『ベクトル』



空の高くなったある日に、菊ヶ橋交差点で出会った跡部は珍しく一人だった。
青信号の横断歩道の真ん中で出会ってしまったので立ち話というわけにもいかず、目で本屋のある向かい側へと移動を促した。
その書店が手塚の目的地だったわけだが。彼は戸口の脇で立ち止まり、「よぉ」と掛けられた挨拶に返答する。

「久しいな」から始まった会話はたわいないものだった。
今日の用事、学校の様子、部活の様子、左腕の調子。そして話が青学の戦績にまで流れたとき、跡部は肩を竦めて「まあ、がんばったんじゃねえの?」と首を僅かに傾げて見せた。
跡部は慰めとしてそれを告げ、手塚もそれを慰めとして受け取った。

負けた者から勝った者への、いたわりに似せた何か。
もはやそこにかつての勝敗が分けた溝はなくなっていた。

ひとしきり話し込んだ後、「人を待たせているから」と別段の装いもなく、跡部は腕を上げた。
「ああ、それじゃ」と答え、手塚もふいっと戸口の方へ向き直った。

それが別れの挨拶。次の約束などしなかったし、次に会えるとも思わなかった。
またどこかで会うこともあるのだろうが、それが近い未来だとは考えなかった。

自分たちのこれからのフィールドは、多分他の高校生よりずっと広い。
1年後、日本にいるとも限らないし、いたとしても顔を合わせる機会があるかどうか。
こんな偶然の出会いなんて、もうないかもしれない。

しかし、同じフィールドを歩いていくのなら。
同じテニスプレイヤーであるのなら。いつか、偶然ではなく必然が、自分たちを出会わせるだろう。
そうとも。テニスをしている者の辿る道は、上に行けば行くほど一本の流れに集約される。


「…俺達?」


ふとその単語が口からもれて、手塚は振り返った。
交差点の向こう側に、跡部の背中が見えた。青いシャツを着ていた。


そうか。あいつは同じ分類か。


俺達、と一括りにしていい相手になるだろう。
テニスいうのは孤独な競技だが、同じ人種がいるという点で、手塚は決して一人ではない。
「君の他の誰か」と聞かれたら「じゃあ、跡部とか」と答えるのにやぶさかでない相手だ。

希少な同胞の一人に向けて。手塚は跡部の背中を見送った。


 *  *  *


手塚は5年後に再会するときまで、その日のシャツの色を覚えていた。


 *  *  *


日本晴れの広がるある日に、菊ヶ橋交差点で出会った手塚はいかにも買い物帰りですという風にいくつもの紙袋を抱えていた。
「よぉ」と声を掛ける。

本当は、自分から声を掛けるなんて嫌だったのだが、それでもしないわけにはいかなかった。
本来跡部は擦れ違った誰からも話しかけられるのを悠然と構えて待つ、というスタンスを取っていた。
誰にでも無視されない人間だった。

けれど手塚は違う、と跡部は知っている。
ここで跡部が動かなかったら、彼は無言で脇を通り抜けるだろう。
相手に無視されないように自分から呼び止めるなんて、悔しくてたまらないが、それでも本当に素通りされるよりはマシだ。

そんな葛藤の下に、彼は言葉を発していた。


青信号の横断歩道の真ん中で出会ってしまったので立ち話というわけにもいかず、本屋のある向かい側へと移動する。
二人して戸口の脇で立ち止まり「久しいな」と答えが返った。その安堵。

会話はたわいないものだった。
今日の用事、学校の様子、部活の様子、左腕の調子。そして話が青学の戦績にまで流れたとき、跡部は肩を竦めて「まあ、がんばったんじゃねえの?」と首を僅かに傾げて見せた。
跡部は慰めとしてそれを告げ、手塚もそれを慰めとして受け取った。

負けた者から勝った者への、いたわりに似せた何か。
もはやそこにかつての勝敗が築いた壁はなくなっていた。

ひとしきり話し込んだ後、「人を待たせているから」と別段の装いもなく、跡部は腕を上げた。
「ああ、それじゃ」と答え、手塚もふいっと戸口の方へ向き直った。

それが別れの挨拶。次の約束などしなかったし、次に会えるとも思わなかった。
またどこかで会うこともあるのだろうが、それが近い未来だとは考えなかった。


手塚は俺に会いたいだなんて考えないだろうよ。

別に偶然に出会うのを待たなくても、会いたいのなら連絡を取って会えばいいのだ。
しかし、それを手塚に期待するのは、星が落ちてくるのを祈るようなものだ。
無駄。
てか、そんなのは手塚じゃないから。むしろ起こらなくていい、そんな奇跡は。起こられても迷惑だ。


なので今は別れるしかない。
自分に会いたいと微塵も思わない相手に対してこちらからコンタクトを取るというのは、自尊心に有害だ。
いくらなんでも、それは。プライドを自ら粉々に砕くというのは。

だから、いい。
別に真に会いたいわけではないのだ。
ただ、ここまでの葛藤を越えて「会わんでいい」と結論を出している自分に対して、手塚の判断は瞬時に下されるものに違いなく、その差が悔しかった。

手塚のことを考えたいわけではない。
ただ、自分が手塚に費やす時間は手塚が自分に費やす時間と同じでありたいのだ。
短くていい。同じ短さに縮めたい。

……こうぐるぐると考えている時間自体が、むしろ当初の目的から大きく外れているのだが。
それでも思考は止まらない。だからせめて振り返らずにいようと思った。

「じゃあな」と言った後に振り返るのは、相手に未練があるようで。
こちらが負けている気がして嫌なのだ。自分だけが寂しさを感じているようで嫌だ。

振り返って、相手の背中を見てしまったら、とても悔しい気分になるから嫌だ。
別れた後、自分だけが、相手のことを考えていると証明されてしまうのが嫌だ。

だから決めていた。
手塚と偶然出会うことなんか滅多にないとわかっている、そんな昔から決めていた。

絶対に振り返らない、と。
相手の背中を見送って、居たたまれない気分になるのがわかっているから、やらない。
こう考えること自体が負けでも、それでも予想する痛みよりも、この結論の方がまだ耐えられるだろうから。


 *  *  *


だから跡部は手塚が振り返ったのを知らない。