『讃頌』
いくら物事にうとい自分でも、「二人で会いたい」というメールの意味が「二人きりで」という意味を持つことくらいはわかる。
だから、送信者が跡部だと気が付いたときにはひどく驚いた。
青学と氷帝、テニス部同士の集団で、練習をしたり遊んだりしたことはある(蛇足だが、前者と後者の意味はそう変わらない。練習は、いつのまにか遊びと化しているし、遊びはいつの間にか勝負と化しているからだ。仲がいいのか悪いのか、微妙なところだ)。
だが、跡部個人とそう長く話したことはなかった。
跡部のお得意の滔々とした一人語りは別として、二言三言、言葉を交わすと彼は急に黙ってしまう。
その時の表情は忘れがたい。眉間に皺を寄せて、むっつりと押し黙る。まるで無言の非難を浴びているような気になる。それでもこちらに非があるとは思えないので(大体、失言できる長さの会話をしたことがない)黙って見つめ返すと、彼はふいと目を背ける。
それでお終いだ。
だから、なんとはなしに嫌われているのかと思っていた。
まあ謂われのない敵意は慣れたものだ。だから、全然気にならなかった。跡部が自分を嫌っていようと、俺は跡部が嫌いじゃない。そう思っていたから。
約束の場所。川縁で、跡部は膝を立てて座っていた。
空を見上げながら、鼻歌を歌っている。それは、中学生なら聞き飽きるくらい聞いている歌の一節で。…つい最初の挨拶を吹っ飛ばした。
「テナーのパートだな」
跡部は急に降ってきた声に驚いたようで、自分の顔を凝視し、それから瞬いた。
「お前はバスだろ」
「あぁ。お前ほど高い声は出ない」
「俺だってバスだぜ本来は。テノールの人数が足りねぇから回されたんだよ。ま、俺様は音域広いから」
ニッと笑う。自慢げに。
そう、本来こういう風に笑うのが跡部のはずだ。久々にその表情を目にすることができた。本当に久方ぶりに。
一度断って、隣に腰を下ろす。
「いいも悪いもないだろ、ベンチってわけじゃないんだから」
ただの草っぱらだろ。
言いながら、彼は自分と逆の方向に顔を向けた。
――どうしてそこで目を逸らすんだ。
そうは思ったが、顔には出さない。思ったままを言葉にしたら、跡部は今すぐにでも帰ってしまうだろう。そんな気がしたのだ。
「…そういえば、ピアノも弾けると聞いた」
「勿論だ。コンクールで伴奏したこともあるぜ」
「そうなのか? うちじゃ男の弾き手は見たことがないんだが。すごいな」
「んなことねえよ。うちの学校じゃ、弾けるのが普通」
「つくづく氷帝は普通じゃない」
「なんだよそれ」
くつくつと喉を鳴らす跡部の横顔を見ながら、少し安堵した。上手く会話が運べたのが嬉しい。挨拶はしそびれてしまったが。
「お前ならバイオリンも弾けそうだ」
「この俺が弾けないわけねえだろ」
「…そうか? この間音楽の時間に触れたんだが、随分ひどい音が出たぞ」
「うわ、それ見たかった。バイオリンをキィキィ鳴らしてる手塚! おもしれえじゃん」
「ひどいな。俺は結構困ってるんだ。じきにテストがあるんだが、一向に音らしい音が出ない」
「そりゃ、弦の持ち方か何かがおかしいんじゃないか? 弾けないんじゃなくて音が出ないなんて、事態は深刻だぞ」
「だから困っていると言っているだろう。大石なんかは凄く上手いんだがな。何でも出来るというのはあいつのことだな」
「…俺だって不得意科目ねえけど」
ぼそっと跡部が呟く。その言葉を信じないわけではなかったが、一応念を押した。
「家庭科もか?」
「当然だ」
「…それはすごい。今度教えてくれ」
「どっちをだ? 料理、それともバイオリン?」
「今は後者だな。事態は切迫している」
「お前が言うと、なんでもすっげぇ大事みたいに聞こえるなぁ。たかがテスト、たかがバイオリンだってのに」
「たかが、じゃないだろう。俺もお前程度には努力したいと思ってるんだ」
「努力?」
急に低くなった声に驚いて跡部を見ると、彼はいつもの、あの渋い顔をしていた。
どうやら気に障ることを言ってしまったらしい。が、思い当たる言葉はない。
「努力なんかじゃねえよ。別に、普通にしてたら出来るだけだ」
「俺はそうは思わないな」
真っ向から否定する。
ああ、そうか。跡部は「これ」が嫌だったんだな。
…わかったけれど、言葉は切らなかった。
「なんでも「出来る」と言えるようになるまでには、多少はあるとしても相応の手間を掛けることになるはずだ。それを努力と言うんじゃないのか?」
「てめぇは、どうしてそう…」
言いながら、跡部は膝に顔を埋めた。
「嫌いだ」という短い言葉が耳に届いた。
「お前と話すとわけわかんなくなる。どうして、いつもいつも……今日だって、言いたいことがあったはずなのに、全然、思い出せねえし」
それは、たぶん。
自分にとって都合のいい憶測が浮かんで、苦笑した。割と現金だという自覚はある。黙ったまま、ポンと頭の上に手を置いた。
「俺は今日、何を言いに来たか、覚えているぞ」
「…なんだよ」
顔を上げないまま、跡部が尖った声を出す。
「また会いたい」
やはり跡部は顔を上げなかった。ずっと黙ったまま、顔を伏せていて。日が落ちる頃になって、小さく「俺も」と言った。
次のメールからは、「二人で」と特記する必要はなくなった。
「ただそれだけの話」といえばそれまでだが、俺には「それだけ」と言う気にはなれない。跡部もそうだろう。きっと。