『全敗』



部活の時間が終わると、皆は一斉に部室へと入っていく。
「お疲れっした!」
元気に叫んで帰っていくのは2、3年生で、コートの片付けをした1年がそれに続く。
レギュラー達が部室へと戻るのは、その後のこと。
乾主催の『今日の反省会』をクリアしなければ、彼等は帰路につくことが出来ない。


やっとのことで部室に入り込み、一同よろけながら荷物をまとめていると、大石が明るい声を出した。

「手塚、あのさ」
「何だ?」
眼鏡に飛んだ汗を拭きつつ、彼は振り返った。
「ちょっと打ってかないか? 明日から三連休で、土日は部活ないから」
「ああ、今日は多少遅くなっても構わな……」

言いかけた手塚は、はっと気がついたように口元を右手で覆った。

「…どうした?」
「いや。今少し悪寒が――」
「へーえ。部長って霊感あるんすか?」
「ないって桃城。あるとしたら、英二だよね」
「んにゃ。俺霊感なんてないって〜。ただちょっと時々赤の緑のチカチカとか、なんか丸いものとか、首から下がない爺ちゃんとかが見えるだけで」
「それ。十分っすよ」
「えー? そうかなー。不二とかの方がむしろ見えそうっしょ?」
「そんなことないよ。…そうだな。僕も姉さんに少し占いとか教えてもらったけど、当たらないしね」
「的中率は何%くらいかな?」
「三割ってとこ?」
「それは確かに『当たらない』の範疇にはいるな。一般的に占術系の…」
「乾うるさい」
「あはは。英二も言うようになったねえ」

「それでは先に失礼する」

皆の会話の隙をついて手早く荷物をまとめていた手塚が、いち早く部室の扉をくぐる。


「ち。逃げられた」

不二の舌打ちが背中を追いかけたが、彼は振り返らなかった。

「不二〜。頼むから週末くらいは手塚に心の休息をくれてやってくれ」
「いや大石。僕は手塚と仲良くなりたいからわざわざコミュニケーションを取ってるんだよ。仲良くなるつもりがないなら、わざわざ話しかけたりしないし」
「それにしても、ちょっと言いすぎだと思うんだけど」
「…ごめんタカさん。心配掛けちゃって」
「そこで手塚に謝んないところが不二だよにゃ」
「今日の不二と手塚の直接会話は、見ていた分には一回しかなかったが」


…………青学テニス部の面々は、基本的に自分本意。協調性が足りない方々だったりする。


 *  *  *


帰り道、いつの間にか手塚は走っていた。
ランニングのペースではなく、全力疾走で。
急がなければ。今ならまだ間に合うかもしれない。

けれども、悪い予感ほど当たるもの。今回もその例に漏れなかった。


ごく一般的な日本家屋が手塚の祖父の持ち家である。
もっともそれは三十年ほど前の標準であり、今となっては貴重な建築様式だとも言える。
瓦屋根、縁側、大黒柱。この三種類が揃っているのが手塚家の特徴だ。


彼は己の家の玄関の前に仁王立った。
勝負である。
木枠に硝子の嵌った引き戸に手を掛け、勢いよく戸を開いた。

そして開けたときの3倍のスピードで即座に扉を閉める。


「………遅かった……」


がっくりと肩を落とし、沈痛な面持ちで首を振った手塚はそのまま踵を返して学校に帰ろうとした。
その時、がらっと扉が開き、力尽きた背中にヤジが飛ぶ。

「よぉ手塚。遅かったじゃねえか」
「………跡部」

逃げられない。顔を見た瞬間に思った。

「オカエリナサイ」
「棒読みするな」
「なんだよ。人がわざわざ出迎えてやったってのに」
「誰も頼んでない」
「いーや。彩菜さんに頼まれたから。オカエリナサイクニミツサン。はい代理」
「そもそも何故お前が俺の家に上がり込んでるんだ」
「だって俺クニミツクンノトモダチらしいから」
「だから一々棒読みするな!」
「ホントてめえって怒りっぽいのな。カルシウム足りてるか?」

噛み合わない会話に見切りを付け、手塚は渋々と家の戸口をくぐった。
奥からエプロン姿の母親が、手を拭きながら出てくる。

「あら、国光。お友達? 一度に2人も来てくれるなんて、母さん嬉しいわ」
「………!?」

反射で振り返ると、そこにはいつも通りの笑顔を浮かべた不二が立っていた。

「ふ…不二?」
「こんにちは、不二周介です。手塚とはチームメイトで」
「青学の不二か? へーえ。久しいな」
「ああ、跡部も元気そうだね」
「さ。上がって上がって」


…………母は味方してくれない。(というか、今も昔もこの家に手塚の味方はいない)


 *  *  *


かつてないほどの試練である。
青学でというよりか、世界で一番手塚に辛辣な不二と、手塚が最も不得手とする人物である跡部が揃ってしまった。
しかも自宅二階の自分の部屋に、である。
その上、彼等はほぼ初対面のくせに意気投合していた。これが試練でなくて何だろう。


「跡部。僕は感動したよ。手塚にあんなにもあからさまな失望の表情を作らせるのは君くらいだね」
「まあ不二、そう褒めてくれるな。お前の嫌味もなかなかひでぇもんだぜ?」
「いや、僕は所詮手塚に嫉妬してるからね。君みたいに羨望抜きで対峙は出来ないんだ」
「そうかねえ。俺なんか所詮手塚のこと好きだぜ?」
「それこそ羨ましいよ。僕も手塚のこと好きになれたらいいのになあ」

まるで越後屋と悪代官。
手塚の好きな大岡越前のテーマが脳裏をよぎる。


「俺さぁ、手塚が嫌そうな顔してるところを見るのがすっげぇ楽しいんだよな」
「あ、賛成。あの鉄面皮が少しでも剥がれると嬉しくて、つい色々言っちゃうんだよね」

…悪魔が2人。
十字架も念仏も日の光も効きやしない悪魔が2人。

手塚は机に向かったまま、冷や汗を浮かべていた。
手元の宿題は1ページも進んでいない。何故自分の部屋の背後にこんな奴らが座り込んで、一緒に日本茶をすすっているんだろう。
俺が何をしたって言うんだ。


「日頃の行いが悪いからだよ」

間髪入れずに不二が呟いた。手塚の肩がびくっと震える。
「おお、今いいタイミングだったんじゃねえ?」
「そろそろ『俺が一体何をした』って考えてる頃だと思ったんだよね」



…ちょっと反芻してみたが、日頃の行いが悪かったようには思えない。
それともあれだろうか。登校途中のお地蔵様に昨日手を合わせ忘れたのがいけないんだろうか。
もしくは今日の占いで天秤座の運勢が最下位だったからなのか(けれどもそれならば跡部も同じ目に遭うはずだ)。
厄年ではないはずだが…。

真剣に悩み始めた手塚を後目に、不二は携帯を開いた。
「あ、そうそう。裕太に電話するんだった。ごめん、ちょっと失礼するね」
立ち上がって部屋を出ていく不二をほっとした表情で見送り、手塚は振り返ってもう一人を見下ろす。


「跡部、いつから不二と手を組んだんだ」
「お前、不二がいないときは強気なのな」
「………話をずらすな」
「そんなに奴が恐いのかよ」

…跡部ならば恐くない。
彼はどちらかというと、際限なく腹を立てさせてくれるタイプだ。
不二のように、始終背後からぐさりとやられることを警戒しなくていい。
跡部が万が一刺してくることがあっても、それは絶対に真正面からに決まっている。それなら対処のしようもある。

しかし、だからといって跡部が苦手の範疇を出ることはない。

彼は人の話を聞かない。
常に自分のペースでしか話さないため、会話が成立していないのだ。
一見は会話が弾んでいるようで、手塚の言葉はことごとく無視される。
跡部だけが質問の回答を手にし、自分一人が苛立つ。それはとても疲れることだ。

ずるい。
本当に狡い。
何から何までどうしようもなく跡部のペースなのである。

「なんだよ」

椅子の上から見下ろしてくる相手に向かって、跡部は挑発するように髪を掻き上げた。

「跡部」
「あァ?」

嫌いだ。

そう告げようとして口を開いた。
けれど、言葉が出てこない。
どうしてだ、本気なのに。お前が嫌いだ。顔も見たくない。嫌なんだ。

「言えねぇの?」
「………」
「ホント、嘘を付けない体質だよな」
「なんだと?」
「声になんねーんだよ」
「…そんな、ことは」
「じゃあなんでそんなに情けねえ顔してんだよ」
「馬鹿言え」
「鏡見てこい。マジ泣きそうだから今」


「やあ何の話?」
「ん、」

素直にも立ち上がりかけた手塚は、不二の帰還にがたんと腰を下ろした。
非常にわかりやすい行動である。

「なぁ不二、氷帝にくる気ねえ? お前いい人材だと思うんだよな。テニスもできるし」
「何言ってるの? 絶対に嫌だよ。僕は青学が好きだし。ああでも、どうせなら手塚を引き取ってくれないかな?」
「いらねー。氷帝は俺様王国なのに、手塚がいたら邪魔になるだろ!?」
「跡部なら手塚に邪魔されずに王様続けられるって。いいじゃない手塚の一人や二人」
「こんなのが二人もいてたまるか」
「そうだねえ。それは困るよねぇ」




散々な言われようだが、決して手塚が悪いわけではない。
不二が悪いわけでもないし、跡部が悪いわけでもない。
ただ、巡り合わせが悪かったのだ。天は二物も三物も与えた人間に対しては、与えた分だけ奪っていくものだ。

だからこれは手塚の不運なのである。


 *  *  *


不二が帰って二人きり。
プレッシャーはこれで半減された。
本当に、泣きたくなるほどひどい時間だった。不快と不愉快をごちゃ混ぜにしたような。

しかし、今は静かだ。
いつもはうるさい跡部だが、不二相手に喋りたいだけ喋ったらしく、いつものように延々と独り言を聞かせてこない。
やっとのことで心を鎮め、手塚は大きく息を吸った。


「…今日は散々だった」
「自業自得だろ?」
「誰のせいだ誰の」
「だからお前のせいなんだろ?」

そこで手塚は椅子から立ち上がり、跡部の隣に腰を下ろした。お互い同じ方向を向いているので視線は合わない。
横顔も見えなかった。

「不二はお前を許せねえんだよ。ありゃ根が深いね」
「わかった風な口を利くな」
「なんで? 俺わかってるぜ。何でもわかるのオレサマは」
「……今、俺が何を考えているのかもわかるか?」
「『出てけこの野郎』」
「………」
「言ってみれば? お前に免じて帰ってくれるかもしれねえぜ」
「いい加減にしろ」

床に座る、目線は手塚の方がほんの少し高い。
化繊の上に手を這わせ。獰猛ににじり寄る。鼻先がぶつかるまでにあと十センチもない。

「いいねぇ手塚。俺お前の怒った顔、好きだぜ。いつもの鉄仮面よかよっぽどいい」
「お前達が言うほど感情に乏しい訳じゃない」
「だよな。すぐ怒るし」
誰のせいだと思っている、と手塚は眉を顰めた。
跡部はくつくつと笑って手を伸ばし、硬ばった頬を撫でる。

「慰めてやろうか?」
「何様だ」

言って、唇に噛みついた。
噛み切りはしない。ただ少しばかり痛みが伝わるように。伝えられるように。

跡部は離れた唇をぺろりと舐める。
体勢は変わっていない。
とても近い距離に青い瞳が見える。


「わかった手塚。今日の所は負けてやる」
「は?」

ぽんと彼は膝を叩く。

「名前で呼べよ」
「そうしたら? どうしてくれるんだ?」
「何もしない」
「…………」

溜息。
意味するところがわかって、脱力した。
わかった。負けだ。今日も負け。いつものこと。結局負けるんだから、もうそれでいい。



「景吾」




目が閉じられる。と同時に、挑発の光がかき消えた。

唇を重ねた相手は、抵抗しなかった。