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 題名:「南極物語・補遺」
<三題噺テーマ テーマ E「徳川家康」「シュレディンガーの猫」「南極」:出題者 torabo様>


※!注意!
※ この物語はあくまでフィクションです。
※ 実在の人物、実際にあった事件を元に創作していますが、もちろん現実に起こった話ではありません。
※ 登場人物名は、全てアルファベットで表示しています。
※ ネットで収集できる範囲での情報で作成しています。事実誤認や引用間違いがあるかもしれません。
※ なお、シュレディンガーの猫に関する認識や考察は、当時(そしておそらくは現在も)の世間一般の認識に従い、わざと誤用している部分があります。
※ 「シュレディンガー」は、正しくは「シュレーディンガー」と表記するようですが、あくまでお題に従って「シュレディンガー」と表記しております。



 第一次、第二次南極観測の簡単な経緯。
 
 1956年(昭和31年)
 11月8日 南極観測船「宗谷」出港。
 
 1957年(昭和32年)
 1月4日 「宗谷」ケープタウン沖にて南氷洋に到達。
 1月29日 第一次南極観測隊、南極上陸。
 2月1日 昭和基地建設開始。
 2月15日 「宗谷」離岸。第一次越冬観測開始。
 
 12月21日 第二次南極観測隊を乗せた「宗谷」南極到達。しかし、天候の悪化などから氷に閉じ込められ、氷ごと漂流。
 
 1958年(昭和33年)
 1月31日 「宗谷」自力脱出不可能と判断、アメリカ砕氷船「バートンアイランド号」に救援要請。
 2月6日 救援到着までに努力した結果、スクリュー一つを破損しながらも、なんとか自力で氷塊より脱出。
 2月8日 救援に到着した「バートンアイランド号」の先導の下、昭和基地まで110〜120kmの位置まで到達。
 2月9日 最新鋭砕氷船でもそれ以上の進行は不可能であり、季節が冬に移り変わることからひとまず第一次越冬隊の収容を開始。
 2月17日 第二次越冬隊上陸の機をうかがうも、天候悪化により「宗谷」「バートンアイランド号」とともに一旦外洋へ退避。
 2月24日 外洋にて第二次越冬隊上陸の機を待つも、果たせず。第二次南極観測及び越冬断念。樺太犬は置き去りに……。

 ―――――― ※ ―――― ※ ――――――

 スクリューの一つを損傷したままながらも氷の海を抜け、暴風圏を突破した「宗谷」は一路、ケープタウンへ向かって進んでいた。
 その後部甲板にて、一人タバコをふかしながら、手すりにもたれて水平線を見やる男Aの姿があった。
 そこへ、もう一人髭の男Bがやってくる。
「よぉ。俺にも一本、くれね?」
「………………ん」
 胸ポケットから取り出したタバコの箱を取り出し、差し出す。
 受け取ったBが箱の中を覗くと、残りは一本だけだった。
「なんだ、もうこれきりか」
「一年ぶりにもらった新鮮な日本のタバコだからな。吸い始めたら止まらなくて、すぐなくなった」
 Aの足元には、踏み潰された吸殻が散らばっている。
「……お前さん、どんだけここにいたんだ。まだ寒いのに」
「だって、船室には居づれえんだもん。……あ、袋はお前が捨てといてくれよな」
 そう言いつつ、マッチを防寒ジャケットのポッケから取り出す。
 Bが口に咥えるのを待ってマッチを擦り、タバコの先に火を灯す。
「ん、あんがとさん」
 灯してもらいながら、Bは握り潰したタバコの箱を自分の防寒ジャケットのポッケに突っ込んでいた。
「部屋に居づらいって……ああ。お前さんの同室、Cだったか」
 ぽはー、と紫煙を吐きつつ、顔をしかめるB。
 Aは舷側柵にもたせかけた上体をさらに屈めて、後方はるかに去り行く南極の世界を見やる。
「……まあ、俺もCのこと言えた義理ではないけどなー。もう見えねえのに」
 舷側柵に背を預けているBは、船室のある方を見やっていた。
「南極に置き去りの命が15、か。……重いよな」
「家族であり、仲間であり……犬係だったあいつは余計しんどいだろうさ。しかも、直前に自分で首輪を締め直しちまったって……慰める言葉もないよ」
「俺たち第二次越冬隊に引継ぎするって思ってただろうからなぁ。犬が逃げ回ってたら、面目もねえとか考えたんだろう。……そういや、聞いた話だが……Cな。どうしても犬たちを船まで運べないってわかった時、殺す算段をつけようとしたらしいぞ。空から毒団子撒くとか、射殺するとか」
「あ〜あ。そこまで言っちまったのか。そりゃ余計にしんどいわ」
「けどま、実際問題なんとかせんと……Cの奴、自分を殺しかねんのじゃないか? 俺はそれが心配だ」
「はぁ? ……いや、それはないと思うぞ、B」
「なんでだよ」
「そんなヤワな心で南極越冬なんか出来るもんかい。あいつは強い奴だよ。今はちょっと膝をついてるが、必ず立ち上がる」
 水平線を見つめるAは、睨むように目を細めて言い切る。
「ふむ……一緒に越冬したお前さんがそう言うなら、そうなのかもしれんが……。まあ、俺もそうであってほしいとは思うよ。次のためにもな。南極観測には国中の期待がかかってる。犬だけならまだしも、最初の観測隊で人死にが出ちまったら、後々響きそうだ」
「あ? 南極観測は今回で終わりだろ?」
 振り向いたAは目をぱちくりさせていた。(※この時点では南極観測隊は第二次までの予定だった)
「いや、それがな?」
 一旦口からタバコを離し、煙を吹き上げるB。紫煙は吹き過ぎる潮風に巻かれて散る。
「さっき、俺たちの――第二次隊の隊長に聞いたんだけどな。なんでも、アメリカ中心に学者が国際的な南極観測の継続を主張してるんだと。だもんで、日本でも次があるかもしれんとさ」
「……本当か? それ」
「さあな。決めるのは俺たちじゃねえし。ただ、お役人たちと政治家たちにはあちこちから働きかけがあるそうな」
「だとしたら……また、南極の土を踏む機会があるかもしれないってことか」
 Aの喜色が混じった声に、Bは顔をしかめる。
「いや、そりゃあるかもしれんけど……いくらなんでも、その時にゃもう犬は……」
「それでも、だよ。……その話、Cには伝えたのか!?」
 タバコの吸殻を柵に押し付けてもみ潰しながら、打って変わった明るい表情で聞いてくるA。
 Bは呆れ顔で首を横に振った。
「いんや、まだだ」
「じゃあ、俺から伝えていいか!?」
「あー……まあ、隊長からは口止めされてねえしな。いいんじゃね? ただし、あくまで噂話の上に乗った推測だってことを強調しておけよ。でないと、ダメだった時が――って、ああもう。人の話は最後まで聞けよ、もう」
 慌しく駆けていったAの背中を見送ったBは、一際大きく紫煙とともにため息をついた。
 そうして、空を見上げる。
「……しかし……そうか。戻る目があると思わせりゃ、多少は楽になるかね……。ふむ」
 しばらく、紫煙とともに沈黙する。
 吹き過ぎる潮風、船が掻き分ける波の音、そして船のエンジン音。

 ―――――― ※ ―――― ※ ――――――

 その日の夜――夕食後の自由時間。
 観測員は四人一組の船室を与えられている。
 BはAとCのいる船室を訪ねた。
 中にはAとCの二人しかいなかった。他の二人はまだ食堂で他の隊員たちと過ごしているらしい。
「よーう。……どうだ?」
 Bに曖昧に訊ねられたAは、二段ベッドの上から黙って首を振る。その下で、ベッドに腰掛けたままのCは顔も上げない。落ち込んだままだ。
「……ダメか」
「まあ、問題の解決になるわけじゃないからな」
「参ったね、こりゃ」
 その時、Bの背後から別の男の声が聞こえた。
「あれ、Bじゃん。なんかあった?」
 眼鏡をかけた、いかにも学者風の青年D。彼もまた第二次南極観測隊の隊員であった。部屋はA、Cの船室の隣。
「いや、別に。ご機嫌伺いって言うか、Cの様子見」
「ああ。……ん〜……ま、いっか」
 DはBを値踏みするような目で見た後、そのままBを船室へと押し込んで自分も入った。
「おいおい、なんだよ」
「しー」
 自らの唇に指を当ててBの抗議を押しとどめ、素早く左右に視線を走らせる。そして、声を落とす。
「……密航者がいるんだよ」
 三人は――そう、Cさえもが少し顔を上げて怪訝そうにDを見やった。
 Bが不審な眼差しで口を開く。
「お前さん、なに言ってんだ? 密航者ってなんだ。この船はそこいらの客船じゃないんだぞ。まさか、日本から乗って来てたってのか? それとも、南極から? そんなバカな」
 Aも小首を傾げる。
「ありそうな事例といえば……色々積み下ろしで忙しくなってた隙を狙って、ソ連の隊員が亡命してきたとかか?」
「いや、違う。彼は日本人だ」
 DがAの予想を否定すると、ずっと黙り込んでいたCまでもが口を開いた。
「彼……男か。アザラシかペンギンのことかを思ったけど……」
「今、僕の部屋にいる。三人とも、来てくれ」
 密航者と言われては放っておけない。
 三人はDの後について、隣の船室に移った。

 ―――――― ※ ―――― ※ ――――――

 隣の部屋は、当たり前だがA・Cたちが居た船室とほぼ同じだった。二段ベッド二つにデスク、洋服ダンスっぽい大き目の棚。
 そこには、誰も居なかった。
「……? 誰もいないようだが?」
 船室を一通り見回したBの詰問に、最後に入って扉を閉めたDは、洋服ダンスっぽい棚の扉を押さえた。
「この中」
 三人は顔を見合わせて小首を傾げる。
 大の大人が入ると苦しそうな狭い棚だ。
 しかし、Dが扉を押さえていると、不意に中で何かが動く物音がした。
「な……なんか居るぞ!」
 Aが警戒の声を上げ、BとCも顔色が変わる。
 Dは少し笑みを浮かべて言った。
「だから言っただろ。この中に密航者がいるんだ。見つかるといけないので、ここに隠れてもらってるんだけど」
「一体どういう人なんだ?」
「おい、やばいぞ。早く隊長と船長に報せないと」
「暴風圏の船が揺れる中でもその中にいたのか!? 同室の隊員は知ってるのか、これ!?」
「――し〜……」
 それぞれに口走る三人に、Dはまたも唇に指を当てて黙らせる。
「実は、この中にいるのは……徳川家康なんだ」
「は?」
「え?」
「……誰だって?」
 いかつい外見(内二人は雪焼けで顔が真っ黒に日焼け)の男三人が三人とも、揃ってきょとんとする。
 Dはすっとぼけたように視線を逸らし、答えた。
「徳川家康だよ。ええと……東照大権現様とか、江戸幕府初代征夷大将軍とか言った方がいい?」
「えええ!? 同姓同名の別人じゃなくて、あの徳川家康だって言うつもりか!? 十六世紀の人間だろ!?」
「いや……………………なに言ってんの、お前さん!?」
「頭大丈夫か? ケープタウンでマラリアでももらったのか!?」
「お〜や〜?」
 Dはわざとらしく怪訝そうな表情で小首を傾げ、ついっと眼鏡を押し上げる。。
「君たち、僕の言葉を信じない? 今、この中に誰か居るって警戒したばっかなのに?」
「待て待て。なんか居る、とは言ったが、誰か居るとは認めてない!」
「いや、とりあえず開けてみればわかる話だろ」
「そうだな。D、開けてみせろ」
「ん〜……そうだなぁ。どうしようか」
 またもわざとらしく考え込むD。この青年がなにを考えているのかわからず、三人は首を捻るばかり。
「時にお三人さん。君たち、『シュレディンガーの猫』って知ってる?」
「知らん」
「猫なら、タケシが……」
「ああ、あの三毛猫な。珍しいオスの」
「いや、本物の猫じゃなくてね?」
 Dは苦笑しながら、洋服ダンスの扉に背を預けた。
 三人とも南極観測隊の隊員に選ばれたのだ。科学者としての知識・素養は十分持っていた。
 しかし、今Dが求めている領域の専門家ではなかった。
「詳しい話は日本に帰ってから論文を読むなり、量子力学の先生に聞いてくれればいいけど。簡単に言うとこういうこと。僕はこの中に徳川家康を詰め込んだ。でも、君らは徳川家康なんていないと思っている。この場合、徳川家康がこの中に居る確率は1対1。居るか、居ないかだからね。僕らはこの洋服ダンスの外で議論しているわけだけど、中は見えない。つまり、観察者がいないんだ」
「そりゃ、見えないんだから観察できるわけないだろう」
「量子力学の世界では、観察者のいない場合の箱の中の状態は確率で表される。1対1の場合なら50%と50%。つまり、量子力学的に言うと、この洋服ダンスの中は徳川家康が居る状態と居ない状態が同時に重なり合っている、ということになる」
「……わけがわからない」
「……意味がわからない」
「……意図がわからない。つーか、開けたらわかることじゃないのか」
「そこが問題なんだよ、C」
 Dは我が意を得たりと言わんばかりに、Cを指差した。
「観察者が観察を始めた場合、この状態が解消され、状態はどれか一つに収束してしまうんだ。つまり、居るか。居ないか。元の文脈では、猫が死んでいるか生きているかの状態のどちらかになるような実験の仕方だから、観察者が観察しない限り猫は生きている状態と死んでいる状態が重なって存在している、とシュレディンガーは結論付けたわけだ」
「どういうこと?」
「いや、結局猫は死んでるんじゃ?」
「……犬……」
 Cが思い出したようにがっくり肩を落とす。
 AとBは慌ててDを睨みつけた。
「おい、D! お前――」
「お前さん、なんちゅう話題を――」
「この状況、なにかに似てると思わない?」
「ふざけるな! お前、Cがどれだけ苦しんでるか知ってるくせに――」
「そうだ。いくらなんでも、今こんな悪ふざけをするのは――」
 再び、話が飛ぶ。
 両手で顔を覆ってしまったCはともかく、AとBはかなり険悪な雰囲気でDに食って掛かった。
 しかし、Dは怯むことなく、親指で背後のタンスを指差した。
「このタンスは、南極そのものだ。中に居る徳川家康は、15頭の犬だ」
「……なにを……言ってるんだ?」
「回りくどいな。もっと端的に言えよ! さっきから言ってることがわからん!」
 この時ばかりは、Dもさすがにむっとして言い返した。
「なに言ってんだ。君たちも科学者なら、きちんと僕の言ってる思考実験について考えてみたらどうだ。過程を経ずに答だけ求めるのは、役人のやり方だろう。わからんわからんでいいのか」
 Dの厳しい詰問に、二人は気圧されたように口をつぐんだ。
「今も言ったように、これは量子力学という現在の最先端科学が出した結論に対し、シュレディンガー氏が提示した思考実験だ。これについては色んな解釈が出回っている。だが、僕が言いたいのはこういうことだ。……今、南極は観察者がいない」
 Dの眼鏡越しの視線はCに注がれている。それに気づいたように、Cは少し顔を上げた。
「観察者がいない状態では、全ては確率でしか説明できない。じゃあ、Cに問おうか。君が置いてきた犬は、今どんな状態だ? 死んでいるか? 生きているか?」
 A、BはCを見やった。
 Cは二人の視線には答えず、じっとDを見据える。
「常識的に考えれば、生きている……はずだ。まだ、昭和基地を出てそれほど日も経っていない。樺太犬は寒さに強いし、これまで与えてきた餌の蓄えが身体にもついているはず」
「常識的に考えれば、ねぇ。学究の徒があまり常識的、なんて単語を使うべきじゃないと思うけれど……では、君の常識に従って考えたとして、犬たちが100%死んだと言い切れるのは、どの時点だい? 1秒後かい? 1時間後かい? 明日かい? 一ヵ月後かい? それとも一年後なら?」
「それは……わからない。誰にもわかるわけがない」
「しかし、今は生きていると君は断言するわけだ」
「そうだ」
「じゃあ、君はなにを悲しんでいる?」
「えっ」
 口ごもるCに対し、Dは両手を広げるようにして、小首を傾げて見せた。
「僕に説明してみせてくれないか。悲しむということは、犬たちが死んだ、もしくは死から逃れられないと考えているからだろう? しかし今、君は犬は死んでないし、この先もいつ死ぬかわからないと言っている。それはつまり、君の悲しみというものは、ただ君の想像上で犬たちを殺し、死んだものと思い込もうとしているせいであって、科学者である我々が大事にすべき、事実に即した反応ではないんじゃないのか? 例え感情から発露するものであっても、だ」
「それは……そうかもしれない……が……」
 再びうつむき、困惑の色を隠せずに戸惑うC。
 AとBも、もはや口を挟もうとはしなかった。Dがなにを言わんとしているのか、理解したからだ。
「C。犬たちが死ぬ確率なんか、いくつ数えても犬たちの運命は変わらないし、現状を知ることも出来ないぞ」
 Dは洋服ダンスから背中を離し、Cに言い募る。
「そして、南極に――昭和基地に、再び観察者が入らない限り、犬たちがどうなったかなんて誰にもわからない。生きている状態と死んでいる状態が重なったまま、確率だけの存在で居続けるんだ。このタンスの中の徳川家康や、シュレディンガー氏の思考実験にかけられた猫のようにね。君が……犬たちに責任を感じているのなら、なんとしても再び昭和基地へ戻ることだ。戻って犬たちがどうなったのか、その目で確認する。それが、今君に出来る犬たちへの最大限の対応だ」
「D……俺は……犬たちを見殺しにしたんじゃないのか……?」
「僕に訊かれても、僕にはなんにもわからないよ。答えようがない。君の疑問の答えは、君がその目で確かめたまえ。良心の呵責を感じるのは、それからで十分だ。今から未来の後悔をして、なんになる。君は、科学が、人の知性がそういうものだと教わったのか? 南極での一年で……犬たちとの一年で得たのは、そんな結論なのか?」
「違う!」
「だったら、君がなすべきこと――いや、なせることをなせ。想像の中に閉じこもってひたすら許しを乞うても、相手は戸惑うだけだ。許しようもない。まだ死んですらいないんだからな」
「そうか……そうだよな。まだ、あいつらは死んでいない。そして、次があるかもしれないなら……」
 Cの目に、生の輝きが点り始めていた。

 ―――――― ※ ―――― ※ ――――――

 AとCが自室に戻り、船室にはBとDだけになった。
「しかしまあ、よく言いくるめたものだな。お前さん、詐欺師か?」
 褒めてるのか、貶しているのか。
 Dは憤慨した様子で言い返す。
「失敬な。僕はなにひとつ嘘も気休めも言ってない」
「それが嘘だろう。徳川家康は、さすがに……」
 顔をしかめながら笑うBに対し、Dはにこりともしない。
「居ないって? ふぅん……本当にそう思うなら、タンスを開いてみるといい」
「え……」
 思わずDを見やったBに、Dは涼しい顔で続けた。
「もっとも? 確率的には五分五分でも、開けた時の結果は一つに収束するからね。どっちになるかは、僕にもわからない。やってみるといい」
 今ひとつ納得のいかない面持ちのまま、Bはタンスの取っ手を握り、開いた。
 中から転がり出てきたのは、木製のハンガーだった。
 それを見ていたDが笑う。
「おや、残念。徳川家康じゃなくて、ハンガーか。おかしいな。これは予想外の結果だ」
「白々しい。……どういうカラクリだ?」
 呆れ顔の一瞥をDに向けつつ、ハンガーを拾い上げる。
「その扉、ちょっと立て付けが悪くてね。閉めても開き気味なんだ。触ってる時に、少し押し込んだ」
「なるほど。中に立てかけておいたこいつが倒れた音だったわけか」
「別に音はしなくてもよかったんだけどね。まあ、上手くいったよ」
 にんまり微笑むその顔は、いたずら小僧そのものだ。
 Bは怒る気力もなくして、肩をすくめた。
「やれやれ。……あともう一つ、わからんことがあるんだがな」
「なにかな?」
「なんで徳川家康だったんだ?」
「だって、犬がらみじゃん」
 実に当たり前のように答える。しかし、Bにはまるでわからない。
「徳川家康が? なんか、犬にまつわる話でもあったのか?」
「ほら、幼名が犬千代って言うそうじゃないか」
「いぬちよ? 徳川家康の幼名が? ……いや、それは違うぞ」
「え?」
「作家の山岡荘八が新聞で連載してる、『徳川家康』の最初の方で出て来たから覚えてるぞ。徳川家康の幼名は竹千代だ。ええと、確かな、犬千代は……ああ、そうだ。織田信長の家臣・前田利家の幼名だよ」
「えええええ。うっそぉ……」
 ショックを受けているD。
 Bはようやく溜飲を下げた様子で、愉快げに笑う。
「最後の最後にやらかしたな」
「うるさいな。……僕はバリバリの理系だから、文系は苦手なんだよ。それに――」
 不機嫌そうにそっぽを向くD。
「南極と徳川家康は関係ないだろ」
「それを言ったら……そもそも南極と徳川家康とシュレディンガーの猫とやらも、全く関係ないと思うがな」
 言いながらBはタンスの中にハンガーを放り込み、扉を閉めた。

 ―――――― ※ ―――― ※ ――――――

 その後の南極観測隊の動き。

 1958年(昭和33年)
 7月11日 日本学術会議の要請を受けた日本政府は、南極観測事業の延長を閣議決定。
 11月12日 改修された南極観測船「宗谷」第3次南極観測隊を乗せて出発。

 1959年(昭和34年)
 1月14日 「宗谷」南極到達。第三次南極観測隊、上陸。
 ――その中に、Cの姿もあった。そして……。
 
終わり



主な参考記事:
「あらすじと犯人のネタバレ」「南極物語」「南極大陸」の項 http://netabare1.blog137.fc2.com/
「胸を打つ人間ドキュメント」運命の船「宗谷」と南極越冬隊の奇跡
  http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Ningen/nankyoku/sub_nankyoku.html
Wikiペディア
 「南極地域観測隊」
  http://ja.wikipedia.org/wiki/南極地域観測隊
 「宗谷 (船)」
  http://ja.wikipedia.org/wiki/宗谷_(船)
 「タロとジロ」
  http://ja.wikipedia.org/wiki/タロとジロ
 「南極物語」
  http://ja.wikipedia.org/wiki/南極物語
 「シュレーディンガーの猫」
  http://ja.wikipedia.org/wiki/シュレーディンガーの猫
 「エルヴィン・シュレーディンガー」
  http://ja.wikipedia.org/wiki/エルヴィン・シュレーディンガー

ニコニコ大百科
 「シュレーディンガーの猫」
  http://dic.nicovideo.jp/a/シュレーディンガーの猫

カオスちゃんねる
 「シュレディンガーの猫って結局どういうことなの?」
  http://chaos2ch.com/archives/2519147.html

あとがきへ


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