『記憶喪失』



マンガで言えば、記憶喪失とは王道の一種で、ともすればネタ切れのレッテルを貼られるほどの最終兵器なのだと忍足は言った。


それに対する俺の反応は「…はぁ」。

「まさかそないな素敵なことが自分の目の前で起こるなんて」
「やっぱ跡部は外さんやつやな〜」
「俺、忍足いうん。親友やからなんでも聞いて」


…そこまで言われて目の前の関西弁を信用する気になれるだろうか。
否。
即座に振り返り、周囲の連中の中で一番顔が引きつっている短髪に話しかけた。

「悪いがお前が一番信用できそうだ。色々教えてくれ」


  *  *  *


校内の反応は様々だった。

「跡部じゃないみたい」
「跡部が床に落ちた消しゴムを拾ってる…!?」
「跡部に礼を言われた。こわい」

訂正する。校内の反応は一様だった。

「……前の俺はどんなだったんだよ!」

突っ込んでみたが短髪は(彼は宍戸と名乗った)、「向こうの反応が正しい」と首を振る。
とりあえず、人間関係以外の地理・日常生活系の記憶は特に欠損しているわけでもなさそうなので、部活に出るのはやめて家に帰った。
宍戸が「誰が榊に言い訳すんだよ」とわめいたが、「榊って誰?」の一言で押し黙った。
こういうとき病人は得らしい。(別に病気ではないが)
彼は舌打ちして、「一週間で戻らなかったら病院送りだからな」と釘を差した。

善人な。
あれは人生苦労するだろうな、というのが彼に対する感想である。


  *  *  *


帰宅したら携帯が鳴った。
表示を見ても誰かわかるわけがないので今までどの携帯が鳴ろうが、放っておいたのだが。
(てか何台携帯あるんだよ。どう使い分けてたんだよ。マジで)

液晶パネルの表示は「青学部長」だった。

うん。これなら誰だかわかる。少なくとも相手の素性は。
つい、通話ボタンを押した。


「…もしもし」
「ひさしぶりだな」
「あ、まあな」

ここで「俺いま記憶喪失なんです」などと言ってもかなりアホらしいので言えなかった。
自分なら、つまらない冗談だと盛大に見下すだろうし。

「じゃあ明後日の一時に行くから」

別れの挨拶がそれで、慌てて携帯を握りしめる。

「ちょっと待て。行くってってどこに!?」
「…お前の家にだろう?」
「あ…そ? えぇ!?」
「なんだ?都合が悪くなったのか? そーゆーことは早く言え」
「違う。都合は全然悪くないけど…? あの、その約束いつしたんだったかな?」
「先週だろう。どうしたんだ? 眠いのか?」
「いや違う。大丈夫だから。うん。」

待ってる、と言って強引に電話を切る。

混乱した。
あぁもう最初から考えよう。

青学部長――って誰だ?



学校で宍戸に聞く。手塚というらしい。
メガネで生徒会長で勉強ができて顔がよくて、常に仏頂面の不可解な人物らしい。
で、俺とは犬猿の仲らしい。
なんでも昔俺がこっぴどく無視られたんだと。以来俺は奴を目の敵にしているとか。(と自分のことを人からきくのは妙な気分だ)

………なんでソレがうちに来るんだ?

流石にその疑問はぶつけられなかった。


うーん。だからって今更「すみません俺いま記憶喪失なんです。また出直してきてください」とは言えない。
まあいいか。なるようになる。
それに興味があった。仏頂面のメガネってどんなんだ?


  *  *  *


仏頂面のメガネというのは、仏頂面のメガネだった。
てか、宍戸は正しかった…。
まさに彼の言うとおりであり、それ以外ではない。

「久しいな」
「うん。手塚?」

でいいんだよな? 名前。

「なんだ」
「いやなんでも」

確かに仏頂面には違いない。
が、別に怒ってるような顔じゃない。たしかに無表情には近いが、でも少し、笑ってる、よな?

「跡部、お前着替えてないのか?」
「は?」
「早くしろ。練習の時間は貴重だ。先にコートに行っているぞ」
「…はい」

なんでお前がうちのテニスコートの位置を知ってるんだよ!
って突っ込んじゃ駄目ですか?

手塚の服装はジャージにラケット。確かに練習をしに来た格好だ。
なんだ。部長同士で仲良かったんだ。
宍戸の話と一致しない。何故だ…。どっちかが嘘を付いているのか。

着替えてラケットを詰めたバッグをもって、いそいそと(としか形容できない足取りで)コートに向かう。
手塚はサーブを打つ位置に立っていた。ぽーんと、黄色いボールを弾ませている。
似合うな、と思った。

「何をしている。早く入れ」

あ、俺がそのサーブを受けるわけですか。
へっと笑みがこぼれた。リターンエース、入れてやろうじゃないか。


  *  *  *


試合形式の練習。
6−6のタイブレーク。12−14で負け。

「くっそ」

ぜいぜい息を切らしながらベンチに座る。
試合の最中は無心だったと思う。
それにいい勝負だった。実力伯仲というやつだ。気持ちがいい試合だった。

手塚は自分の隣に腰を下ろす。

「疲れたな」
「…そうだな」

手塚は自分のタオルを俺の頭からかぶせた。
タオルはかなり大きく、視界の大部分が白で覆われた。

「汗を拭け。風邪を引くぞ」

言って、そのまま手塚の顔が近付く。
あ、眼鏡してない。いつはずしたんだ。
思う束の間、唇に柔らかい感触。

「――――――――な、な、な!」

反動で手塚の顎にアッパーを喰らわせ、立ち上がった。
タオルがバサッと頭から落ちる。

「おま…今、きっ」
「…今のは痛かったぞ」

手塚は顎をさすっている。

「あ、わりぃ…じゃなくて!」

「なんだ? 何を怒っているんだ?」
「何をっておまえなー!」

拳を握りしめる。

外でするなっていってるだろ
「外ですんなっていつも言ってるだろ!」

どうしてお前にはデリカシーってものがないんだよ
「どうしててめぇにはデリカシーってモンがないんだよ!」

対して手塚は頭を掻いて、しれっと言う。

「したかったからしたんだが、悪かったか?」
「時と場所を考えろ! マジで!」
「いいだろう。どうせ誰も見てない」
「そーゆー問題じゃねえ!」
「じゃあどういう問題なんだ?」

「だから――――あれ?」

あれ?

「どうした、跡部。大丈夫か」


言いたいことは色々ある。
不意打ちするなとか、昼間の屋外はヤメロとか、どうしてそう照れなくやれるんだとか。
俺ばっかりいつも慌ててて格好悪いとか。

まあ、それはこの際おいといて、だ。

「………あのな、手塚」
「うん?」
「俺、さっきまで記憶喪失だったりした」
「はぁ…」
「だから、覚えてなかったお前のこと」
「冗談にしてはつまらんぞ」
「あぁ。俺も何だか悪い冗談だったような気がしてきた」
「………?」
「ま、いっか。もう全然思い出したし」
「そうか? まあお前が納得してるなら俺は構わないが。お前がおかしいのはいつものとこだしな」
「…言ってくれるじゃねえか」

というわけで―――

指をぼきぼきと鳴らす。

「俺の許可なく俺に触るんじゃねえ!」

いつもの喧嘩だった。
そうだ。よく喧嘩をしていた。
こないだも。
だから携帯の表記を腹いせで「手塚」から「青学部長」に書き換えておいたのだ。
子供じみた腹いせで。




…しばらく元に戻してやるものか。