『平凡』



江崎書店で白迷記シリーズの最新刊を買った。



顔には出さないが、心持ち浮かれながら帰路についた手塚は、見知った顔が脇を通り過ぎたのに全く気付かなかった。

「ちょっと待てっつってんだろ!」

左肩を掴まれ、一瞬震えて振り返る。
黒いビニール地のバッグを肩から掛けた知り合いが夕日の中、不機嫌そうに眼鏡の奥を睨んでいた。

「跡部か」
「それ以外の何に見えるよ」

彼は一歩離れ、腕を組んでポーズを取った。
相変わらず芝居がかった動作だ、と手塚は考える。

「何か用か?」
「別に用なんてねーけど。大会も目前だってのに、ライバル校の部長を前にしてつれない態度だなオイ」
「氷帝とうちでは、ライバルと言うには差がありすぎるだろう」
「おお、謙虚なこって。じゃあサービスで教えてやるが、俺に嘘を付くならもうちょっとマシな顔用意しといた方がいいぜ」
「御忠告痛み入る」
「………で?」

改めて、跡部は顎をしゃくった。

「ここで何してたんだよ。青春台は逆方向だろ?」
「新刊を捜して歩いてた」
「何か出たのか?」
「白迷記の11巻」
「あぁ、三奈和真ね」
「読んでるのか?」
「5巻まで」
「勿体ない。次からがいいんだが」
「しゃーねーだろ。図書館でずっと貸し出し中なんだよ」
「買うほど面白くないということか?」
「なんでそうなる? 世の中には公共機関ってものがあるんだぜ? わざわざ金出さなくても読み放題じゃねぇの」
「…?」

何かが根本的に噛み合っていない気がして、手塚は首を振った。
その拍子に、跡部の持っているバッグからはみ出している緑の物体が目に入った。

「それ」

指を差す。

「ネギがどうした」
「確かにネギだな」
「お前細ネギ派とか? うちの親父もそうなんだけどよ」
「いや、そういう話ではなくて。何故バッグから太ネギがはみ出ているんだ?」
「は? 今時スーパーに買い物袋も持たないで行くわきゃねーだろ。エコロジーだよ」
「いや、そういう話ではなくて」

段々跡部の自分を見る目つきが胡乱になっていくのを感じて、手塚は出てこない言葉を探すように十本の指を不規則に動かした。

「スーパーって?」
「『スーパーいやま』。今日特売日だったからさ」
「特売日?」
「火曜だから」
「火曜だから?」
「どうしちまったんだよ手塚。変だぞ」
「――――――」

ちょっと待ってくれ。
眼鏡の上から額を押さえ、熟考する。

「……跡部。お前、庶民か?」
「つーか意味が分からねーよその質問」
「いや、だって、氷帝だろう?」
「あぁ。氷帝生だけど」
「あそこは幼稚舎から大学までの完全エスカレーターの伝統私立…だろう?」
「あ、そーゆー意味? だって俺特待生だもん。中学からの編入だし」
「そうなのか?」
「俺、中央小だぜ?」
「…俺は南小だ」
「近いじゃん」
「そうだな」
「で?」
「……………いや、すまん。納得できん」
「だから何がだよ。うぜぇな。もう帰るぞ」

踵を返しかけた跡部の肩を、今度は手塚が掴む。

「何だよ」
「ここからお前の家は近いのか?」
「まあな。何? 来たいわけ?」
「出来れば」
「なんだよ。腹減ってんならそう言えばいいだろ。大丈夫だぜ、鮭の切り身は四切れあるから」

そうじゃない、跡部。

余程そう言いたいのを我慢して、手塚は跡部に続いた。
途中、ホストの機嫌を損ねない程度の簡単な質問をいくつか投げる。
返答の全てが予想外で頭が割れそうになるころに、跡部は「そこ」と指さした。

視線の先に見えるのは、ごく普通の一般家屋である。
「お前の家か?」
「そう。35年ローン。誰が返すと思ってんだか」

言いながら玄関を開ける。

「ただいまー」
「おかえりなさい。あら、お友達? 珍しいわ」
「これ手塚。青学の部長なんだよ」
「まぁ、部活帰りなの? お夕飯食べてって頂戴ね」

ごく普通の主婦の方だった。
紺のエプロンをしている。

「お邪魔します」と挨拶し、靴を揃えている間に、跡部は台所に顔を出していた。

「おい、この保険のパンフはなんだよ。まさかまた乗り換えた?」
「あら、ちゃんと言っといたわよ。うちは息子の許可がないと判子は押せませんって」
「フツーは旦那だろ?」
「だってお父さん反対なんてしないもの」
「帰ってきてんのか、あの親父」
「ひどいなぁ。いるよ景吾」
「この不況の折に六時に家にいるなよ、おかしいだろ!?」
「だって父さん昼行灯だし」
「自分で言うな! ったく…」

新聞を握りしめながら廊下に出てきた跡部は、廊下の奥を示して目配せした。
「上、俺の部屋だから」
よく見ると、彼が持っているのは英字新聞である。

「俺以外誰も読まねーんだよ」

ぶつくさ言いながら、跡部は階段を上った。


 *  *  *


特にどうということもない部屋。
そこに入るなり、手塚は真顔で問いかける。

「どこの橋の下で拾われたんだ?」
「――その冗談はもう何百回と聞いた」
「いやしかし…見事に顔しか」
「そうなんだよな。顔だけしか俺に似てねーんだよ、あの人達」
「逆だろうそれは」

カーペットの上に胡座をかく跡部は、心底不思議そうに語った。

「俺サプリとか好きなんだけどよ。お袋はそういうの全然ダメなんだよな。全部自分で作っちまうの。料理なんてダシから作ってんだぜ? パンは粉から。カレーはルーから。化学調味料とか体に悪いっつってよー。カップラーメンって喰ったことねえし」
「………ほぉ」
「笑いたきゃ笑え」
「いや…少し納得した。じゃあその量産品じゃなさそうな服も、」
「布から出来てます」
「なるほど」

ひらひらと、袖が振られる。

「親父は親父でアレだろ? 人の良さだけが取り柄ってやつで。まあ、人脈はすげえ広いんだけど、それだけというか」
「いい人そうだったが」
「口癖は『脱サラして農業がやりたい』だぜ? 簡単に言うなっての。農業はこれからすげー厳しいのに」
「そうなのか?」
「別に俺はいいんだけどよ。行くならいきゃいいんだ。俺だけ東京に残るから」
「それはよくないだろう」
「そうなんだよなー。一人暮らしさせたら、絶対食品添加物を山ほど取るって、お袋が反対でよ」
「…いやそういう話では…。第一、テニスはどうするんだ」
「そこは監督に頼るしかないよな〜。小学生の時から援助してくれてんだ」
「援助とか言うな。いかがわしく聞こえる」
「あの人が?」
「お前はあの監督に疑問を感じたことがないのか…?」
「…………やっぱ変に見えるか? 岳人とかがすげー主張してるんだが。俺は金持ちはああゆうのが普通かと思ってた」

肩を竦めてみせる跡部に、手塚は同じように微笑した。

「お前は普通だな」
「当然だろ」
「いや…、でもちょっと変わってるだろう? せめて帰国子女くらいでないと――そう言えば、ドイツ語が話せると聞いたが」
「独学だよ。これ」

言って跡部が顔の前に掲げた物は『NHK外国語講座6月号』と書かれたテキストである。

「今は中国語だけど。三国志読んでんだ」
「……お前は魏が好きだろう」
「わかるか? やっぱ曹操だろ。あの指導者の資質には憧れるよな」
「悪役だぞ」
「お前、吉川版読んだ? 俺は断然、秘本だね」
「道理で……。お前は後輩を自分の護衛か何かと勘違いしてないか?」
「樺地? 典偉か許猪かで迷うとこだけどな」
「だからそれは違うと」
「手塚は誰が好きなんだ?」

やや逡巡の後、口元を押さえながら「関羽」と告げた手塚を、笑い声が襲う。

「関羽! いい! それいい笑えるてめーにぴったりだよあははははははは!」
「…曹操好きに言われたくはないな」
「おうとも。仇だもんな」
「だから笑うなと!」
「じゃあ俺関羽を勧誘しないとー」
「死んでも靡かん」

「…だな」

不意に真顔に戻り、跡部はにたりと笑う。

「遂に手に入らないのなら、首を愛でるも一興」
「それは演義だ」
「あぁ俺は正史派だぜ?」
「歴史通りなら、俺が靡くことは有り得ない」
「いいねぇ。そこが好き」

ちゅ、と軽く『NHK中国語講座』に唇を落とす。

「やめろ。気色が悪い」
「…俺は本気だけど?」
「…………………」
「お前が俺に勝ちを譲ってくれないなら、その腕潰すよ?」
「……どうしてそれを」
「さっき。道で肩を叩いたとき。左を庇ったよな?」

わざとらしく、一つ一つ念押しの言葉を吐く。
真綿で首を絞められるような息苦しさと殺気を感じて、手塚は僅かに仰け反った。

「だけど」

「殺すのは、好きだからなんだぜ?」

息が止まった。
表情が強張り、言葉が見つからない。
こいつは本気だ、とわかった。
自分に本気を要求しているのだとわかった。
殺らなければ殺られる、と思った。

もとよりテニスはそういうスポーツだ。


 *  *  *


「ごはんよ〜」
「あー…。今行くー」

日常の声に中断されて、一気に緩んだ空気。
それはいつも以上に暖かく感じた。

跡部は冊子を放り出して腰を上げる。
続いて立ち上がった手塚に、跡部は目配せした。

「なぁ、夏が終わったらどうする?」
「受験生になるな」

聞いた跡部が驚嘆する。

「おいおいおい。この期に及んで日本の高校行く気かよ!留学しろっての!」
「お前こそ留学すればいいだろう」
「俺はいいの。そんな金ねえし。それにあの親達をほっといたら危ねーだろーが」
「そういう問題だろう?」
「…うん?」
「だから、結局そんなものなんだろう。決定打になるのは」
「…あぁ」

そこで跡部は「お前も同じか」と言って笑った。


 *  *  *


先に階段を下りながら、振り返らないまま跡部が言う。

「手塚」
「何だ?」
「俺が勝ったらデートしようぜ」

「ことわ」まで言いかけて、「早くなさい」という声に遮られて、階段を下りきってしまった。
目の前はリビングである。
封じられた言葉の、続きを伝える機会は遂にこなかった。