『憶測』
テニスをするときには時計はしないものだ。
夏の教室で腕時計をしないのと理由はほぼ同じである。
しかも、跡部が相手だと滑ったり転んだりという確率が格段に高い。
愛用の腕時計を、一日で潰す自信が手塚にはあった。
それに第一、練習をしているときに時計などは見ない。
付ける意味がないのだ。だから、その日もそうしていた。
コートを入れ替えるときに跡部が携帯のメールをチェックしなかったら気が付かないままだったろう。
「…手塚」
「なんだ? 急ぎの連絡か」
「終バスまであと5分」
疲れで丸まっていた背筋が一気に伸びた。一言も交わさず、視線さえ合わす暇もなく。
手当たり次第に荷物をテニスバッグに詰め込んでいる跡部の気配を感じつつ、駆け足でコートに散らばったボールを回収した。
投げつけられた荷物を担いでそのまま走り出し、残り三分。
駆け込み乗車はいけないということはわかっていたのだが、その規律を守るだけの余裕はなかった。
よっこらしょ、と言わんばかりに座席にどっかと腰を下ろした跡部の一つ後ろの席に座る。
乱れ髪もいいところ、四方に跳ねた髪を手櫛で梳いてやった。案の定、大してマシにはならなかったが。
跡部は頭を押さえて「痛いって」と、振り向き様に笑った。
それからどうやったものか、彼は手早く自分で髪をまとめ、それなりの外見で席を立つ。
跡部の方が降りるバス停が早い。軽く挨拶して、その日は別れた。
帰宅して荷物をバラしたら、何故か跡部の携帯やタオルが混じっていて、さらには自分の手帳やリストバンドが無くなっていて、正直どっと疲れてしまった。
まあ、お互い急いでいたから仕方がない。明日にでも取りに行けばいい。
眠気に襲われつつ風呂に入る。
ふと、口元に指を寄せた。そこに残っていた髪の感触が、唇にうつった。
まさか。
そんなことがしたかったわけじゃない。
ただ乱れていた髪を直そうとしただけだ。無意識で。
けれど、指先を唇に持っていったことも無意識で。
「まさか…な」
指を噛みながら、呟く。
今すぐ跡部を呼びだして何かを訴えたい気持ちに駆られたが、言うべき言葉は何一つ思い浮かばなかった。
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