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「嵐の夜の電話」

 土曜の夜。
 もう日曜になろうかという時間帯。

「う……う〜〜〜〜〜ん」
 戸神江深(とがみ・えみ)はノートパソコンのモニターから目を離し、思いっきり伸びをした。
 チェアの背もたれが彼女のさほど重くはない体重を受けて、軽く軋む。
「煮詰まったなぁ……はぁあ」
 頬杖をついて、モニターを厭わしげに見やる。
 大学の所属研究室の教授から直々に出されたレポート問題なので、適当するわけにも行かない。来年から取り組まなければならない卒論にも関わるテーマであるからには、余計に疎かには出来ない。
 とはいえ、大事であることと出来るかどうかは別問題。
 金曜の夜から丸一日掛けてなお、まだレポートの終わりは見えなかった。
「……ここまで難題とはねぇ。やっぱり、つがちんの誘いを断って正解だったなぁ」
 その姿勢のまま、チェアだけを回して傍らのサッシを見やる。
 夜景が見えない。
 ベランダを無視して横殴りに叩きつけてくる雨と風によって、形あるものは全て水幕の彼方に歪んで見える。

 外は嵐。

 急激に発達した低気圧によって、今朝から降り続く豪雨。
 おそらくテレビをつければ、どこかで川が氾濫しそうとか、水没した街路の風景とか、用水路を見に行ったおじいさんが――おっとそこまでだ。
 まあ、そういう台風の時の報道と同じものが溢れているだろう。
 もっとも、ここは高台のアパートでさらに2階なので、水没の心配はない。
 高台といっても小高い丘の上だし、土砂崩れの心配も特にないだろう。
 ふと、江深はモニターから目を離して、室内を見回した。
 休憩を誘うベッド、何も言わないタンス、意味ありげにこっちを見ている……ような気もするタンスの上のくまとイルカとぶたのぬいぐるみ、今の時期はまだ布団のない第一形態・冬の悪魔コタツ、そしてその上には読み終わった漫画雑誌と、夕食後に放置したままの食器、眠りについたままのテレビ。
 サッシを叩く雨風の音が激しいために、室内の静寂が余計に強く感じられる。
 ふと、部屋の一角で視線が止まる。
 ピンク色のバスケットに無造作に突っ込まれた布の塊……昨日脱ぎ捨てたままの衣服。
「……あー……洗濯忘れてた。……今からやるわけにはいかないよねー」
 今日は出て行く予定ではなく、出て行ける天気でもなかったので、顔はすっぴん、モスグリーンのトレーナーとジャージのズボン、足は裸足、いつもなら念入りに整えるショートカットの髪型も、ヘアバンドとヘアピンで目の前にしだれ下がって来ないようにだけしている。
 多分、明日もこの格好だろう。
 バスケットの中身が一張羅というわけでもなし、洗濯自体は明日晴れてからでも問題はないだろう……親友にはまた「ずぼらだ」と突っ込まれるだろうけど。
 ため息をついて、目を逸らすようにデスクの上に視線を戻す。
 次の入力を待っているパソコン、手元を照らすスタンド、親友からもらったどこかのゆるキャラのフィギュア、走り書きだらけのメモ、時計代わりの携帯、開いたままうつぶせにした参考書籍、鉛筆、ボールペン、はさみ、15cm定規、消しゴム、インスタントコーヒー瓶を再利用したペン立て――あとは、入力の傍らつまんでいたせんべいの袋と、半分ほど中身のなくなった500mlペットボトル。
 今日食べたものは、朝食にパンと目玉焼き、野菜ジュース。昼が冷凍野菜を加えてレトルトソースを掛けたパスタ。夜はレトルトカレー。そして、おやつにピーナツチョコレートとせんべい。ペットボトルの中身はお茶だ。
 このままレポートが進まないなら、明日も同じような食生活になることだろう。
 レポートできあがって、雨も上がってたら、ハンバーガーでも食べに行くかな。
「……つがちん、今頃おいしいもの食べてるのかなー」
 昨日、いきなり山奥の温泉への旅行に誘ってきた親友のことを思う。
 このレポートさえなければ、喜んで一緒に行ったのだが。
 ……あの教授め。なぜこのタイミングで。おのれ謀ったな。

 パソコン画面に向き合う気力も萎え、悶々と取りとめもないことを考えていると、室内の静寂を破るJ−POPが鳴り響いた。
 音の出所に視線が走る。デスクの上のメタルレッドの携帯が震え、表面のサブ液晶ウィンドウに『栂尾詩緒(つがお・しお)』と表示されている。
 たった今思いを飛ばしていた親友の名前。
 江深は素早く携帯を取り上げ、開いて通話ボタンを押した。
 耳に押し当てると同時に、少し浮かれた声で誰何する。
「――もしもし、つがちん?」
『さびしいよー、とがみーん』
 親友の甘えた声に、江深は相好を緩めた。
「ん? さびしいってことは、結局旅行に行っちゃったの?」
『だってぇ、せっかく車の免許もとったんだよ? レンタカーも借りちゃったしぃ、旅館の予約だって断ったらキャンセル料取られちゃうんだもん』
 江深の脳裏に、なぜか10畳敷きくらいの広間で一人ぽつんと布団に足を突っ込んでいる、浴衣姿の親友の姿が浮かぶ。
「だったら、他の誰か誘えばよかったのに」
『一応誘ったんだけど、みんな用事があるってー。だから一人きりなのー』
「まあそりゃ、前日にいきなり言われてもねー」
『それに……やっぱりとがみんと一緒に来たかったんだもん』
「んー……それについては、ほんとゴメンねー。このレポートさえなければ〜」
『あ、ごめんなさい。とがみん、今大丈夫なの?』
 今さらの心配に、江深は苦笑した。
「うん、ちょうど煮詰まって休憩してたとこ。つがちんには悪いけどさ、行かなくて正解だと思ってたとこなのよ。今日一日かかりっきりなのにまだ終わりが見えないんだもん、このレポート〜」
『たいへんだねぇ。なんだっけ、内容』
「えーとね……」
 ノートパソコンの下敷きにしていたプリントを引っ張り出し、そこに書いてある文字に目を走らせる。
「――特定認識域における自意識の拡大と肥大の対比構造時に表出するインタラクティブコミュニケーション網形成概論――の要約」
『………………ごめんなさい。全然わからない』
「あたしだってチンプンカンプン。でもあの教授、卒論指導教官だからさー。やれと言われたらぶっちするわけにはいかないのよー」
『卒論かぁ……もうそんなこと考えないといけない時期なんだね』
「他人事みたいに言わないでよ。つがちんだってそうでしょ」
『私は…………………………うん、まぁそうなんだけど』
 不自然な沈黙に、江深の目が少し細まる。
「なによ、今の間は」
『なんでもない』
「うそつきなさい。なんか思うところがあるんでしょ」
『別に思うところなんか……ちょっと別のこと、考えただけだもん』
「別のことって?」
『……卒業したら、とがみんどうするのかな、って……』
「どうするって……別に普通だよ? どっかの会社に就職するよ」
『どこ?』
 おかしな問い掛けに、思わず江深は視線を虚空にさまよわせた。
「どこって……まだ就活もしてないのに、わかるわけないじゃない。つがちんこそ、どこの業界とか、おぼろげにでも決めてるの?」
『ううん。私は……とがみんの行く会社に行こうかなーって』
「はあ?」
 今度は怪訝そうに眉間を寄せる。
 江深に対しては甘え気味だが、その行動自体はしっかりものの親友には似つかわしくない発言。
「……あのね,社会人は学校じゃないんだからさ」
『ん〜、でもぉ、だってぇ……』
「なに企んでるの」
『企んでないよぉ。……とがみんと離れたくないだけ』
「そんな動機で会社選んじゃダメだよ」
『なんで?』
「なんでって……会社ってのは、社会人として自己実現の場であって、友人との交流の場では――」
『そんなの、大学や高校でも一緒じゃない』
 電話の向こうの口調から、口をとんがらせているのがわかる。
『学校は勉強する場であって、交流の場じゃないっていうのが建前。でも、実際はそれも含めてでしょ。会社選択が友人作りのためだったり――ううん、人脈作りのために会社を選ぶ事だって、あるわけじゃない。友人作りや大学で得た友人との関係維持も人脈作りの一環だと思うの』
「あー……まあ、人脈作りと言われると……反論の余地がない」
 相変わらずとぼけた態度のくせに、つがちんは論理構築がうまい。
「まあ、あたしなんかを人脈に入れて、つがちんがなにをしようというのかわからないけど」
『………………』
「だーかーらー、どうしてそこで黙るのよ」
『だって……とがみん、生活態度だらしないし。ほらぁ、講義だって時々遅刻してるし、部屋だって女の子としてはちょっと……』
 ちらりとコタツの上の放置皿と、ピンクのバスケットに入れたままの脱衣に視線が走る。
「………………それとつがちんの就職と、どう関係あるのよ」
『ん〜、私が一緒に暮らせばフォローしてあげられると思って』
「………………はい?」
『ルームシェアってあるじゃない? あれならお互い家賃も少なくて済むし、とがみん寝坊しても私が起こしてあげられるし、同じ会社ならなおのこと、色々お世話が出来そうだし。あと、私、家事するの大好きだからみんな任せてもらって、お部屋もきれいにしてあげて〜』
 むぅ、と唸る江深。なんと魅力的な提案か。そして、電話越しにわかるほど、つがちんがのりのりでにやけているのがわかる。
 しかし――。
「ちょっと待ってよ」
 つがちんの妄想を遮って、一息つく。それは、魅力を振り切るための深呼吸。
「……そりゃまあ、つがちんが家事とかしてくれるならとても楽になるのは確かだし、家賃が安くなるのも魅力的ね。でも、プライバシーに関して――」
『かなり今更じゃない? とがみんの好き嫌いとか得意苦手……あ、とがみんの性癖とかだってもう全部知ってるしぃ』
「……ううっ」
 大学の入学式で出会って以来、彼女に見せてきたあれやこれやの醜態が脳裏をよぎる。
 そもそも出会いからして、恥ずかしい思い出だ。
 よりにもよって大学入学式の時にハンカチを忘れ、トイレで手を洗った後に気づいて途方に暮れている江深に、そっと横から差し出してくれたのがつがちんなのだから。
「くっ、この【ナチュラルボーン・おかん】め」
『もうなんならつがみんのお嫁さんになろうかなーなんて』
「嫁と申したか」
 冗談なんだか天然なんだかわからず、苦笑する他ない。実際、それに近い世話の焼かれようなのだから。
「えーと。あたし、一応女なんだけど」
 そういう一般常識的な切り返ししか思い浮かばないのが悔しい。
『んん? 知ってるよ?』
「あたしの嫁とか」
『別にいいんじゃない? 二次元の存在を嫁にしてる人だって世の中にはたくさ――』
「それ以上いけない」
『えー。プロポーズぐらい最後まで言わせてよ』
「やかましい。……しかし、嫁かどうかは横に置いておいて、つがちんと暮らすこと自体は別にいいんだけどさー。それでも大問題が残ってるわよ」
『え? なに?』
「つがちん、男慣れしてないじゃない」
『あう。…………そ、そんなの今関係ないもん!』
 親友が見せたほころびに、思わず江深の頬が緩む。ここだ。攻め時だ。
「いやいやいや。あたしが彼氏を部屋に呼んだらどうするの? つがちんも会う?」
『………………』
「ん〜ん? あたしと彼氏がいちゃいちゃしてるのに、同じ屋根の下とかいたくないでしょ?」
『まだ……付き合う気なんだ。男の人と』
 落ちた声のトーンの向こうに、ため息が聞こえた気がした。
 というか――
「まだってなに!?」
 思わず聞き返した。まさか――
『だって、水曜日に彼氏と喧嘩して、完全に破局したって』
「な……なんで知ってんの!?」
『みんな知ってるよ? 私も……えーと、(ごにょごにょ)から聞かされたし』
 よくは聞こえなかったが、(ごにょごにょ)が誰かはもはや江深にとってはどうでもよかった。
 携帯を耳に当てたまま、頭を抱えるようにしてデスクに突っ伏す。
 女子の噂話ネットワーク恐るべし。……まあ、自分も時々そういう噂話に参加しているので、人のことをどうこう言えた義理ではないが。
『相手の人が浮気して、しかもそっちが本命だったんでしょ? その現場に出くわしたから、男の人の大事なとこを潰してお別れしたって』
「潰してないっ! そんなんしたら、今頃留置場よ! ……思いっきり張り倒しはしたけど」
『そんな目に遭ったのに、まだ彼氏とか作るの?』
「………………」
 それはそれ、これはこれ。あの馬鹿男は一生許さないが、恋に落ちるとか彼氏を作るというのは、別の話だ。
 次は優しくて、付き合いがよくて、自分だけを好きになってくれるいい男かもしれない。
 しかし、恋愛経験のないつがちんにそれを言っても……。
 どう答えたものか迷っていると、つがちんの方から折れてきた。
『……うん。まあ、そんな目に遭っても前向きなのが、とがみんのいいところだもんね。今回の旅行も、本当はとがみんを慰めようって思って計画したんだけど……空回りっぽかったね。あはは。じゃあ……私のサポートはいらないかぁ』
 寂しさを伴うその声音に、江深は自分が悪いことをしたかのような錯覚を覚えてしまい、苦笑を浮かべた。
「そんなことないよ」
 そう答え、目を閉じる。つがちんの声に集中できるように。自分の想いが、電波に乗って彼方の彼女に届くように。
「その気持ちが嬉しいよ。さっきまで結構むしゃくしゃしてたけど、今のでとっても幸せな気分になれたもん。ありがとうね」
『とがみん……』
「そんなわけだからさ、つがちんはつがちんで精一杯旅行を楽しんでよ」
 閉じていた目を開き、にっこり微笑む。
『でも……』
「確か、露天風呂あるんでしょ? 嵐の時に温泉に入れるって、なかなかない経験だよぉ? それに、朝には多分晴れると思うからさ、その辺りの観光名所を巡っていいとこ見つけといてよ。話のネタにさ。次に誘われたら絶対行くから。そのときには色々解説してもらうからね」
『うん、……そうだね』
 くすりと笑う声が聞こえて、ほっとする。感謝の思いは届いただろうか。
『……ねえ、とがみん』
「うん? なに?」
『え〜とね。あのね』
「うん。うん」
『ん〜〜〜〜〜っと、その……ね?』
「だから、なによってば」
 いつものしっかり者のイメージにそぐわない、でれでれの甘え声。江深の頬もつい緩む。
『ん〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜……あの、ね? ……とがみん………………好き、だよ』
「………………」
 しばらく――時間にして1、2秒。
 江深の思考が止まった。
 そして、すぐに今の遅れを取り戻そうと高速回転を始める。
(……待て待てあたし。つがちんとは確かに普通の友達より仲は好いし、強い好意を抱いてくれてるのは知ってる。でも、あたしは女――いやそれこそ待て、あたし! 今週の色恋沙汰でぼけてんじゃないわよ、あのつがちんがそんな生々しいこと言うわけないじゃない! そう、あれよ! この【好き】は友達同士の【好き】であって、恋仲になりたいとかそういう――)
 その間、わずか0.5秒。
 江深は――
「あたしだってつがちんのこと、大好きだよー」
 今の沈黙を重くとらえられないよう、努めて平静に、明るく笑う。
『ふふっ……いきなり変なこと言ってごめんね。でも、とがみんとはずっと一緒にいたかったから。とがみんが卒業して、就職して、誰かと結婚して……子供が出来ても、一緒にいたかったの。ただの友達としてじゃなく…………ん〜……家族として、かな。隣にいたかったの。ううん、違うわ。願望じゃなくて、これからもずっと隣にいるものだと思ってたんだって、そう気づいたから』
「家族……」
 思ってもいなかった単語に江深は戸惑い、虚空に視線を漂わせる。
「そっか、家族か……だったら双子ってことかな?」
『あら、本当は私の方が一つお姉さんなのよ? だって、一浪してるもの』
 むむ、と唸った江深の視線の焦点が、ノートパソコンのモニター上にとどまる。
「大学生にもなっていっこ差なんて、ないようなもんでしょー。今さら姉貴面したいわけ? だいたい、さっきのルームシェアの話からして、つがちんはお姉さんて言うよりお母さんじゃないのよぅ」
『あははー。いいよ、お母さんでも〜。甘えていいのよ〜?』
「やーめーてー。ほぼ同い年のお母さんなんか出来ちゃったら複雑だわ。それに、つがちんとは上下関係作りたくないもん」
『わかった。じゃあ、双子のお姉ちゃんね』
「はいはい、わかったわよ詩緒お姉ちゃん。……もちろん、お姉ちゃんは可愛い妹にお土産買って来てくれるのよね? 温泉地みたいだし……饅頭かなんかがいいな。二人でお茶すすりながら食べられるやつ」
『ふふ、とが――えみってば食いしん坊なんだから。そうね、二人でお茶できたらいいわね……』
 無論、彼女の湯飲みは部屋に置いてある。
 二人で布団のないコタツに足を伸ばし、温泉饅頭をあてにお茶をすすり、今回の旅の顛末、レポートの顛末について楽しくおしゃべりをする――そんな情景が江深の脳裏をよぎる。
 その時、サッシの外が明るく閃いた。
 一瞬遅れて空気が震えるような轟音。
 雷だ、と思った瞬間――電灯と卓上のスタンドから光が消えた。
「――げっ!!」
 幸い、パソコンはノートタイプ。充電に切り替わっていたのでデータが飛ぶことはなかったが、江深は慌てて電話口に叫んだ。
「ごめん、つがちん! 雷が近いからパソコン切る! 待ってて!」
 携帯をノートパソコンの脇に置くと、モニターの明るさを頼りにマウスをつかみ、シャットダウンさせる。
 念のためコンセントからもプラグを抜いておいて、再び携帯電話を取った。
 その間に、二度目の雷が轟き渡り、サッシ窓の向こうの闇空を二つに裂いて走った雷光が天と大地をつないだのが見えた。
「――つがちん、ごめんね。待たせちゃって。うちの近くに落ちたみたいで、電気が――あれ?」

 ツー、ツー、ツー。

 電話は切れていた。
 二、三度耳に当て直したが、詩緒の声も息づかいも聞こえはしない。
「えー……切れちゃった。雷のせいかなぁ……」
 サッシ窓を見やる。打ちつけられる雨と風、漆黒の闇を走る電光、震える空気。
 今かけ直しても、また雷で中断するかもしれない。
「しょうがない、か」
 携帯電話を閉じ、暗がりの中椅子から立ち上がる。
「つがちんのことより、こっちをなんとかしないとね。懐中電灯どこだっけ。えーと……あ、そうそう。こういう時は……へっへ〜」
 閉じた携帯をもう一度開き、その画面から放たれる光で室内を照らしつつ、懐中電灯を仕舞った――ような気がするタンスへと歩き始めた。


 ―――――― * * * * * ――――――


 月曜日。
 心配していた停電は二時間ほどで復旧し、荒天も日曜の朝のうちに過ぎ去った。
 レポートは日曜日の全てと月曜の明け方近くまでを尊い犠牲に捧げてなんとか完成を見、無事担当教官に提出できた。

 出しても出しても治まらない生あくびを繰り返しながら、江深は研究室へと入った。
 とりあえず、次の講義の時間まで一限分空いている。研究室備え付けのソファで仮眠させてもらおう――と思ったら、先客がいた。
 つがちんほどではないが仲の好い研究室の友人と後輩が数人。
 もっとも、つがちんは別の研究室なので、ここにいるはずはない。昼ごはんの時にでも会えるだろう。
「うぇーい、おはよー。悪いけど、寝かせてもらえるー? 眠くて眠くて」
 そう言いながらまた漏れるあくび。
 後輩たちはそそくさとロングソファの一つを空け、パイプ椅子に移動した。
「戸神先輩……」
「江深さん……大変でしたね……」
 何か言いたげに眉を寄せている後輩たちだったが、当の江深にそれに気づく余裕はなく、ソファの上に身を投げ出すようにして寝っ転がる。
「んあ〜……そうなのよ〜。今日提出のレポートで明け方まで起きててさー。ん〜、悪いけど三限前になったら――」
「――戸神、栂尾さんのことなんだけど」
 江深の言葉を遮ったのは、同回生の友人だった。
「んー、つがちん〜? なにー? 今日まだ見てないよー。こっち来たー?」
 ソファの肘掛にクッションを置いて枕代わりに、寝る体勢を作っている江深の言葉にもう力はない。
「一限出てたから知らないでしょ? 見つかったって」
「ふーん。……どこでー?」
 目を閉じ、もはや眠りにつく気満々。
「どこって……」
 友人は、困惑しきった表情で、後輩たちと顔を見合わせる。
「ちょっと、戸神。あなたひょっとして……土曜日の件、聞いてないの?」
「この土日はレポートで潰れて、なーんにもしてないからなーんにも知らなーい。それ、急ぎの話ぃ? そうじゃなかったら、起きた後に――」
「栂尾さん、事故に遭ったんだよ」
「………………」
 研究室に沈黙が漂う。
「……は?」
 閉じかけていた目を開き、ソファに横たわった姿勢のまま友人を見やる江深。
「事故? つがちんが? いつ?」
 友人は大きくため息をついて、首を横に振る。江深を哀れむように。
「……土曜の夕方。もっとも、わかったのは昨日の昼で、ついさっき遺体が発見されたとこ」
 その手の中に示されているのはスマホで、画面にはテレビ映像らしきものが映っている。

 イタイ?

 江深は言葉の意味をつかみ損ねた。
 顔をしかめて、身を起こす。じわりと襲い掛かってきていた眠気を意識の端に押しやり、友人を見やる。改めて認識すると、彼女の表情は痛ましげに歪んでいた。
「え〜と、ごめん。何言ってるかわかんない。わかるように言って?」
「だからね。栂尾さん、週末に行くって言ってた例の旅行の最中に事故に遭って亡くなったの。車で山道走ってたところへ、土曜の嵐で起きた土砂崩れに巻き込まれて……」
「………………」

 ドシャクズレ?

「予約してた旅館から、道が土砂崩れで塞がれて営業できなくなったって家に電話があったそうなの。本人はまだ来てないってことで、家族が連絡とろうとしたけどとれなくて。でもレンタカーで出発してるのはわかってたから、日曜の朝にレンタカー会社が車のGPSから位置を割り出して確認したら、土砂崩れに巻き込まれてたのがわかって――」
「ちょ、ちょっと待って!」
 友人の言葉をまたも理解できず、江深は押しとどめた。
 なんだろう、違和感――。
「――!! おかしいよ! だって、あたし土曜の夜中近くにつがちんと電話で話したもん!」
「なに言ってんの? そのレポートやらのために、あんた携帯の電源落としてたんじゃないの?」
「落としてないよ! つがちんと話もしたし……あれから触ってないから――そうよ、履歴!」
 慌てて体中をまさぐって、シャツの胸ポケットから携帯を取り出す。
 画面を見やり――
「あれ?」

 回線ロックがかかっていた。
 通信をオフラインにする機能。いつの間にこんな――

 混乱している江深に、友人は続けた。
「栂尾さんのご家族も、私らもあなたに連絡しようとしてたのに、つながらなかったから……てっきりテレビで詳細知って、落ち込んでるのかと」
「おかしいって! だってあたし、確かに土曜の夜中につがちんと――」
 混乱した頭、思うとおりに動かない指を総動員してロックを外し、履歴を見る。
 彼女の話している通り、いくつもの不通話通知が来ていた。
 それらを無視してリストを下げてゆく――



 該当の時間に、通話記録なし。



 何度見直しても、送信と受信のリストを入れ替えてみても。
「そん、な……………………。じゃあ……あたし、誰と……」
 限界。
 友人と後輩の悲鳴っぽい呼び声を遠くに聞きながら、江深の意識は暗転した。


 ―――――― * * * * * ――――――


 水曜日。
 式の間中、江深はぼーっとしたまま過ごした。
 棺桶の中で眠っているつがちんと顔合わせはしたけれど、ただ眠っているだけにしか見えなかった。
 周囲で流れてゆく様々な風景の中、自分だけ置物になったような気分。
 つがちんの家族の人や、友人に話しかけられたけど、違和感しかない。


 なぜ自分はここにいるのだろう。これは何の催し?


 その問い掛けが繰り返され、その度につがちんのお葬式だよ、と理性が囁く。
 でも――


 つがちんが死んだ?


 実感が無いよ? あんなに親しかった人が死んだら、心が苦しくて、辛くて、立っていられないものじゃないの?

 あたし、苦しくないよ?
 辛くないよ?
 立ってるよ?
 それに、心配してくれるみんなに愛想笑いさえ返して、大丈夫って言ってるよ?


 これ……現実じゃないのかな。
 それとも、あたしとつがちんってその程度の仲だったってこと?
 それともそれとも……あたし、人間として何かが壊れてるのかなぁ……。  

 
 ―――――― * * * * * ――――――

 やがて、式が終わり、出棺されたつがちんは、霊柩車に乗って火葬場に運ばれて行った。
 家族は付き添い。
 後片付けの業者と親族が残り、参列者は三々五々散ってゆく。
 江深も一人、歩いて栂尾家を離れた。

 住宅街から土手の上を走る道へと出て、自分の家に向かってとぼとぼ歩いてゆく。
 川を渡る鉄橋の上を、列車が走る。
 土手の下の道を自動車やバイクが走り抜け、学校帰りの小学生が列を成して騒いでいる。その横をすり抜けるママチャリのおばさん。夕刊を配達している新聞配達のおじさん。
 吹き抜ける秋風は髪を揺らす――法事用に引っ張り出した黒いワンピースでは防ぎきれず、少し肌寒い。
 でも、空は高く、抜けるように蒼い。
 ゆっくりと小さな雲が流れている。
 風に揺れる草のざわめき、陽光のぬるさは心地好い。

 その風景に、江深はこわばっていた気持ちが緩やかにほどけてゆくのを感じていた。
 あれこれ考えず、ただ呆けたように風景に見惚れ、様々な生活音を受け入れる。


 その時。


 腹が鳴った。

 
 隣でつがちんが聞いていたら失笑ものの、大きな音。
 少し頬を染めた江深は、空に向かって両手を伸ばし、大きく伸びをした。
「あ〜〜〜〜〜、お腹減った! そうだ、つがちん! ラーメンでも――」
 いつもどおり振り返って、いつもどおりの場所にいるはずの親友に声をかける。
 しかし、そこには誰もいない。秋風に揺れるススキの茂みがあるだけ。


 突然、江深は実感した。


「あ、そうか……つがちん、さっき送り出したんだっけ……」
 わななく唇をぎゅっと結び、拳を握り締める。
 そうしないと、なにかが声になって溢れそうだった。
「………………っ! ……!! ……さびしい、なぁ……!」
 蒼く透き通った秋空を見上げる江深の頬を、こらえきれなかった一筋の想いが流れて――落ちた。


終わり



※作者コメント
人形使いさんの女の子きゃっきゃウフフ作品の感想をあちらの掲示板に書き込んだら、いつの間にか私もきゃっきゃウフフ作品を書くことになっていた。なにが起きたか(ry

とりあえず、マサボンに萌えは期待してはいけない。たとえお題が「きゃっきゃウフフ」であろうとも。

 


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