『交錯』
木々の緑の間をすり抜けた日差しさえ、刺すように痛い。
風もなく、空気は熱を孕んでゆらゆらと漂っている。
じわり、と肌から汗が浮き上がっては水滴となって流れ落ち、一人一人の体力を奪っていった。
初夏の終わり。しかし、さながら真夏のように太陽がコートとフェンスと選手たちを焼く。
「降水確率0%、か」
しきりに空を見上げている同級生を見つけ、手塚は訝しく思いながら声をかけた。
都大会の決勝日。天気予報は晴れ。わざわざ念押しせずとも、見上げればすぐに僅かな涼さえ望めないことがわかる。
雲一つない晴天。つまり、テニス日和である。
「雨を気にする意味があるのか?」
「あるよ」
乾は眼鏡を押し上げながら手塚を見下ろした。彼は手塚より僅かに背が高い。
入部当時、手塚はおろか不二よりも小さかった彼は、同級生達に頼りない印象を与えていた。
だが、この一年間、どういう研究と努力の成果かは知らないが、乾の慎重は手塚を追い抜いた。
主に牛乳と小魚が含むカルシウムの成長期への影響実験の結果だと本人は言っているが、手塚個人としては少しばかり面白くない話だった。
この年頃の運動部員にとって、背丈は死活問題である。
事実、乾は今年の春になって初めて、レギュラーの座を獲得した。あの視力を犠牲にしてパソコンに向かった結果であるデータテニスに加えて、
身長まで追い抜かれては、と負けず嫌いの手塚としては、初めて乾の足音を後ろから聞いた春だったといえる。
その手塚の心情はもちろん、全く乾には伝わっていない。彼は肩をすくめて振り返った。
「今、突然大雨になって続きが明日になったら、試合のオーダーが出し直せるだろ?」
「…あとシングルス二試合しかないんだぞ?」
「もちろん、その二試合のオーダーを組み替えるんだよ。部長をシングルス2に。手塚、君をシングルス1に。氷帝に勝つためにはこれしかない」
五年ぶりにこぎ着けた都大会決勝。青学はダブルス2で一勝、対する氷帝はダブルス1、シングルス3で計二勝。
青学が都大会を制覇するためには是が非でもあと残り二試合を勝たなければならなかった。
「このままいくと、結果は九分九厘決まってるんだよ。手塚が氷帝の部長に勝って、うちの武居部長が向こうの跡部に負けるから」
「すると、二勝三敗で青学の負け。準優勝おめでとう、みたいな感じ?」
横から口を挟んだのは不二である。
手塚と同じく、いや手塚より幾分華やかなテニスをする不二は、昨年の新人戦以来ずっと衆目を集めるプレーヤーだった。
天才と呼ばれ、謙遜も否定も驕りもなくそれをさらりと受け取る彼は、青学の中でも一種独特の存在感を放っている。
近寄りがたい雰囲気はなく、気さくで誰とでも打ち解ける人柄だが、手塚は不二が苦手だった。
理由は一つ。不二が手塚を苦手としているからに他ならない。会話はすんなりと通るのだが、二人の間にはどうしても打ち解けた空気が生まれずにいた。
代わりに時々火花が散る。
今日、このときもそうだった。
「あと十分したら試合だってさ、手塚」
「それはいいが、不二。乾も。これから試合だというのに士気が下がるようなことを言わないでくれないか」
「ああ、青学の負けって?」
「残念ながら、確率のことだからな」
「…試合はしてみなければわからない」
いいじゃん、どうせ負けても関東大会出られるし、とあっけらかんと告げる二人に対し、手塚は苦言を呈した。
それが今から試合に出る自分に掛ける言葉か、と。
「だからオーダーに致命的な欠点があったんだよ。シングルス2に回るまでにうちは二勝しておかなきゃならなかった。だってシングルス1は落とすこと確実だから」
「もしくは、シングルス1に手塚を回して、跡部に当てればよかったってこと? あとは、シングルス2で部長同士の対戦で」
「可能性は五分だけど、その方が二勝できる可能性があったよ。もちろん二敗する可能性だってあったけど。今のオーダーじゃ確実に一勝一敗でしかありえないから」
「うちの武居部長だって結構強いじゃない? 跡部って部長を寄せ付けないほどの実力かな」
不二が覚えている限り、跡部の試合のスコアは6-4や6-3ばかりで、圧倒的なストレート勝ちというものは見たことがなかった。
手塚も同様である。
乾は、さっと時計を見て試合開始までの残り時間を計ると、早口でまくしたてた。
「二人とも、跡部の試合見てないだろ。あれ、スコアと現実は大違いだよ。だって彼、本気出してないし。見ればわかるけど、遊んでるんだよね。試合で。
相手の弱点を徹底的にねちねちといびって全力を出し尽くさせたところでつぶす、って感じかな。
スマッシュを決めればいいところを、わざわざ相手の打ちやすいコースで返してあげる、とかさ。一球を決めたときの演出も派手だし、何て言うかパフォーマーで。
手塚は格下の相手にも全力を出して滅多打ちにするけど、跡部は格下になればなるほど弄んで捨てる、みたいな。
まあ性格悪いってことだね、一言で言うと」
本人が隠してるわけでもないのにデータの取りようがない選手なんだよ、と乾は首を振った。
「手塚と当たってれば、彼が本気を出したところを見れたかもしれないのになぁ」
「ふーん、手塚並みに強いってことなんだ。それじゃ、確かに部長じゃ歯が立たないかもね」
「ちょ…先輩に聞かれたらまずいよ」
乾が声を潜めると、不二は軽く首を振った。
「部長はこのくらいじゃ怒らないよ。あ。ねぇ手塚。そろそろコートに行かないとまずくない? 氷帝の例の応援始まってるみたいだけど」
不二の声に追い立てられ、試合会場に立ったが、手塚の意気は上がらないままだった。
試合はあっさりと終わり、当然の一勝。しかしながら腑に落ちない。もうここで勝敗は決しているのだという、乾の断定が。
あっさりとそう言い、けれど雨でも降らないかとこの晴天の中で空を見上げていた彼の心境はどのようなものなのだろう。
二勝二敗、都大会制覇の懸かっている試合。
浮かない顔で(たぶん傍目には無表情で)ベンチへと戻る手塚の脇を、青学の今年度の部長が通り抜けていく。
その際、彼は手塚の左肩に掌を落としていった。
大歓声の中、何とか耳に届いた言葉の意味が捉えられず、思わず振り返る。
レギュラージャージを脱いだその背中は、三年の、部長の持つものだった。
彼の背中に威厳を感じたのだ。そのことに目を見張った。
手塚と武居部長の折り合いはよくない。
それも当然で、去年の入部直後、練習試合に手心を加えた手塚を叱責して腕を打ったのが彼だった。
確かに手心を加えていたのは事実で、気に食わないと言われればそれまでだが、それを理由に暴力を振るったのが、手塚には許せないことだった。
自分がやられたからではない。ラケットで殴られたのが大石でも乾でも誰でも、手塚は怒っただろう。
当時の大和部長に仲裁され、一旦は互いに謝った二人だったが、以来冷戦状態は続いている。
しかし引退時、大和部長は次期部長として武居先輩を指名した。そのことに手塚はひどく驚いた。今でも何故、と問いつめたいくらいだ。
人を殴った彼を部長という責任ある地位につけた、大和部長の心がわからなかった。
今でもわからない。だが手塚は一年前の夏、大和部長を信じようと決めて、冷戦中とはいえ、武居部長にも一定の敬意を払って接していた。
社交辞令として。
場面は変わらず決勝試合。
氷帝の二百名を数える応援団の声が会場を渦巻き、耳の中に捻じ入ってくる。
「…きっついな、これ。うわー部長キレないかなー」
「ていうか、オレが切れたいよ。ふざけんな氷帝。勝つのは青学だっつーの」
手を握り合う大石と菊丸に、不二は頭を掻きながら言う。
「だから、部長はあんな挑発には乗らないってば。見え透いてるしさ」
「だけど、あれだよね。二年のとき、手塚に怒ったんでしょ?」
「まぁ…そうみたいだけど」
不二は手塚の姿を目の端に捕らえながら言う。
「でもねタカさん。武居先輩は大和部長から指名されて、部長を受けたんだよ。
先輩だってバカじゃないよ。部長になれば、今後一年間手塚と比較され続けるってことくらいわかってたはずだ。
でも甘んじてそれを受け入れたのは、武居先輩が部長の器だったからじゃないかと、僕は思うよ。
部長になってから、ずっと「手塚のほうが強いけど」って言われ続けてきて、今だって」
「なんだ、手塚じゃねーのかよ」
コートの向かい側で、氷帝二百人の声援を背負った二年生が不敵に笑った。
「何で奴をS2に使うかねえ。青学は関東で消えちまうから、来年まで勝負はお預けってことかぁ?」
「黙れチビが」
「あぁ? ちょっと背が高いからって木偶の坊が偉ぶってんじゃねーよ」
「氷帝では試合での口の利き方も教えてないんだな」
「お互い様だろ、テメーそれで部長かよ。あんたこれ引退試合じゃねーんだよな、残念だぜ」
「もういいだろ。口は立つっつーのはわかった」
「は、つぶしてやるぜ。部長さんよ。ぜってー手塚を出しときゃよかった、って言わせてやる」
「――あいつは青学の次期部長だ。つまらん使い方はしない」
「んだよ、存外後輩思いじゃん?」
「いいから始めるぜ。男二人で手塚を取り合っても不毛だろ」
「…意外と青学にもユーモアってもんあるのな。じゃ、サーブもらうぜ、とっととくたばれ」
特別に、本気でやってやるよ。
部長を通り越して、視線がベンチにいる手塚に投げられる。
青い目が、あからさまな興味を語っていた。これは手塚に見せるための試合だと。
だが、手塚はそこに何かを返すことはしなかった。
それよりも、耳に張り付いた言葉が何度も繰り返され離れない。知らず、拳を握りしめる。
俺が部長だと?
青学の部長は指名制だ。彼が、武居部長が自分を指すことはないだろうと思っていた。
大石あたりが無難なところで、自分はプレーヤーとして青学を支えていければいい。
一年前、武居先輩が次期部長に指名されたときから、ずっとそう考えていて。
けれど、それでは先ほどの言葉は幻聴ではなかったということか。
『…流石だな。仕方ねえ、お前しかいねぇよ、やっぱり』
「………部長」
この日、跡部と戦って負けた部長の背中を絶対に忘れないと、手塚は誓った。
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