『背中』



校門の前にその人の姿を見つけたとき、鳳は居たたまれない気分になって肩を窄めた。
それは罪悪感そのものではなかったが、おそらくそれに近い気持ちだったろう。


努力より結果を。
入部する際に何度も念押しされた氷帝テニス部の不文律である決まりを、鳳は信じ切れていなかった。
だから、先輩である宍戸がレギュラー落ちしたときも、その彼が滝を破ってレギュラーに復帰したときも、気持ちが晴れることはなかった。
誰かが昇るということは誰かが落ちるということだ。
振り返れば死屍累々。踏み台となった彼らの負の感情を見捨てきれず、彼は常にざらついた感情を抱えてこの部活にいる。

宍戸の無茶な練習に付き合うことは苦ではなかった。
上に行こうという気持ちは、常に心地よいものだ。だから、努力する先達を見るのはむしろ心が騒いだ。
しかし、その宍戸が「試合をする」と言ったとき、彼の心は突然に失速した。

確かに特訓をしたという話だけでは監督は何も認めてはくれないだろう。
だが、人に突き落とされた彼がまだ誰かを落とそうという。
何故勝つことに、上に行くことに痛みを伴わなければならないのか。
勝利を喜ぶためには、人はどこまでも愚鈍であらねばならないというのだろうか。


そして、宍戸が押し殺した声で「滝と」と付け加えたとき、鳳は軽い失望さえ覚えた。

他に選択肢はない。
シングルスには、跡部、芥川、樺地がいる。おそらく宍戸には勝てないだろう。
ダブルス1は忍足と向日。このペアをわざわざ崩すことは有り得ない。
だから対象者は鳳か滝で、今までの経緯を考えれば鳳は外される。

…自分を選んでくれたらよかったのに。

しかし彼はそれをしないだろう。普通は出来ない。
自分の特訓に付き合わせた後輩を敢えて踏み台にして上に行くなどということが出来るのは……氷帝にはそれが出来る人材がわりといるわけだが(跡部とか日吉とか芥川とか)、
宍戸には出来ないだろう。そういう人だ。

けれどそれじゃあ滝さんが可哀相だ。

こんな消去法で選ばれて、そして負ければレギュラーから落ちて、試合に出られないまま引退する。
酷い話だ。
どうして世界は人に優しくできていないのだろう。





そんな後悔を抱えたまま時は進み、結局鳳は宍戸とダブルスを組むことになった。
しかし、鳳はコートに手を付いた滝の姿を忘れることが出来ない。
彼は顔を上げなかった。
コートだけがその表情を知っている。怒りだろうか、憎しみだろうか。
滝は、宍戸を恨んでいるだろうか。

答えのでない疑問を胸に抱えながら本日の部活も終了し、荷物をまとめて校門へと向かう。
そして、そこに滝の姿を見つけた。
今でも見るたびに心が痛む人の姿を見つけた。

すみません。

自分が悪いとは思わないけれど、謝らずにはいられない。


 *  *  *


滝は人待ち顔だった。

実際、彼は待っていたのだ。
レギュラーとしてではなく一般生徒用のメニューをこなし、その後校門でずっと待っていた。

「鳳、今帰り?」
「あ…はい。先輩、お疲れさまです」
「そうだね。お疲れさま。…レギュラーの練習は遅いものね」

はい、と答えようとして鳳は息を詰まらせた。


僕もこの人に恨まれているのだろうか。

それでもいつも通りに笑顔を作る彼に、泣きたい気分になる。
滝の笑い方は優しい。言葉も仕草も、彼の放つものは全て人を傷付けない。
その人当たりの良さが災いしてか、レギュラーの中ではいつも緩衝材として苦労していたが、レギュラーのあくの強さを上回る人当たりの良さで、彼はなくてはならない存在だった。

「よければね、鳳。ちょっと僕の話を聞いて欲しいんだ。…待ってたんだよ」
「…はい」

校門の脇の蔦で覆われた鉄柵の土台に2人で腰掛けて、しばらくの沈黙。
やがて滝は髪を掻き上げて話し始めた。
「君は僕に同情してるよね」
「………え、と?」
「見てればわかるよ。長太郎から見ても、僕は『可哀相』かな?」
「……………」
「あーあのね。答えなくていいから聞いて欲しい」
「…はい」

滝はそう言って正面を向き、組んだ甲の上に顎を乗せた。

「…僕は甘かったろうか?」

「三年間、テニスに打ち込んできて、レギュラーを取れて。試合に出たくないわけがない。しかも最後の大会だ。選手として参加できないなんて、とても悔しいよ」
「でも僕は宍戸の挑戦を受けた」
「断ることも出来たんだ。わざわざレギュラーを取ろうとしている人間と試合しなれば行けないなんて決まりはない。負けたら自分が落ちることはわかりきっているのに」
「でも僕は受けたんだ」

鳳は滝の横顔を眺めていた。どういう表情を作ればいいのかわからないまま、唾を飲む。

「間違えたとは思ってない。あの時宍戸と試合をして、勝てるのは五分だと思った。彼は本当に本気だったからね」
「でも…だから僕は彼の挑戦を受けなきゃならなかった。だって宍戸は僕を選んだんだから」
「宍戸はレギュラーの中で、僕を選んだ。…わかるかな、鳳。彼は僕を信じてくれたんだよ。僕ならば、彼の挑戦を退けないだろうと」

「…どういう意味ですか?」

「宍戸はね、僕ならばレギュラー落ちする危険を冒してでも自分と試合をしてくれるだろうと踏んだんだ。…彼は自分を狡猾だと思っただろう。それを思うことはどんなに痛かっただろうね。僕ならば逃げない。僕ならば勝てるかも知れない。そう判断したことは、彼にとってどれだけの痛みだったろう。蹴落とされた人は勿論痛いけど、蹴落とす方だって痛いと思う人はいるよね。彼はさ、もともと跡部みたいに強引に人を蹴散らすことに慣れてないんだよね。跡部みたいに強くない。僕もそうだね。鳳、君もそうだ。…。だからね、もう怒ってないから。そりゃもう断然悔しいけれども。でも怒ってはないから。いい加減顔を見せたらどう?」

思わず顔を仰け反らせた鳳は、作の内側に立っている宍戸を見つけた。

「宍戸さん…?」
「滝」

彼は蔦を掻き分けて、ばつの悪そうな顔を見せた。

「俺は、」
「ストップ。謝るのはナシだよ。そーゆーものでしょ?」
「んじゃ、ありがとう」
「………それはそれで何かむかつくよね」
「どうしろってんだよ!」
「そうそ、それでいいんだって」

いつも通りに怒って見せた宍戸に、これまたいつも通りに滝が笑った。
滝が校門をくぐり、2人はそこで目配せした。
これで彼等の間にできた溝は埋まったのだと鳳は思った。
恥ずかしかった。

可哀相だと、一瞬でも思った自分が恥ずかしかった。
誰よりも一番滝を軽んじていたのは自分だったのではないか。
宍戸を貶めていたのは自分だったのではないか。

彼等は違うと言うだろう。
「おまえはただ、いい奴なだけだよ」
そう言って笑うだろう。


「………滝さん」
「ん?」
「俺、勝ちますから! だから…!」
「うん。頑張れ」
「何たりめーのこと言ってんだよ」
「宍戸も。言っとくけど、勝たないと許さないよ?」
「勝つって。勝ちゃいーんだろうーが」
「そうそう。それだけの話」

晴れない顔の後輩を滝はちらっと眺め、宍戸に何か呟いた。
「おい、長太郎」
「は、はい」
「…練習してこーぜ。まだ7時だ」
「はい!」

勢いよく頷いた鳳に、宍戸は肩を竦めた。
「僕も行くよ」
滝も歩き出す。

「…来んの?」
「もう部活は終わったでしょ。後はコートは部員の自由使用。跡部は追い出さないよ」
「でも、照明使っていいんですか…?」
「いいのいいの。跡部が残ってるうちは絶対に大丈夫」
「はぁ…」

一歩先を行く宍戸に、滝は後ろから飛びついて肩を組んだ。
耳元に囁く。

「ねぇ、D1も残ってるでしょ? 審判するよ。試合しよう」
「………滝」
「勝ちにいくんだよね?」
「悪ぃ…俺は―――」

宍戸は何かを堪えるように俯いた。
滝は肩を抱えた手を放し、ぽんと短く刈り込まれた髪の上に右手を置いた。



「……宍戸、大丈夫だよ。こんなことは。十年経てば笑い話なんだから。君も僕も大丈夫なんだよ」


宍戸は俯いたまま言葉を詰まらせ、滝は目を閉じたまま夜空を見上げた。
その様子を鳳は見ていた。

どこまでいっても追いつけない距離を感じながら、一年先を生きている人たちを見ていた。











世界は優しく出来てはいないけれど、人はきっと。