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 ヒーロー

 ゴリアスDDから放たれたロケット弾が、瓦礫の上に陣取っていた巨大生物の一団を吹き飛ばした。甲高い断末魔がいくつも重なって響き渡る。
 その響きも消えやらぬうちに、新たな巨体が爆煙を掻き分けて突進してきた。艶光りする黒い体を揺すり、人の腕ほどもある牙を開いて襲い掛かってくる。
 しかし、EDFの制服に身を包んだ男はすでに武器を持ち替えていた。
 アサルトライフルAS−18。低く凶暴な唸りをあげてマズルフラッシュが閃き、排出された空薬莢が軽やかに路面を叩く。たちまち漆黒の甲殻に無数の穴が空き、蟻に似たその巨大生物は、黄濁した体液を撒き散らしながら崩れ落ちた。
 静寂。
 男は肩で息をしながら、へルメットバイザーに映るHMDのレーダーで辺りを窺った。
「……とりあえず終わった、か」
 レーダー上にも、自分の視界内にも敵影がないことを確認し、緊張を解く。
 全身にかぶった黄色い液を振り払うと、液に触れたアスファルトから白煙が上がった。
「うぷ。臭ぇな」
 漂ってきた臭気に思わず顔をしかめる。ヘルメットに装備されているエアカーテンでも防ぎきれないほどの酸臭が立ち込めていた。
「やれやれ……よくもまあこれだけ吐き出し――あー、バッテリーも半分切ってるな」
 ベルトのバックル上面に示されたインジケーターを確認し、男はため息をついた。
 アスファルトを溶かす蟻酸を頭からかぶっておきながら、全くの無傷。制服に穴が空くどころか、染み一つついていない。それはEDFの制服に採用された最新鋭の防御技術のおかげだった。バックルから供給されるエネルギーでバリアを張り、攻撃を防御・緩和する――そんな嘘のような技術。
 EDF本来の役割であったPKFにおいて求められた、『時と場所を選ばずに迅速かつ軽快に行動でき、なおかつ敵からの初撃をほぼ完全に防ぐ能力を持つことで専守防衛を現実化できる制服』という少々無茶なコンセプトを満たすために、ブレイクスルーを3桁ほどすっ飛ばして開発された技術である。
 たとえ頭から蟻酸をかぶっても、このバリアがあれば制服の表面に染み一つつけられない。だが、バッテリーが空になれば――後に待つのはユウキ隊員と同じ結末だ。
 とはいえ、作戦終了までバッテリーの補充は出来ない。危ないと見て撤退するか否かの判断は現場の隊員各個に委ねられているが……。
 男は周囲を見回した。
 破壊される前までは一戸建ての家が整然と並ぶ閑静な住宅地だったのだろうが、今では瓦礫の山が並んでいるだけだ。
 緑の芝生に覆われた庭に、横倒しになったブランコとひっくり返った三輪車。
 瓦礫の下敷きになって、へしゃげ潰れた物置や車。
 ひび割れ、めくれ上がり、重なり合うアスファルト。
 その上に電柱や街灯、門扉にブロック塀、生け垣、鉄柵が倒れ込み、ぶちまけられた蟻酸によって白煙をあげている。当然ながら人の気配はない。
「アスファルトとコンクリートのサラダ・蟻酸ドレッシングか……へっ、犬も食わねえや」
 唇を歪めて吐き捨て、男は次のブロックへと歩き出した。

*********************


 2、3ブロック進むと、風景が変わった。
 マンションや公団住宅が建ち並んでいる。ところどころ半壊していたり、完全に倒壊して瓦礫の山と化している棟も窺える。
 もちろんここにも人の気配はない――はずだったが、物音を聞いて男は足を止めた。
 何者かが瓦礫を崩し、掘り返している。ただ、巨大生物がやっているにしては少々非力な印象を受ける、控えめな音だった。
 見れば、HMDに白い光点が映っていた。白は敵でも味方でもない動体反応――要するに非戦闘員か、何らかの事情で野良化した動物だ。
 音を頼りに辺りを探索すると、すぐにその現場に出くわした。
 小学校高学年くらいの男の子が一人、半壊したマンションの中に入り込んで瓦礫を掘り返している。その作業を始めて長いのか、全身埃まみれだった。
 少年は背後から近づく男の気配にも気づかぬ様子で、一心に瓦礫を掘っている。
 しかし、彼の周囲にうずたかく積み重なったマンションの瓦礫は、見た目にもかなり微妙なバランスで現状を保っている。状況としてはかなり危険だった。
 男は少年の真後ろに立ち、そっと肩越しに作業を覗いた。
 少年は色々なガラクタを引っ張り出しては、違う、と呟いて脇に放り出していた。
「……何を探してるんだ?」
 少年がびくり、と震えて振り返った。その顔がさっと青ざめる。
「あ、あ……、ぼ、ぼく、何もっ……ごめんなさうわっ!!」
 とっさに男の脇を抜けて逃げようとした少年は、しかし自分で掘り返した瓦礫に足をとられ、その場でひっくり返った。
 その拍子に積み重なった瓦礫のバランスが崩れた。
「おっと、危ない」
 少年の真上に倒れこんできた大人の背丈ほどもあるコンクリートの壁を、男は左手で受け止めた。ずしりとしたその重みに、表情が少し曇る。
「む…………早くしろよ――ああ、そうじゃない」
 慌てて這い出そうとした少年に、男は首を振った。
「探し物はまだ見つかってないんだろ。早く掘り出せ。ここは支えててやるから」
「え……いいの?」
「しばらくなら大丈夫だ。早くな」
「う…………うん!!」
 顔を輝かせた少年は、慌てて再び瓦礫を掘り返し始めた。

*********************


「あ………………あった!! あったよ!!」
 突然嬉しそうに叫んで振り返った少年は、しかし次の瞬間、絶句した。
 その理由を、男は少年が振り返る前に知っていた。
 HMDのレーダー上で、自分を示す中心点に重なる白と赤の光点。
 さっきから接近していたのはわかっていたから、少年が何を見ているのかは容易に想像がつく。問題はそのこと自体ではなく――
「――何色だっ!?」
「あ、赤っ!!」
「伏せてろっ!!」
 少年が答えた刹那、男はAS−18を手の中でくるりと回し、逆手に持ち替えた。脇で銃身を固定し、親指で引き金を引く。
 軽快な銃声、跳ね踊る空薬莢、身体を揺さぶる振動――背後で轟く巨大生物の断末魔。
 嗅ぎ慣れた体液臭が漂う頃には、弾倉は空になっていた。
「……大丈夫か?」
 瓦礫の中で頭を抱えて震えていた少年は、恐る恐る顔をあげた。
「そろそろ行こう。ここは危険だ」
 頷く少年に重なって、HMDのレーダーには接近する赤い光点の群れが映っていた。

*********************


 巨大生物の足はかなり速い。六本の足は足元の悪さなどものともせず、瓦礫の山を簡単に走破してみせる。
 二人はたちまち追いつかれそうになり、被害の少ない公営住宅の一室に逃げ込んだ。
 前世紀の遺物と呼べそうなその古い建物は、『昭和』という時代に建てられたもので、階段も踊り場も人がようやくすれ違えるほどの幅しかない。あの巨大生物ではせいぜい頭部を突っ込むのが関の山だ。少なくとも玄関から扉を押し破られる心配はない。
「とりあえず、ここでしばらく様子をみよう」
 男はベランダのサッシ越しに外の様子を見た。
 蟻に似た巨大生物は、赤黒取り混ぜて眼前の廃墟をうろうろ徘徊している。HMDで確認する限り20はいる。
 耳元では本部の指令が矢継ぎ早に出されていた。男の担当領域外でもEDFはかなり苦戦を強いられているようだ。各隊員に相互の状況を伝える女性オペレーターの声も、少々ヒステリックなものになってきている。
「ねぇ、なんでこんな急に集まってきたの……?」
 外を見るのが怖いのか、少年はサッシには近づかず、部屋の隅で壁を背に座り込んだ。
「さっき殺した赤い奴の最後の鳴き声、あれが呼んだんだろう」
「じゃあ……。…………あの、ごめん……なさい。僕……僕のせいで」
「気にするな。君がいなくても俺は奴を殺した。ところで」
 サッシから離れ、膝を抱えてうつむく少年の横に腰を下ろす。武器を置き、ヘルメットも脱いだ。
「君の探し物、何だったんだ?」
「……………………」
「いや、見せたくないなら別にいいんだが」
 少年は首を振って、黙ってそれをさしだした。
「お!? それは――」
 それは人形だった。
 昆虫を髣髴とさせる容貌ながら、バイクに乗って颯爽と現われ、自由と平和のために己の身をかえりみず戦う、この国に住む男の子なら誰でも知っている変身ヒーローの。
「それが、君の宝物か」
「うん、最後にお母さんに買ってもらったものだから……」
「そうか……――しかし、懐かしいな」
「え?」
 男は人形を手にとった。旧い友達に会ったような眼差しで見つめる。
「俺も子供の頃にこの番組を見てたよ。憧れたもんさ」
「え? でも、それはこの間までやってた……」
「ああ、もちろん昔のやつな。ありがとう。返すよ」
 男から人形を受け取った少年は、それをじっと見つめ、ぽつりと漏らした。
「ほんとにいたら……よかったのにな」
「信じてないのか?」
「いてほしいけど……いるわけないよ。こんなの全部作り話さ。小五でも、それぐらいわかってるよ」
 少年は、潤んだ目を何度も袖にこすりつけてぬぐい、はなをすすり始めた。
「第一、もしほんとにいるのなら、お父さんやお母さん、それに知沙があいつらに殺される前に来てくれたはずだもの……」
「そうか。家族が……」
「いるわけないんだ。いるわけないのに……いるわけないのに……僕……僕……」
 うわごとみたいに繰り返しては、人形を見つめ、すすり泣き続ける。
 男は少年の横顔をじっと見つめていた。
「……ヒーローを待つのは子供の特権だ。恥ずかしいことじゃない」
 優しく少年の頭をぽんぽんと叩く。
「それに、ヒーローはいる」
「…………?」
 しゃくりあげながら、少年は怪訝そうな顔で男を見た。
「俺が保障する」
 にっと笑った男に、しかし少年は首を振ってまたうつむいてしまった。
「……いいよ。そんなみえみえの嘘で喜べるほど、僕、子供じゃないもの。っていうか、子供扱いしないでよ」
「そういう意固地なところは、実にガキっぽいと思うがな」
 かすかに笑って、男は立ち上がった。
 ベランダに面したサッシの傍に建ち、外を窺う。
 崩れた建物、積み重なる瓦礫、這い回る巨大生物……。
「君の言うとおり、確かにそいつは来ないだろう」
 その一言に、少年は顔をあげた。
 男の目はサッシの向こう、建ち並ぶ高層住宅をさらに越えて、遥か彼方を見ていた。
「――けれど、きっとここではないどこかで、誰かを助けるために戦っている。だからここには来られない。俺はそう信じてる」
「だったら、いないのと同じじゃないか」
 少年はぶっきらぼうに吐き捨てた。
「僕は、僕を助けてほしいんだ! 知沙を――妹を、お母さんやお父さんを、あの時、助けてほしかったんだ! 他の誰かじゃなくて、僕らを助けてほしいんだよ!!」
 背中に投げつけられたその一言に、男は目を細めた。
 ある日突然、理不尽な侵略によって幸せを奪われた途惑い、悲しみ、怒り。そして、その理不尽な行為に対して無力な自分への、どこにもぶつけようのない怒り。
 それは今、地球上で生き残っている人々の大半が抱いている思いだ。
 無論、自身の内にもある。
「信じられるものなら信じたいよ! でも、僕の前には一度だって現われたことがないんだよ!? 現に今だって来ない!! それなのに、どうやって信じればいいのさ!!」
「……ヒーローを待つ。それは力のない者、子供の特権だ」
 少年の叫びを黙って背中で受け止めていた男は、繰り返した。
「そして、その思いに応えるのは、力のある者――大人の責任だ」
 少年は怪訝な顔つきになった。
「なに……言ってるの?」
「君が信じてくれるなら――いや、君が信じてくれなくとも、か」
 振り返った男は自信たっぷりに笑っていた。まるで番組の中のヒーローのように。
「俺が君のヒーローになろう」

*********************


 不意にベランダに影が落ち、巨大な赤蟻の顔がぬっと現われた。
 少年が息を飲んだ時、既に男は拾い上げたAS−18の銃口をベランダに向けていた。
 軽快な発砲音とともに槍の穂先のようなマズルフラッシュが閃き、ガラスを砕く。赤蟻の頭はあっという間に穴だらけになって、砕け散った。
 ベランダから風が吹き込んでくる。すえた酸臭と巨大生物達が交わす鳴き声とともに。
 今の銃声と赤蟻の悲鳴が呼んだか、新たな赤蟻が別の窓を破って首を突っ込んできた。
きしゃああ、という叫びとともに強靭な牙が開き、無表情な複眼が日の光を弾いて輝く。
 ベランダにも黄色い体液がびちゃびちゃと降り注ぎ始め、白煙と酸臭が漂ってきた。
「長くは保ちそうにないな。出よう」
 言いながらAS−18をぶっ放し、2匹目の赤蟻に1匹目と同じ運命をたどらせる。
 ヘルメットを拾い上げた少年を促して玄関へと移動しつつ、弾倉を取り替える。
 鉄の扉を開くと、凄まじい騒音が耳を打った。交錯する無数の虫の足音と鳴き声。ところ構わずぶちまけられる酸の音に、壁に体当たりを繰り返す地響き。
 舌打ちを漏らす男の背後で、少年は絶句していた。とてもではないが、手の中に握っているヒーローであっても脱出するのは無理なように思える。
「お、お兄ちゃん……こんなの……」
 男は黙ってヘルメットを少年にかぶせた。
「そのバイザーに映っている赤い点、それがあの蟻どもで白いのが俺だ。わかるか?」
 右へ左へ頭を振った少年は、力強く頷いた。
「うん、わかる。大丈夫。こういうの、ゲームとかで慣れてるから。円の中心が僕だよね……あれ? なんか、端っこにたくさん集まってるけど……?」
「それは別の群れだ。とりあえず今は無視していい」
「無視していいって……どうするの? この周りだけでも赤い点だらけで逃げ道なんて」
「道は俺が切り拓く」
 言いながら、男は踊り場を挟んで反対側の家の扉を開いた。
「この周囲から敵が移動したら、君はこっちの家のベランダから裏へ出て、赤い点のない方へ全力で走れ。避難所の方向はわかるな?」
「え? え? え?」
 男は屈み込んで、混乱している少年の肩に手を置いた。
「いいか。君自身の判断で走れ」
「僕の……判断、で?」
「そうだ。力の限りにな」
「そ、そんなの無理だよ!」
「無理じゃないさ。君はEDFの装備も持ってないのに、大事な物を取り戻すために一人でここへ来た。その勇気をもう一度発揮すればいいだけだ。君の背中は俺が必ず守る」
「お兄ちゃん……お兄ちゃんはどうするの?」
「ここだけの話なんだがな」
 ヘルメット越しで表情の窺えなくなった少年の肩を軽く叩いて、男は立ち上がった。
「実は、俺がいるからそいつはここへ来ないんだ。俺なら大丈夫だと、そいつも認めてるのさ。だから、心配するな」
 少年が手の中の人形に目を落とした刹那――男は走り出していた。

*********************


 公営住宅を出るなり、男はゴリアスDDをぶっ放した。
 周辺で連続して爆発が起き、悲鳴が交錯する。破片やら本体やらが派手にふっ飛ぶ。
 怯まず迫ってくる黒と赤の津波に、AS−18が唸りをあげて牙を剥く。
 赤蟻の牙をかわし、黒蟻の放つ酸の雨を避け、瓦礫の間を駆け抜け――
「――そこだっ!!」
 一瞬、巨大生物の包囲に生じた綻び。男は両脇に抱えたゴリアスDDとAS−18を、ここぞとばかりにぶっ放した。
 荒れ狂う爆炎、吹きすさぶ爆風、閃くマズルフラッシュ、流れる銃声、そこかしこで沸き上がる悲鳴、薙ぎ倒されてゆく巨体。
 ふと、建物の陰から脱兎の如く走り去る少年の背中が見えた。羽根でも生えているかのように軽々と瓦礫を踏み越え、風の申し子のように真っ直ぐ、ちらりと振り返ることもなくただ前だけを見て、駈けて行く。
 新たな獲物に気づいた素振りを見せた黒蟻が、次の瞬間、穴だらけにされた。
「お前らの相手は俺だ」
 地獄の底から湧いて出るような声。人語を解するはずのない巨大生物達が、一瞬気圧されたように動きを止める――その隙を逃さず、男は駆け出した。
 ぐんぐんスピードに乗って走り去る少年の背を追いながら、ゴリアスとAS−18の弾倉を交換する。背中に何度か液体を浴びて、ベルトバックル上面のインジケーターが見る見る下がり、警告が発される。
『累積だめーじガ許容限界ニ接近。撤退ヲ提案シマス。繰リ返シマス。累積……』
「悪いが、今は退けねえ」
 ブロックの端まで来て、男は振り返った。見通しのよい片側3車線道路が交差し、辺りの建物もあらかた瓦礫と化している。この場所ならば、HMDの支援なしでも相手の動きがよく見える。少なくともここを突破しなければ、少年の後は追えない。
「……君の家族の仇は、俺が取ってやる。君は家族の分も生きろ」
 背後遥かに走り去る少年に呟きかけ、男は再び武器を両脇に抱え込んだ。
 瓦礫を踏み越え、道路を疾走して黒と赤の津波が迫ってくる。
 切れた息を整え、叫んだ。
「さあ、ここが墓場だ。お前らか、俺か……あるいは両方のな」

*********************


『たった一人であんな巨大な敵を倒すなんて……お前の方がよっぽど怪物だよ』
 その日、【巨獣ソラス】と名づけられた超巨大生物が、たった一人の地球人によって屠られた。
 それは理不尽かつ容赦のない侵略によって絶望に落ち込みつつあった地球人類に、一筋の希望が生まれた瞬間であり、後世、歴史の大きな転換点とされる時であった。

*********************


 夕陽が廃墟の街を赤々と照らしている。
 全てのものが動きを止める時間。
 街で動いている影はごくわずかだった。
 風にはためくボロキレ、揺れる雑草、そして人影。
「お兄ちゃーん」
 少年は辺りを見回しながら、そっと呼んだ。
 HMDには白と赤の点が1つずつ映っている。
「これに映ってるってことは、死んでないってことだと思うんだけど……」
 しかし、少年の視界に映っているのは累々と横たわる巨大生物の遺骸と、酸でずるずるに溶けたアスファルト、人気のない風景だけだった。
「凄いや……あれだけいたのに、全部一人でやっつけ――お兄ちゃん?」
 不意に背後で起きた、何かを引きずる音。
 期待と不安をない交ぜに振り返れば――黒蟻がいた。
 その巨体の上に折り重なる仲間の遺骸から這い出し、全身を震わせながら顎を開く。
まるで『いいところで餌にあった』と笑ったかのように、少年には見えた。
 逃げなきゃ、という意思に反してかっくり腰が抜けた。這いずって逃げようにも指先にさえ力が入らない。病気にかかったみたいに、全身の震えが止まらない。
 蟻の巨大な複眼がじっと少年を見つめ、よろめきつつも確実に迫ってくる。
「た、助け……」
 あまりに弱弱しく、悲鳴とも呼べないようなかすれた声。
 その時だった。
「よくおびき出してくれた」
 静かな、まるで動揺を感じさせない声が背後から聞こえた。
 振り返るよりも早く、ぼしゅ、と噴出音が起き、続いて全てが光に包まれた。顔を背ける暇もなかった。
 それが爆発で生じた光と炎であることに気づいたのは、爆風に吹き飛ばされ、したたかにお尻を打った後だった。
「いたたたたた…………な、なに? なんだったの?」
 上体を起こした少年の肩に、背後から大きな手が置かれた。
「……敵は? 他に潜んでる奴はいないか?」
 聞き覚えのある声。少年は慌てて視界の右上に映るレーダーを見直した。
「あ、うん。…………もうこの辺にはいないみたい」
「そうか。HMDがなくて、掃討が終わったのかわからなかったんだ。助かったよ」
 ふぅっと一息ついた男は、その場に腰を落とした。
 少年は振り返った。
 男は泥まみれだった。全身を濡らしているのが巨大生物の体液なのか、それとも自分の出血なのか、夕暮れの光の中でははっきりと判別できない。
 しかし、少年の目にも男が疲れきっているのはよくわかった。
「それにしても、何で戻ってきたんだ」
 少年はヘルメットを脱いで、男に差し出した。
「これを返さなきゃって思って」
「そうか。ありがとう」
 男はヘルメットを受け取った。
「しかし、わざわざこんな危険を冒さなくても、避難所で警備してるEDF隊員に渡してくれれば……」
「そうしようと思ったんだけど……それどころじゃない騒ぎになっちゃって……」
 途端に男の顔が険しくなった。
「なんだ? 避難所が襲われたのか?」
 少年は首を振った。
「違う。……東京の方に、怪獣が上陸したんだ。身長が40mとか言ってた」
「ああ、それで。そりゃ本部も大騒ぎに――」
 納得しかけた男だったが、少年はなおも左右に首を振った。
「それを誰かが一人で倒しちゃったんだ。それで、避難所の中も英雄だ、神様だとかって大騒ぎになっちゃって……僕はお兄ちゃんのことを言って、助けてもらおうって思ってたんだけど、誰も話、聞いてくれなくて」
「そうか。それでわざわざ一人で……すまんな」
「いいよ。僕も助けてもらったし。さぁ、帰ろ」
 少年の差し出した手を、しかし男は握らなかった。
「……どうしたの?」
「悪いな。俺はまだ帰れないんだ。任務が残ってる」
「な……何言ってんの?」
「日も暮れるし、一人歩きで迷うと危ない。迎えを呼ぶから、ここで待っているんだ」
「ちょちょちょ、ちょっと待ってよ。任務ってなに? もう敵はいないじゃない」
「レーダーを見ていたのならわかってるだろう? あの残存勢力を殲滅する」
 少年は不意打ちを食らったように立ち尽くし、二、三度口をパクパクさせた。
「だ…………大丈夫だよ、そんなの明日になれば他の人がやってくれるよ。そうだよ、怪獣を一人で倒した人だっているんだからさ、その人が来てくれれば――」
「俺がここで任務を果たせば、怪獣を倒したヒーローは明日、他の誰かを助けに行ける。それに、最寄の避難所まで奴らの足なら30分もかからん。ここで掃討しておかないと、今晩にも避難所が襲われる可能性がある」
「その時は警備の人が戦ってくれるよ」
「俺が殲滅しておけば、彼らが戦うまでもない」
「じゃ、じゃあ、せめて応援、応援を呼ぼうよ。僕はここで待ってるから、応援の人と一緒に行ってその帰りに拾ってってくれれば――」
「それも難しいな」
 男は険しい顔つきで西に沈む太陽を見た。
「一応、要請はしてみるが……さて、手の空いてる奴がいるかどうか。それに、応援が本部の許可を取って、装備を整えてここへ来るまでにあの太陽が沈む。そうなれば、いかに暗視装置つきHMDを装備していようと人間の方が不利だ。日が沈むこの一時間ほどが勝負の分かれ目だ。その間に奴らと戦えるのは、今は俺しかいない」
 それにな、と男は少年に目を戻して続けた。
「この先で誰かが助けを待っているかもしれない。ここで退いたらヒーローじゃない」
 もう、男を引き止める理由が見つからなかった。
 少年はうつむき、黙り込んだ。
 胸の中にもやもやがたまり、自然と涙が溢れてきた。
「…………僕……僕は……」
 はなをすすって、袖で涙をぬぐう。
「泣くなよ。別に全く勝ち目のない戦いにゆくわけじゃないんだ」
「だって……」
「おっと、一緒に行くってのは無しだぞ」
 男は腰を上げた。肩を回し、体をほぐす運動をする。
「わかってるよ。そんなこと……」
 だから悔しいのだ、と理解できるには、まだ少年は幼かった。
 一緒に戦う、と言える度胸もなければ、その資格・力もない。自分も誰かのヒーローになりたいのだ、と自覚するにはまだ少しの心の成長を待たなければならない。
 それは『知っているのに表現する言葉を知らない』という感覚に似ている。
 だから、出口のない思いが涙となって頬を伝っている。
「頼みがある」
 体をほぐし終えた男は、ヘルメットをかぶりながら少年に声をかけた。
「君のお守りを借りたい」
「……え?」
「ほら、今日見つけたお守り」
 ああ、と頷いて、少年はポケットから人形を取り出した。
「これ?」
「ああ、それだ。代わりに――これを預けるよ」
 男は制服の内側から、銀のロケットを取り出した。
 中を開くと、若い女が幸せそうに微笑んでいた。
「……誰? お兄ちゃんの彼女?」
「ん、まあそんなところだ。予定通りなら、今日辺り俺の嫁さんになるはずだった」
「え…………?」
 急に風が吹いた。二人の間を吹き抜けた肌寒い夕風は、辻で渦を巻いた。
「それは、彼女がこの世に生きていたという唯一の証だ。大事にしてくれ」
 少年は頷いた。頷くしかなかった。
 男は受け取った人形を制服の内ポケットにしまいこみ、少年の頭をぽんぽんと叩いた。
「それじゃ、行ってくる。後は頼むぞ」
 何を頼まれたのかもわからぬままに少年は力強く頷き、銀のロケットを握り締めた。
 そして男は、歩き出した。力強く、堂々と。

*********************


「――その隊員の名前は、今も分かっていない」
 EDF極東本部敷地内のEDF訓練学校。
 収容人数200人を誇る扇形の大教室に居並ぶ、数多くの若いEDF隊員たちの前で、白髪の教官が話を続けていた。
 その手にぶら下げた銀のロケットが、ゆらゆらと揺れている。
「皆も知っている通り、2017年5月17日の第1波攻撃で全世界のEDF本部は壊滅したため、戦前の記録はほとんど全て失われている。その後に臨時のEDF本部が立てられたものの、これもまた伝説の東京決戦において壊滅、記録の類はことごとく灰燼に帰している。そのため、あの時誰がどこで戦っていたのか、はっきりとはわかっていない――そう、マザーシップを撃墜した英雄の名前さえ、我々は知らない」
 大教室は静まり返っていた。
 英雄――その名は戦後の権力闘争の中で消去されたとも、自ら表舞台から消えたとも言われている。名前だけではない。その人となりも完全に封印されており、いまや知られているのは『英雄がいた』ということだけ。戦後数十年、様々なメディアで取り上げられながらも、その実像はいまだ定まっていない。
「……少し話が脱線したな」
 教官は一つ、咳を払った。
「さて、諸君。規定のカリキュラムを終え、明日の終了式をもってここを巣立つ君達にこの話をしたのには、当然理由がある」
 天井の高い大教室をぐるりと見回す。どの生徒も集中した面持ちで聞いている。
「諸君はEDFの新人隊員として、各地で平和維持活動の任に就くことになるわけだが、その任務はかなり過酷なものだ。地球上のテロリズム・民族独立活動・組織犯罪との戦いだけではない。軌道や月のステーションの警備……この中の幾人かは、任務中に命を落とすこともありうるだろう」
 途端に教室中にかすかな動揺が走った。教壇の脇に控えていた事務官も顔をしかめる。しかし、教官は構わずに続けた。
「そんな戦場へ赴く諸君は、是非胸に刻んでおいてほしい。今の話に出てきた言葉を」
 もう一度、ゆっくりと教室を見渡す。動揺の気配は徐々に収まっていった。
「ヒーローはいる」
 教官の発した声が、大教室の空気を震わせる。
「少なくともそう信じている人、そう信じたい人がいる限り、ヒーローはいなければならない。そしてそれは、ここにいる」
 教官は握り拳で自分の胸を叩いてみせた。
「――そうだ、いるのだ。どこでもない、諸君のここに」
 胸を叩く手に下がるロケットが、かすかに音を立てた。
「諸君が手にする力は、誰かのヒーローになれる力だ。救いを求めるか弱き人々を救うための力だ。決して復讐や正義、秩序だけを実現するための力ではない」
 教官はしばし目を閉じた。
 戦後の世界史、それは復讐という名の大虐殺、歪んだ正義同士の争い、一方的な支配による偽りの秩序が魑魅魍魎の如く横行する、一世紀前の世界史だった。
 中東やアフリカでは大規模な民族闘争が再燃し、欧米ではいくつもの集団が正義の名の下にマフィアまがいの抗争を繰り広げ、アジアでは生き残った政治勢力による一方的な秩序が施行されたため、クーデターと暴動が日常茶飯事だった。
 各地に残存していたEDFの戦力と、戦中に開発された新技術がそれらの戦いに投入されたため、事態の収拾はさらに長引いた。世界とEDFが戦前の状況を回復できたのは、つい十年程前のことだ。
 戦後にEDFへ入隊した男は、その全てを見てきた。暗澹たる思いを持って。
 自分を、いや、自分達を救ってくれたヒーロー達は、こんな世界を望んで戦ったのではないはずだと悔し涙を流しながら。
 その思いはまだ、胸の奥にある。世界はまだ完全に平和にはなっていない。
「……君達はまだヒーローではない。ただのEDF隊員に過ぎない。だが、いずれ試される時が来る。君達がただの兵士なのか、誰かのヒーローなのかを試される時が」
 教官は再びロケットを掲げてみせた。
「迷った時は考えたまえ。それが正しいかどうかではなく、その力を振るうことで、誰が救われるのかを。ヒーローと呼ばれるに相応しい振る舞いかどうかを。弱き者を救うのでなければ使わぬ方がよい力、それがこれから君達の手にする力なのだから」
 静まり返った大教室。誰も微動だにしなかった。
「……私の講義は以上で終わる。諸君、静聴ありがとう」
 教官はロケットをポケットに戻し、教卓上に額をつけるほど頭を垂れた。
 事務官が立ち上がり、号令をかける。
「きりーーつ。礼!」
 ありがとうございました、という大音声が大教室に響き渡った。

*********************


 大教室は出てゆく生徒達のざわめきに満ちていた。
 今の講義に発奮した顔つきの者、内容など瞬時に頭の中から消去した態で友人と笑い合う者、妙に緊張した面持ちの者、少し落ち込み気味の者……。
 コートを羽織り、資料をまとめてアタッシュケースの中に放り込んだ教官は、それを片手に提げた。帽子をかぶり、歩き始めて――ふと一人の生徒に目を止めた。
 誰もが後列に座りたがるこの大教室での講義で、必ず最前列の真ん中に座っていた女生徒。怜悧な印象を与える容貌で、その印象どおりトップの成績を出し続けてきた。
 その生徒は、他の全ての生徒がぞろぞろ引き上げる中、ただ一人自ら決めた指定席に座り、まだ何かをメモ帳に書きつけていた。
 教官はその前に立った。
「私の講義に、書き残しておくほどのものがあったかね?」
 頭上からの声に、その女生徒は怪訝そうに見上げた。そしてその声の主が、たった今まで教壇に立っていた教官だと気づくや、立ち上がって背筋を伸ばして敬礼した。
「あ、その……私にはヒーローとかは、その、非現実的というか、あの、ちょっとわかりかねる話でしたので……」
 緊張を隠せない女生徒を前に、教官は愉快気に笑った。
「だろうね。それが普通だ。今のうちにこの講義の本当の意味がわかるようでは、逆に心配だよ。本当の意味は君達がその選択を迫られた時にこそわかる。……できれば、そんな時が来ない方がいいんだが……ま、これは過ぎたる老婆心かな」
 言いながらアタッシュケースと帽子を置き、ポケットから銀のロケットを取り出した。
「君にこれを預けよう。代わりに持っていてくれないか」
「……え?」
「これを持っていれば、いつか君がピンチに陥った時、件のヒーローがやって来る――かもしれないぞ」
 はぁ、と女生徒はあいまいに頷く。教官は快活に笑った。
「ま、もうヒーローの話はいいか。それはともかく」
 ロケットを開く。半世紀以上を経ても変わらぬ笑顔があった。
「あ、この人がさっきの話にあった……」
「私自身は名前も素性も知らぬ女性さ。……ここだけの話、初恋の人でもあるんだが」
「そうなんですか?」
「若い頃は毎日毎日見てたからねぇ」
 老いた相貌に束の間、少年の憧憬がきざした。
「……この写真は、この女性がこの世に存在したという唯一の証だ。私がこれを墓の中に持ってゆけば、その証は失われてしまう。つまり、彼女はこの世に存在していなかったことになると言ってもいい。だから、これを墓の中に持ってゆくわけには行かない。……向こうでは妻も待っているしね」
「でも、どうして私なんですか? 他にもいらっしゃるでしょう? 信頼できる方が」
「信頼する人に渡す物ではないんだよ、これは」
 女生徒は怪訝そうに首をかしげた。
「どういう意味ですか?」
「かつて……一人の男が自分の愛した者の生きた証を、未来ある若者に託した。だから、私も未来ある君にこれを託すのだ」
 教官は女生徒の手を取り、銀のロケットを載せた。優しく包むように握らせる。
「ここには失われた愛すべき過去と、輝ける未来への希望がある」
「過去と……未来……」
「この女性を愛し、そしておそらくはこの女性にも愛された男がいた。そして、そんなどこにでもいる、当たり前の人間が地球を救った。そのことを忘れないでほしい。彼らへの感謝と、彼らが守りたかったものへの思いを、EDF隊員だからこそ忘れないでほしい」
「だから、そこでどうして私なんですか? 他にも立派な新入隊員はいっぱいいるのに」
 教官は少し首をひねった。
「んー……たまたま君が目に止まったから、かな」
 女生徒は疑わしげに眉をひそめた。
「……それだけ……ですか?」
「大事なことさ。理屈をつければ何かつくのかもしれんがね。正直、どうでもいい」
 教官はまだ怪訝そうな女生徒の肩を軽く叩いて、にっこり笑った。
「退官の日、最後の授業が終わって教室を出てゆく時に君がそこにいた。そして、ふと君に預けようという気になった。それで十分だ。縁とかゆかりなんて、そんなものだよ」
「……でも、私には重すぎます」
「後はどうしようと君の勝手だ。捨てるのも、誰かにあげるのも、身につけておくのも。でも、君はそれを捨てはしないだろうけどね」
「……………………」
「捨てられないだろう?」
 じっと手の中のロケットを見つめる女生徒に、教官は含み笑いで言った。
 アタッシュケースを持ち、帽子をかぶる。
 大教室はいつのまにか、三人だけになっていた。辺りに生徒の気配はない。二人の他は教壇の脇で事務官が放送機材の片付けを行っているだけだ。
 立ち尽くす女生徒を尻目に、大教室最後部の出入り口まで歩いていった教官は、その前でふと何かを思い出して振り返った。
「――そうだ、一つ予言をしてあげよう」
 女生徒がはっと顔を上げ、振り返った。
「50年後の今日、君もまた私と同じことを言って誰かにそれを渡しているよ」
 何か重い荷物を下ろしたような爽やかな笑みを浮かべ、教官は軽く敬礼を切った。
「じゃ、元気で。……後は任せたよ」
 そして女生徒がそれに反応する前に背を向け、教室を出て行った。

 しばらくして――女生徒は思い出したように頭を下げた。託された思いを包んだ拳を胸に抱き、怪訝そうな事務官に肩を叩かれるまで、ずっと――。


−終−


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