『インサイド・1』



部室の窓際に置いてあるパイプ椅子にどっかと腰掛けて、定番通り、両腕を組む。
この姿勢が一番落ち着くのだ。

「腕を組むのは心を開いていない証拠」と不二は冷ややかに笑うが、それの一体どこが悪いというのだろう。
自分の形を失わないためには、常に内側に目を向けている方がいいに決まっている。
結果として、手塚は他者を拒絶しているように見える。
見えるのではなくそれは事実だ。

だがそれが何だというのか。
自分でないものと容易に混じり合うほど、心というのは融通が利くものではないと考える。



目を閉じた。
蝉の声が聞こえた。
もう七月。あと少しで関東大会――初戦。


闇の中に、一人の人物が浮かぶ。

ほんの少しだけ上目遣いに、弧を描く唇。
くせのある色素の薄い髪。氷帝のウェア。青いラケット。バランスよく筋肉のついた腕。


『跡部』

呼べば『よぉ』と答えが返る。
不敵に、人を小馬鹿にしたように。熱の籠もった青が、手塚を捉える。

しかし、跡部の影はそれ以上動かなかった。
動かしようがない。
手塚は跡部を知らないのだ。

一、二度。言葉を交わしたことはあったかもしれない。
けれど覚えていない。
記憶の中に残る跡部という人物は、いつも試合をしていた。

コートの最奥に飛ぶフォア。
勢いを増すバックハンド。
的確に斬り込むサーブ。

記憶から呼び起こした彼は、今も誰かと試合をしている。
そして時折、苦々しげに手塚を見上げ、舌打ちした。

『降りてこい』


あぁ、と頷いてコートまでの見えない階段を下る。
同じ高さで向かい合う。
跡部は右手のラケットをくるりと回した。

『来年はS1だ。俺もお前も。そうだろう?』

『そうだな』

確か去年の都大会の帰り際だった。
大石が氷帝の跡部から、と伝言を持ってきたのは。

『けど、それは来年ではなく三日後のことだ』

『そうか』

跡部は少し笑った。

『待ってた』

見たことのない顔で笑った。
これは記憶じゃない。俺の憶測だ。
跡部はこんな風に笑う男だろうか。


『どうすればお前に勝てる?』

素直に聞いてみる。

『この俺様がテメェなんかに負けるわけねーだろ』

強い確信。
意志の力は即ち強さだ。彼にはそれがある。
しかし、その確信が付け入る隙だ。



『越前』

ここにはいない後輩を呼んだ。
一つ影が出来て、一つ影は消えた。
白い帽子を深く被った、小生意気な一年生が闇に浮かぶ。

『右でやったら勝てると思うか?』
『無理っスね』
『だろうな』

パワーが落ちる。精度も。
何よりも、右でやらなければならない事情を自分が抱えている。そのことを最初からバラしているのが何ともまずい。
左肘は完治している。けれど長時間のプレーは禁物。

不利な要素だ。
だからこそ、慎重に、最大限有効に扱わなければならない。
こちらからバラすのは損。
相手に暴かせる。そして「暴いてやった」と思わせることが肝心だ。


『足下すくってやるよ、跡部』



どんな顔をするだろうか。
どれだけの動揺を引き出せるだろうか。
それが鍵だ。

テニスには一撃必殺も一発逆転もない。
試合の流れを掴んだ者に、勝機が近付く。
精神を削り合うスポーツだ。





「資料が足りないな」

目を開ける。
少々跡部という人物を避けすぎたようだ。
初対面の人間を欺くのは難しい。
煩わしくとも、大石のやっている他校生との交流に、首を突っ込んでおくべきだったか。
けれど今更だ。頼るべきは―――



「イメージトレーニングは終わったみたいだね」

いつの間にか、不二がいた。制服に着替えた後だ。
もう外は暗いはずだが。こんな時間まで残って練習していたのか。結構なことだ。

「その顔だと、負ける気はないようだけど」
「無論だ」
「それがどういう意味かわかってる? 中学校の団体戦は、君の利き腕をかけるだけの価値があるものかい?」

不二は手塚にあたりがきつい。
しかし、その冷たさが心地よいときもある。

「タイトルはそんなに重要じゃない、不二。ここで引かないことが、俺には大事なんだ」
「相変わらず素敵に勝手だね。せいぜいその腕お大事に」
「そうも言ってはいれないな。待ちに待った試合デートだ。最善を尽くしたい」
「………寒っ」


「それより、乾はまだ残っているか?」
「誤魔化す気?」
「まさか。素だ」
「…最悪」

「手塚? 呼んだか」
「いたか」
「いたんだ」
「いたよ」

乾がドアを開けて入ってくる。

「聞いた今の?」
「手塚にしちゃ、悪くないジョークだと思うよ」
「乾は及第点が低すぎるね」

眼鏡の二人は顔を見合わせて肩を竦め、刺の生えた不二をやり過ごす。

「で? 手塚。デートのお相手の情報が必要かい?」
「頼む。できれば客観的なデータがいいな」
「科学部に予算回して欲しいんだよね。ちょっと世話になってさ」
「考えておこう」
「言質が欲しいんだよ、手塚」
「秋の選挙前に予算の再配分があるからな。その時に」
「オッケー。売った」

バナナの叩き売りのように、乾はそれを机に放りだした。

「何それ」
「ビデオだよ。しかも公式戦じゃなくて氷帝部内の練習風景。レアだろ?」
「氷帝のテニス部はガードが厳しいと聞いたが。よくこんなものを」
「ブラックマーケット?」
「いやいや。ファンと称した素人の撮影だから、ちょっとピントずれてたりするけどね。あそこ女生徒には甘いんだ」


「「……女装したとか?」」


「従姉妹がいるんだよ!」


君ならやりかねないよね〜と不二は笑う。
一瞬疑った、と手塚は真顔で言う。
乾は憮然とした表情で、ずり落ちた眼鏡を押し上げた。









いかにも。いかにも。
テニスプレイヤーは腹芸が勝負である。