『春望』



新幹線で1時間、鈍行列車で30分、更に乗り換えローカル線で1時間。
東京駅を発ってまだ3時間も経っていないというのに、「ここは日本か?」と馬鹿な質問をしてしまいそうなほどの緑の洪水が眼前に開けている。
緑の洪水と言えば聞こえは良いが、要するに人っ子一人いない田舎の風景だ。
向かいに座り春の日差しを反射する眼鏡の男に、「コンビニくらいあるんだろ?」と思わず聞きたくなった。
しかし「誰が買いに来るんだ?」と素で返されそうなので、一呼吸おいて内容を改める。

「まさか、自販機もないんじゃないだろうな」
「…誰が買いに来るんだ?」

負けた。

こんなはずではなかった。何故こんな山奥という表現も慎ましい"秘境"に足を踏み入れなければならないのか。
てゆーか、何故こんなところに電車が通っている。
さっきから車の一台も見かけない。2階建てはおろか、民家すらまばらなこの場所に、電車を通す意味はあるのか。
どっから出てんだこの税金。
乗客だって、俺と手塚しか居ない。

なんとなく、千と千尋の世界を思い浮かべて、このまま俗世間に戻れなかったらどうすればいいか、と本気で心配になってくる。
さっきあった駅、崖と山に囲まれて、家はおろか道すら見えなかったが、あれは間違いなくどこか別世界に通じているだろう「川崎駅」。
名前だけは、都会めいているところがまた堪らない。

がたごとと揺れる時速30キロも出ていない、ひょっとしたら俺の全力疾走にも劣るんじゃないかというローカル線に揺られ、
俺がファンタジーの世界へと逃避している間も、向かいに座る男は嬉々として等高線の書き込まれた地図を眺めている。

「酔うぞ」
「平気だ。この揺れには慣れている」

…そうだな。この電車揺れるな。よくこの横揺れする電車で、鉄橋を渡れるものだ。
さっきの鉄橋、当然の如く左右に落下防止柵なんかなかったが。(そもそも鉄で出来ていたかすら怪しい)
あの時地震が起こったら、俺と手塚と運転手で三名分の墓標が川の真ん中に立ったよな。(絶対助からねえ。救急車来ないし、てか即死だし)

「そもそも何だ、その地図は。オリエンテーリングでもするつもりか」
「これは登山用だ」
「……そう、まずはそこから聞きたいもんだ。俺、昨日お前の家に泊まりに行ったよな、そのとき釣りがしたいとか言った気がする。
 それで、何故俺は今こんな所にいるいなきゃならねぇんだ」
「釣りと言えば渓流だろう」
「わざわざこんな山奥に来てまでやりたいわけじゃねぇって」
「……跡部、お前には感謝しているんだ」

手塚はいけしゃあしゃあとしか形容できない表情で、眼鏡を押し上げた。

「今年の春休みは父の休みが取れそうになくて、けれど一人で旅行させるのも、と渋られていて。お前が一緒なら、と父も母も許してくれたし」
二人で旅行できてとても嬉しいと思う、と取って付けたように言ってのける。

国晴さん、彩菜さん、見込んでくれてとても光栄ですが、どうして俺なんかがこいつの暴走を止められると思ったんですか…。
快く俺と手塚を送り出してくれた手塚の両親の人の良い顔が目に浮かぶ。
手塚、お前両親のどっちにも似てねえよ。
むしろ俺の方が似てるんじゃないか、と思うくらいだ。(それはないない、と不二あたりに突っ込まれそうだが)
少なくとも手塚よりは、俺の方が手塚の両親には似合っていると思うんだがな。

今朝、息子を送り出した両親の晴れやかな表情を見てそう実感した。
そんなに山に行きたいことを無言で主張していたのか、手塚…。
だいたい、彼氏と旅行する言い訳に友達を使うのはありだろうが、一人で旅行したいダシに彼氏(俺だ)を使うのはあり得ないだろ?

この分だと、明日は早朝(五時はくだるまい)叩き起こされて、等高線の描かれた地図を片手に嬉々として山道に分け入る手塚の背中のリュックを眺めて一日が終わることは間違いない。
それが15の春の思い出になるんだぜ?

ひどい目眩を覚えて顔を伏せると、流石に手塚も気が付いたのか、心配そうに声を出す。

「どうした跡部、気分が悪いか?」
「いや…」
「こちら側に座るといい、電車の進行方向と逆だからだろう。酔うのは」
ぽん、と手塚は真横の席を叩く。

………この無人の車内で隣同士に座るのもな。

そう強く思うが、役得は捨てない。
ついでに嫌がらせとして奴の左手を握ってやると、手塚は目を細め、俺の右手を握り返した。

「そうだ跡部、窓を開けてくれないか? あいにくと、俺の利き手はふさがっているからな」


反則並の笑顔で言われて二の句が継げず、硬直する。

せめて箱根あたりまで、首都東京に近づかないと、この力関係は逆転しそうにない。
将来手塚と一緒に住むときは、絶対に都会を選ぼうと心に誓った。