『再戦後』



辛勝と惜敗。
氷帝学園は惜敗である。

その敗退は、部長である跡部さんの敗北によって決まった。そのどちらも、あってはならないことだった。
今まで跡部さんの勝利は氷帝の勝利であり、たとえ氷帝が負けたとしても、あの人だけは勝ちを手にしてきた。
負けたことがなかったのだ、今まで。
氷帝の負けと跡部さんの負けが重なったのは、今回が初めてだった。

ありうべからざることだった。

負けるはずのない試合。年下の、それも一年生相手に。
しかし果てしなく続くラリーの末に、凱歌を揚げたのは青学側だった。

その、最後の瞬間。コートの上、ラケットを離さなかった先輩を誇りに思う。
限界を超えた試合だった。
そして相手が勝利の余韻に包まれる今も、意識のないままそこにいる。
とても側に行けない。
極限のその先に行き着いたその人に、触れる資格があるのは一人だけだ。

同輩、先輩の祝福を受けた試合相手は、少し笑いながら跡部さんに近寄った。
「約束だから、ね」
言って魔法のように取り出した電動バリカン。

「おま…マジかよ!?」

叫んで飛び出したのは宍戸先輩だった。
それを期に、堰を切るように皆が駆け出す。
場の硬直が解けたのは、彼――越前少年のおかげだったに違いない。
痛ましいほどの氷帝の沈黙が一気に瓦解し、収束に向かう。

皆の声に押されたのか、跡部さんはぐっと眉間に皺を寄せて、目を開けた。
そのまま目の前の相手にもたれかかる。その仕草は、半分はわざとだとわかった。

「つーか、重っ」
「―――ウェイト足りねーんだよ、テメーは」
「軽い方がスピード出るっすから」
「いつまでチビでいる気だ? てか、お前なぁ。均等に刈れよ! これじゃ散切りだろ」
「…別にいいっしょ」
「……まさか、お前」
「あとは自分でやれば?」
「待てよ越前ルーキー。背が届かなかったんならそう言ってけ」
「なんであんたそんなに偉そうなの負けたくせに」

け、と跡部は笑ってそのままコートに胡座をかく。

「宍戸。やるか?」
今や幾重にも周囲を取り巻く帝部員の中で、同じく髪を切った同輩に、跡部さんが話しかける。
「遠慮しとく。うまくやれる自信ねえし、つうかそんな責任負いたくねぇし」
「じゃあ、樺地」
「ウス」
呼ばれてその背後に立つ。

「あんたそのくらいも自分でやらないの?」
「お前が適当に切ったんだろうが!」
「てゆーか、なぁ跡部」
腕を組んだ忍足先輩が、呆れたように声を出した。
「気怠いキャラをやめて、今度は爽やか路線かいな? ――あざといわ自分」

不思議なことに、先輩のその一言で場の空気は和み、痛ましい空気が氷解した。
続いて人混みが割れ、相手校の部長が顔を出す。

「跡部」

青学の手塚部長は座ったままの跡部さんを見下ろし、沈黙した。

「手塚」

跡部さんは目線を上げ、やはり押し黙った。
周囲は息を飲んだが、両名共に口を開かない。

「帰るぞ」
やがて自校の一年生の襟首を掴むと、手塚部長は踵を返した。
「え、何も用ないんすか? わざわざ目立っといて」
「言いたいことは言った」
「…いや、いま何も喋ってないっすよ」

言いたいことは言った。その言葉が、目で交わした会話を意味しているのか、それとも言いたいことは一つもないということなのか。
それは自分にはわからない。
首根っこを捕まれて後ろ向きに引きずられていく越前少年が、こちらを見ながら恨みがましそうに言う。
「あれ、オレのなんですけど。部長、バリカンって部費で落ちます?」
スパーン、と額をはたかれながら、彼はこちらに向かって目配せした。

その意味するところはわからなかったが、その視線は跡部さんに向いていたように思う。
ベスト4進出。
青春学園は準決勝に進んだ。



  *  *  *



夕赤に染まる中、学校のコートで二度目の引退式。
とは言え、二度目ともなるともはや語ることなどないのが現状だ。
あの日と同じように、日吉が部長を任じる。
氷帝には副部長という役職はないが、人数の多さからしてレギュラー全員が副部長のようなものだ。

日吉の右手を掴み、跡部さんが言う。
「悪かったな、こんなベスト8こんな結果しか残せなくて」
「結構です。這い上がるの好きですから、むしろ全国優勝じゃ張り合いないですね」

「…口で失敗するタイプやなあ」
日吉の強がりに、忍足先輩が感慨深く呟いた。

ひとしきり日吉と睨み合った後、次に鳳の前に跡部さんが進む。
「フォロー頼む。お前は周りが見える人間だからな」
「えーと、頑張ります!」

敢えて明るく、彼は返事をした。
そして一歩、跡部さんが進んだ。顎の角度を上げ、自分と視線を合わせる。
こんな風に真正面から見合ったことはほとんどない。

「あー…」

やや間をおいて跡部さんが口を開くと、周囲の三年生達が目配せしあい、一歩ずつ退く。
この雰囲気は知っている。罰ゲームの空気だ。

「その、樺地。今までありがとな」

言いよどんだ言葉の先に硬直する。何故、と瞳で問うと跡部さんは僅かに顔を背けて舌打ちした。
ガラじゃねえんだよ、と背後の三年生達に毒づいているのがわかる。

「…俺は、お前の育て方を間違えたかもしれねえな。今回の試合を見て、あのスコアから追いついたお前を誇りに思うし、だからこそ口惜しく思う」
「今までよかれと思ってお前に技の模倣をさせてきた。だが、それで結局お前は勝てなかった。模倣故にだ」
「雨の中、手塚が一つ一つボールの軌道に修正をかけていたのがわかった。球がコートを弾む度に「修正」。ボールを打ち返す度に「修正」。声が聞こえた」
「お前に、それを伝えてやれなかったことを惜しむ。あの手塚と対戦してさえ、お前は変わらないか? その硬直の原因は俺だ」
「だからこれは最後の命令だ。…お前はお前のテニスをしろ」

「………困ります」

声が出た。跡部さんを信じてきた。そうしてきて間違っていなかったと常に、今も思う。だから首を振る。
しかし、氷帝前部長はいつも通りの不適な笑みを浮かべて自分の胸を拳で叩いた。

「――そうとも樺地。俺様を信じろ。お前にはお前のテニスがある。そして、お前は誰より強い。わかったな?」



……ウス。



「というか、我々の立場がないんですけど」
「樺地ばっかりずるいですよ」
「ま、ま。日吉に鳳。大目に見てやれ。跡部は樺地びいきだから」
ニヤニヤと跡部さんに視線を送る宍戸先輩に、鳳が口をとがらせた。

「じゃあ、宍戸さんは俺達を贔屓してくれるんですか?」
「勿論しない」
「…そういう人だよな」

日吉が額を押さえて溜息をつく。

「じゃあじゃあ、最後に試合しよーぜ! 跡部対樺地!」
「うわ、ジローいいこと言う〜。それ見ものだぜ」
「馬鹿を言え。俺には勝たせねえよ。なぁ樺地?」
「ウス」

「うわ…、今までのいい話がダイナシやん」
眼鏡を押し上げた忍足先輩に対し、向日先輩が嘆息した。
「侑士って、意外と冷めてるふりしてこーゆーベタな展開に弱いんだよなぁ」
「ひどいわ岳人。「意外と」やないやろ。今日の試合見てたやろ」
「ああ、「心を閉ざす」とかいう哀しい技な」

わっと一斉に沸く三年陣を、日吉や鳳が冷たく眺める。

「俺達はああ・・はならないからな」
「同感だよ。ねえ樺地」
「ウス」

どちらかというと、常に騒がしかったOB達を眺めて、来年度の静かな氷帝を同輩と誓う。

「―――お前ら」
跡部さんは、こういうときは地獄耳だ。
その視線が流れると同時に、三年レギュラーの全員が振り返った。

「つうか、来年青学に負けたらお前ら全員ボーズな」
「あ、それいい! 伝統にしようぜ」
「坊主の長太郎かー」

「ひ、ひどいですよ先輩達。横暴です」
「だったら今、先輩達が丸刈りにしたらどうですか」

わめく後輩に向かって彼らは、各々ラケットを構え全員同じ表情で―――眩しいものを見るような目つきで、口元を吊り上げた。



「「「そういうことは、俺達に勝ってから言え」」」




その日、コートの明かりは遅くまで消えなかった。