えた。

「大変有り難いお話なのに、恐縮ですが、個人のご好意に依存するのは契約とはいえないかと思います」


無礼な言い分かと思ったが、逆に足立さんは安堵の溜息をつき、軽く笑った。
貴方がそう言ってくれて嬉しい、今までの時間を無駄にして大変申し訳ないが、自分もそれが一番いいと思っていた。
こういう甘やかしは良くないと思う、と言うので何かと思ったら、その「社長」というのはどうやらまだ子供らしい。


「応援したいという気持ちはわかりますけど、お金を出して相手に近付きたいという気持ちも皆無だとは言えないでしょう?」

純粋にファンだというのなら尚更すべきではない。
「気持ち」と「契約」は別のものだから、と足立さんは言う。

そこまで考えているのなら先に言えばいいのではないかと思ったが、
「教育係というのは時に失敗がわかっていても見ているときがあるんです」というのが大人の都合らしい。
それから、重ねて時間の浪費をわびられた。
気分の悪い話ではなかったので、特に気にしないで欲しいと伝え、なんだかんだでその「社長」というか「ファン」というか、その子と会うことになった。
営業担当である足立さんの立場もあるだろう。
実際に会って、自分の口で断りを入れた方が、無難に思えたのだ。


そうして実際に会ってみると、社長という肩書きを背負っているからか、少年は12という年齢からは考えられないほどに明晰だった。
左手で名刺を受け取り、改めて相手を見る。
はにかんだ風に見上げてくる顔も、時候の挨拶も、契約に関する話し方も申し分ない。
少なくとも自分が12才の時はこんな子供ではなかった。
そのように、中身は大変大人びているように感じたが、「先月の試合を見ていて」と目を輝かせて語ってくれる様子は、近所の子供と変わらなかった。
途中から、断るのが苦痛になったくらいだ。

けれど、好意を持ってくれているなら尚更、契約はできなかった。
その旨を告げると彼は――跡部はしばらく硬直してから、一言「申し訳ありません」と頭を下げた。
出過ぎた真似をしてお時間を取らせました、と強張った顔で言うので、自分もとても悲しくなる。
だがそれを顔に出せば彼はもっと落ち込むだろうと思い、敢えて表情を消した。

思えば、彼も初めからわかっていたのだろう。
会うべきではなかっただろうか、と少し悩む。契約の辞退を人づてに伝えていたら、こんな表情を見ることもなかったし、 互いに苦い空気を味わうこともなかった。

とても息苦しくて、無粋だとはわかっていたが、言わずにはいられなかった。
好意は嬉しいが、だからこそ受け取ることは出来ない。
逆に、貴方とはビジネス抜きで話がしたいと思う、と。


それを聞いた跡部は困惑の表情を作る。
ビジネス抜きの話とは何か。自分は一介のファンであるので貴方に話せることは他にない、という疑念が浮かんでいる。
そこまで露骨に不思議がられると、いささか居心地が悪い。
そこで、高校生と中学生が友人でも別におかしくないのではないか(当時自分は高3だった)、と伝えると、跡部の表情は余計険しくなった。

正直それはないだろうと。そんな厳しい顔を作られるとは思っても見なかった。
少しは笑ってくれるかと期待していたのだが。

そして、まさかと思うが貴方は俺と友達になってくれるといいたいのか、と極めて回りくどく彼が尋ねるので、
所詮自分も一東京都民であるからして、そんなに大層な存在ではない、というと、彼は―――まったく今思い出しても腹が立つことに――笑い崩れた。

そう、そのときの跡部は思い出すだに腹立たしく、そして愛らしかった。








それから数年を経て、その可愛らしかった子供も、いつまでも子供のままではない。
用事があって久々に東京の借りている部屋に帰ってみれば、やはり跡部はそこにいた。

「よ、手塚。どこ行ってたんだ?」
「区役所だが…。お前、どうしてここにいる」

朝一番で戻ってきて夜には出立するつもりだったので、彼には帰国することを告げていなかった。
ほとんど会う時間もないので伏せておこうと思ったのだが、合い鍵を持つ跡部はちゃっかりと部屋に入り込んでいる。
この数年、自分でも驚くほど長い時間を跡部と過ごした。
会える週末は会ったし、何度も試合をした。跡部の試合を見に行ったこともある。全国大会最後の、彼が負けた試合も見た。
それから数ヶ月音沙汰がなく、突然会いに来た跡部は、ただ黙ってソファに座っているだけだった。
隣で、自分も無言のまま本を読み、時々頭を撫でたりした。
何も言葉がなかったその時間を、なにより得難いものだったと今でも思う。
自分の肩に体重を預けた子供は、静かに眠った。それが跡部が子供のままでいた最後の時間だった。


そして今では軽口どころか憎まれ口を叩く。

「テメー。帰ってくるなら教えろって言ってるだろ」
「ああ、だが今回は…」
「――って言っても面倒がって教えてくれないから、わりと入り浸るようにしてる」

別に面倒だから言わないわけではないのだが。
しかし、この場は分が悪い。

「悪いが跡部、今からすぐ立たないとならないんだ。今日の最終の欧州便に乗るから」
「明日にしろよ。チケットなんてすぐ用意させるから」
「そういう金の使い方は止めろと言っているだろう」

たしなめると、彼はゲーム機を放り投げて床から身を起こし、こちらを下から睨め付ける。

「じゃあ、どうしろっつーんだ」
「快く見送ってくれ」
「やだ」

短く言った後、にこっと笑って両手を首に巻き付け、耳元で甘えた声を出す。
……本当に、跡部はもう子供ではない。


「なぁ、手塚。どうしたら今夜一緒にいられるか、教えてくれよ」

…景吾、と。
そう呼びたくて声が乾く。

「一ヶ月、ずっと、待ってた」

年を取るごとにどんどん甘え方が巧くなる腹黒い相手を前に、どんな抵抗ができようか。
にゃあとわざとらしくしっぽを振る恋人の首に噛み付きながら、心から歎息する。




まったくもって、跡部はもう子供ではないし、こんなことはビジネスではない。