田舎宿屋、雨日一幕 (いなかのやどや、あめのひのひとまく)
「ふぅ……」
窓際の席で頬杖をついた派手な服の女は、本日二十三回目のため息をついた。
ため息は湿っぽい空気中を漂い、霧散して消える。
窓の外は雨。どこまでも雨。いつまでも雨。なにがなんでも雨。もう一つおまけに雨。雨、雨、雨……。
元来、雨は嫌いではない。
雨、と一口に言っても、春の霧雨、初夏の長雨、真夏の夕立、秋の時雨、冬の氷雨などなど、季節それぞれに趣き深い雨があり、そのそれぞれが一言では表わしがたい味わいを持っている。
しかし、いかに初夏の長雨といえども、十日も降り止まないとなると感傷的な気分も半減、いささか滅入ってくる。ため息も漏れようというものだ。
それに、こう雨が長いと畑の作物の出来具合にも関わってくるし、堤の決壊や山崩れなどの災害も気にかかる。
「いっそ、この雨を降らせてる雨師(うし)の奴を呼びつけて、止めさせちまおうか……?」
呟いて、小脇に抱いた琴(きん)をつま弾いた。
弦が弾けて切れたような妙に調子っ外れな不協和音が店内を漂い、広がってゆく。どうもこの長雨には、琴ですら閉口しているようだ。
「ふぅ……」
二十四回目のため息。
そうやって朝から同じことを繰り返し続ける女に、たまりかねた店のおやじが奥から顔を出した。
「おい、趙閃(ちょうせん)。その不景気なため息と調子っ外れな琴はやめろ。ただでさえ長雨がうっとおしいってのに、ますます気が滅入っちまうだろうが」
趙閃は答えず、ただ琴を一掻きした。そして、二十五回目のため息。
「こら、趙閃!」
おやじはたちまち厨房から出てくると、手にしたお玉で趙閃の頭を小突いた。
「いてっ……なにすんのさ」
「なんだ、その投げやりな態度は。まったく、しょうがねえ奴だな。それだけ景気のいい格好してるくせによ。ええ、おい」
言われて、趙閃は自分の服にちらりと目を落とした。
胸に炎舞朱雀、右手の袖口に咆哮白虎、左に風雲青龍、そして背には太極玄武。それら四神に加え、右肩に月、左肩に太陽、全身に星辰を散りばめた上着を、目にも鮮やかな山吹色の帯で締めている。さらに金細工の帯留めには浮き彫りの麒麟が躍る。
派手なのは上衣の刺繍装飾ばかりではない。下衣は黒地に稲妻、襟口からのぞく肌着は桃色、耳飾りは本物の紅玉だし、くせの強い黒髪をかきあげている薄青い鉢巻きも最高級の絹だ。
もちろん、趙閃の抱える琴も例外ではない。絡み合う竜虎の周囲に大輪の花が咲き乱れ、蝶が飛び交う、ちょっと常人には理解しがたい感覚の不思議な象眼細工が施してある。
趙閃が流れ楽士であることを証明するその琴と異様な風体を、おやじは景気がいい、縁起がいい、とべた惚れしていた。
「それだけの格好してるんだ、不景気面なんざ似合わねえって。第一、お前がそういう面ぁしてると、この世の終わりが来るんじゃないかって、客も不安がるだろうが」
「……大袈裟だねぇ……。……ふぅ」
二十六回目。
「それにしたって、昨日まではあんなに騒いでいたじゃねえか。あの元気はいったいどこへ行ったってんだ?」
「……本物の元気は五日目まぁで。五日以降は空元気。それも昨日で切れちゃったよ」
「まだ服は景気いいのになぁ」
「これも着るのが面倒でさぁ…………明日は着るのやめよかな……はぁ」
二十七回目のため息をついて、力尽きたように卓へ突っ伏す。
「おお、そりゃあいい。お前の裸ならいい客寄せにならぁな」
手槌を打って顔を輝かせるおやじの言葉に、店に居合わせた数人の客がどよめく。
趙閃は卓を叩いて立ち上がった。
「こらこらこらっ、スケベおやじっ! 誰が裸になるっつーたよ!」
「かかか。ほれみろ、元気あるじゃねーか。その調子で一曲、景気よくやってくれや」
ぽんぽんと肩を叩く。
趙閃は一瞬呆気に取られたものの、すぐに自嘲の笑みを浮かべて頭を掻いた。
「……ったく、人を乗せるのがうまいおやじだね。……しょうがない……」
諦めたように呟いて、倒れた椅子にどっかとばかりに片足をかける。
たちまち、客の眼差しが趙閃に集まった。ただの眼差しではない。この沈滞した空気を吹き飛ばし、新たな活力を吹き込んでくれることを期待し、渇望する眼差しだ。
「いぃよっしゃあ! 思いっきり景気よく、騒々しいやつをやってやるからねっ! 覚悟しなっ、野郎どもっ! 耳ぃ潰れても知らないよっ!」
客の歓声に応え、腰だめに抱えた異彩の琴を一掻きした。およそ琴が発しているとは思えない、異界的かつ金属的な音が響き渡る。しかもなぜか妙な残響までかかっている。
「ま、人死にが出ない程度にな」
おやじはにやりと笑って踵を返した。
お玉を振り振り厨房へ戻ってゆくその背中に、殺意の混じる眼差しを突き刺し、趙閃は不穏な笑みを浮かべた。
「ぶっ殺してやる……。うふ、うふ、うふふふふ、歌に『口訣』を織り込んで……くくく……全員のーみそひっくり返して大騒ぎにしてやるぅ! 見よ、黄金の爪さば……」
「お待ちくださいな、それは困ります」
「は?」
爪を高々と振り上げたまま、趙閃は声のした方へ顔を捻じ曲げた。
声のした入り口付近に立っているのは、若い娘と体格のいい、いかつい中年男の二人だけだった。
「不景気な……そう、聞いているだけで思わず、私が悪ぅございました、なんて謝ってしまいそうな曲をお願いしますわ」
そう言って娘はにっこり微笑んだ。
年は十七、八。長い黒髪を頭頂に近い位置で一束ねにして、白地に明るい色調の刺繍を施した服を着ている。容貌は端整にして繊細。そのいかにも良家のお嬢様然とした外見と落ち着いた物腰は、この田舎の宿屋の中では完全に浮き上がっている。
「ええと……なんだって?」
目をぱちくりさせた趙閃は、思わず聞き返していた。
「ですから、聞いただけでこの世に生まれてきたことを後悔したくなるような、そんな曲をお願いします」
「……さっきより過激になってないか?」
「気のせいですわ」
「はぁ……」
戸惑う趙閃に、娘は小首をかしげた。
「あなたは流しの楽士(がくし)なんでしょ? ああ、ご心配なく。お代ならここに。……西輝沫(せい・きばつ)、お代を出して差し上げて」
「はい」
娘の後ろに立っていたやたらと体格のいい中年男は、頷いて懐から小袋を取り出し、卓上に置いた。じゃらり、と貨幣独特の音が静まり返った店に響き渡る。
突然の闖入者に見入っていた客も、思わず息を呑んでいた。
中を確かめなくともわかる。相場の十倍以上は間違いなく入っている。
「これでは足りませんか?」
再び小首をかしげてしれっと微笑む。
「いや、それだけあれば十分……って、違う、そうじゃない! だから、ただでさえこのクソ長雨でみんな鬱々としてるってのに、なんだってそんな輪をかけてうっとおしい曲を演らなきゃならないんだっ!」
「この雨を止ませるためですわ」
「は? ……雨を?」
思わず趙閃は窓の外を見た。雨は変わらず降り続いている。止む気配はない。この雨を……不景気な曲で止ませる?
流れの楽士としてあちこちの地方を旅しているから、雨乞いの曲や雲払いの曲は知っている。しかしそれは、儀式の中で使われるものであって、曲それ自体に天候を変える力があるわけではない。こんな田舎宿屋の酒場で一曲演ったからといって、雨が止むはずはないのだが……。
「……詳しい話、聞かせなよ」
とうとう趙閃はそのまま琴を弾くことを諦めて、腕を下ろした。
「この天気にそんな曲だ。それ相応の理由が無けりゃ、金をもらったからといって出来るもんじゃない。曲を聞くのはあんたたちだけじゃないんだからね」
「ええ、わかりましたわ」
頷いて、娘は趙閃の向かいの席についた。無愛想な西輝沫がその隣に座り、趙閃も椅子を起こして卓についた。
組んだ膝の上に琴を載せ、軽く弦を一弾きする。すると、それを合図のように趙閃の曲を楽しみにしていた店の客数人も、肩を落としてしょんぼりとそれぞれの席に戻った。
「さぁて、聞かせてもらいましょうかね。不景気な曲を頼まれるのは別に珍しいことじゃあないけど、この雨に関わるとなりゃ、ちょっと聞き捨てならないしね」
「そうですねぇ、何からお話しましょうか」
「あんたらの素性をまだ聞いてないね」
「ああ、そうでしたね。私はこの近在の黄家邑の邑長の娘で、黄金律(こう・きんりつ)。彼は邑の者ではないのですが、西輝沫と申します」
西輝沫はむっつり押し黙ったまま、頭を下げた。趙閃も会釈を返す。
「結論から申しますと、この雨は私の兄、黄道光(こう・どうこう)が降らせているものなのです」
「あんたのお兄さんが?」
「ええ。我が一族は、近辺でも名だたる雨乞い師なんですが、その、実は……兄だけはどういうわけか、落ちこぼれ、いえ……あの、能無し、いえ……ああ、こんな時どう言えばいいのかしら、西輝沫。一族の面汚し? 汚点? 役立たず? クズ? ゴミ?」
「………………」
押し黙ったまま答えない西輝沫に代わって、趙閃が呆れた声で助け船を出した。
「……よーするに力が弱いんだね?」
「ああ、そうですわ。おほん。兄、道光は雨乞いの力が弱く……弱いって言うよりほとんど無いって言った方がいいんですけど……一族でもつまはじきにされていましたの」
「ふぅん、ま、よくある話だね」
「ええ。それが……一月ほど前、近隣の邑から雨乞いの要請がありまして、たまたま他に誰もいなかったもので、兄が呼び出されたんです。ところが、ものの見事に失敗しましてねぇ……。その話を知った父は物凄く怒って、とうとう兄を追放してしまったんです」
「ふんふん」
「追放された兄は邑を離れ、遠縁の叔父のところへ身を寄せていたんですけど、何をどうとち狂ったのか、叔父の奥さん方の家の塚からある物を奪って行方をくらましたんです。そのある物というのが……」
「妖剣アメフラシ」
それまで沈黙を守っていた西輝沫が低い声で呟いた。
趙閃の指の下で、ぼよぉん、と弦がとんだような間抜けな音がたった。
「よ、よーけんあめふらしぃ? なに、それ……いかにもな名前だけど」
西輝沫はうむ、と頷いて話し始めた。
「妖剣アメフラシ……その昔、海辺の邑で一人の鍛冶が、一振りの剣を打ち上げた。さらに鍛冶は、何を考えたのかその剣に魂を吹き込むべく、多少心得のあった左道邪術を用いることにした。しかし、そこは田舎の小心者、人の命を使うのはさすがに気が引けた。さりとて海辺の邑のこと、魚類に手をかけて鱗族の王、龍王の怒りを買うのも恐ろしい。そこで鍛冶は、そこらの磯に棲んでいた多くのアメフラシを生贄に使ったのだ」
それまで神妙な顔で聞いていた趙閃は、派手な音を立てて椅子ごとひっくり返った。
「な、なんちゅう根性の無い……。それで妖剣アメフラシ? 安直な……」
「話はこれで終わりではない。一族郎党を皆殺しにされたアメフラシどもの無念と怒りは凄まじく、剣は魂を得るどころか、アメフラシどもの呪いの依り代として妖怪化したのだ。そしてその名の通り、そやつの存在するところ、雨また雨の大長雨を引き起こし、災害を頻発させ、多くの病を引き起こすこととなった」
そこで黄金律が口を挟んだ。
「そこで、遠縁の叔父さんの奥さん方のご先祖様がその妖怪を退治、依り代となっていた妖剣アメフラシを塚に封じていたの」
「で、それをあんたの兄貴が盗み出して、この雨を降らしてるってわけ? ……根性無しの鍛冶が作った妖剣を、根性無しの雨乞い師が使う……はた迷惑な話だねぇ。それで? その話と私の歌がどう関係するんだい?」
「兄は……不景気な歌が好きだったんです」
「……変な奴……」
「そりゃもう、落ち込んで落ち込んで地の底まで沈んでいきそうな歌を、暗い部屋の隅で膝を抱えて口ずさみ、時たまひきつったような笑いを漏らすような人でしたから」
「………………」
返事の代わりに長い長いため息。……本日二十八回目。
「要するに……私がここで、お望みの陰気な曲を演れば、この近辺に潜んでいるはずのあんたの兄さん、黄道光が聞きつけて、それこそ夜の灯火に誘われた蛾のごとくのこのこ現われると、そういうわけだね」
「そのとおりです。そして、出てきたところで私が兄を説得し、西輝沫が……妖剣アメフラシを作った鍛冶の末裔たるこの人がアメフラシを折ります」
西輝沫が頷く。
なるほどねぇ、と得心した様子で頷いた趙閃は、本日二十九回目のため息をついて頭をかいた。
「となると……この辺り一帯、隅から隅まで、どこに隠れていようと聞こえるように演らないといけないね……」
琴を抱え直し、ニ、三度弦を弾いて音階のあたりをつける。
「ん、ん〜……。この辺かね……それじゃ、お望み通り、陰気で不景気でうっとおしくて、その気の無い奴でも死にたくなるような曲を……」
「こら待て、趙閃っ!」
たちまち奥から飛び出してきたおやじが、お玉で今度は手加減無しの一発を趙閃の後頭部に叩き込んだ。
くわん、という間抜けな音とともに突っ伏した趙閃は、すぐに跳ね起きて歯を剥いた。
「な、何すんのさっ!」
「黙って聞いてりゃ、なんだそれはっ! 俺は景気よく頼むって言ったんだぞ! それじゃあ営業妨害もいいところだっ! 先に頼んだこっちを優先しやがれっ!」
「あんたはただの宿主、こっちはお客! 悔しかったら、金を払ってから言いなっ!」
「おおっ、言いやがったな! これまで十日間、ただで飲み食いして、おまけに宿代も払ってやがらねえくせに! だったら今、ここできれいすっきり払ってもらおうか」
「ぐ……」
「言っとくが、今そっちの客にもらった袋の中身ぐらいじゃ足りねえからな」
「……お、おやじぃぃぃ……」
「うははははは、どうだ、参ったか」
勝ち誇るおやじ。歯ぎしりで睨む趙閃。どうなることかと目を輝かせている黄金律。相変わらず無表情な西輝沫。
そこへ、新たな人物が顔を出した。
「姐(あね)さぁん……助けて下せぇ……」
「うるさいねっ、今取り込み中だよ!」
どこまでも落ち込んで行きそうな惨めったらしい声に、苛ついていた趙閃は凶悪な眼差しを向けた。
店の入り口に立っているのは、いささか時代がかった古い服装の男。手に傘を持っていないということは、この雨の中を駆けてきたのだろうが、その割に濡れていない。
それ以上にその男には何か違和感がつきまとっていた。人間ではないような気がする。
「ちょっと待った。あんた……何者だい」
おやじを背に、少し足を広げ、腰を落としていつでも腰だめの琴を弾ける姿勢を取る。
男は不意に趙閃に飛び掛かった。
「あ、姐さぁん!」
「なにすんだ、この馬鹿っ!」
狙いすました蹴りが、男の股間に突き刺さった。一声うめいて、崩れ落ちる男。
「何者か知らないけど、この私に襲いかかるなんざ百万年早いんだよ」
男は股間を押さえて床に突っ伏したまま、声を絞り出した。
「そ、そうじゃ……ねぇんで……。は、話を聞いて……下せぇ……」
「そこで言ってみな」
「あ……あっしはこの地方の……雨師をやってます……陳重(ちん・じゅう)と申します……」
「雨師? ってことは……」
「へ、へい……姐さんのことは仲間からよく聞いてやした……浪境仙娥(ろうきょうせんが)・趙閃師姉。巷間をさすらう人情肌の仙女様……」
「おいおい趙閃、こいつ、何言ってんだ?」
黙っている趙閃の頭を、おやじは軽くお玉で小突く。
「……聞いての通りだよ。こいつはこの辺りの天候に関して責任を持つ雨師殿なのさ。なるほどね、さっき違和感を感じたのはそういうことかい。一度死んで雨師に祀り上げられたあんたは、もう人間じゃないものな」
「へぇぇ、そいつが雨師……てことは、おまえさん仙女だってぇのも」
「まぁね」
振り向きもせずに答える。
「はぁん、信じられねえな」
「信じなくてもいいよ。正体がばれたからって、別に何が変わるってわけでもないし」
趙閃は陳重に目を落とした。
「で、その雨師陳重が私に何の用だい?」
「雨を……雨を止めて下せぇ」
「はぁ? ……あんた、雨師なんだろ?」
「それが、この雨はあっしの降らせたものじゃないんでさぁ。おまけに止ませられねえ。辺り近所の邑の雨乞い師や雲払いからはじゃんじゃか苦情が来るし、仲間内でも睨まれるし……」
話を聞いて、黄金律が立ち上がった。
「やはり、妖剣アメフラシがこの近くにあるのですわ。趙閃様、早く兄を……」
「そうだねぇ……」
「ちょっと待てって。こっちの話がすんでないだろうが。俺の店でそんな曲は許さねえ」
黄金律は割って入ったおやじをうっとおしげに睨みつけ、隣の西輝沫に顎で促した。
「西輝沫、そちらのおじさまうるさくてよ。曲が終わるまでの間、押さえておきなさい」
「わかりました」
「てめえ、小娘! ……へっ、おもしれえ。この店を開いて三十年、どんなに横暴な客をも叩き出してきたこの俺だ、そのケンカ! 買ってやろうじゃねえか!!」
いそいそと袖をまくったおやじは腰を落としてお玉を構え、のっそり立ち上がった西輝沫に正対した。長年中華鍋を振るって鍛えた二の腕は、鍛冶の末裔たる男の二の腕に勝るとも劣らぬ太さがある。
せっかくの楽しみを奪われていた客は、一斉におやじを応援し始めた。
「さ、趙閃さま。邪魔者はいなくなりましたわ。思いっきり弾いてくださいな」
「そうはさせるかっ!」
叫んだおやじは、つかみかかった西輝沫を力任せに押し込んで趙閃にぶつかり、演奏の邪魔を図る。
「お、往生際が悪いですわよ!」
誰より素早く安全地域へ後退した黄金律の非難の声に、おやじは喚き返した。
「いゃかましい! 俺の店でけつの青い小娘ごときに好き勝手させるかよっ!」
「わ、私のお尻は青くなんかありませんわっ! 西輝沫、早く押さえておしまいっ」
「……む……むむむむ…………」
おやじと西輝沫の力比べはほぼ互角。周囲の無責任な観衆がしきりにはやし立てる。
一方、趙閃は趙閃で、足にまとわりつく陳重に難儀していた。
「姐さぁん、お願いですから、この雨、何とかして下せえ。このままじゃあ、俺、雨師失格にされちまいますよぉ」
「わかったから、とにかく離せってば!」
「いやですぅ。こう、仙術かなにかをぱぱぱっと使って、この雨を止ませてくれるまでは死んでも離れませぇん」
「あんたもう死んでるだろっ!」
「趙閃さま、早く曲を!」
「この馬鹿が離れないんだよっ!」
「いいぞ雨師、そのまま死んでも離れるんじゃねえぞっ! ……むむむぅっ」
気を逸らした隙に、西輝沫が押し込み返す。
「だから、こいつはいっぺん死んでるんだってば! このくそ、離せっ!」
「いやです、いやです、いやですぅ」
「黄金律、そんなところでぼさっと見てないで、空いてる手を貸しなよっ!」
「ごめんなさい……私、雨乞い師なもので、雨師に手を出すわけには……」
「あんた、曲を弾いてほしいのか、要らないのかどっちだ!」
「ああ、私はどうしたらいいんでしょう、お父様、お兄様」
黄金律が天井を仰いで漏らした時、新たな人影が店の中に駆け込んできた。
そいつは足早に陳重に近づくと、その背中を情け容赦なく踏みつけ、趙閃に剣の切っ先を突きつけた。
「いったいいつまで待たせる気だっ! こちらは今か今かと待っているのに!」
「は?」
新たな闖入者に、店の中が静まり返る。おやじと西輝沫も互いの手をつかみ合った力比べの姿勢のまま、首だけをねじ向けていた。
若い男だった。二十歳かそこらだろう。薄汚れた粗末な衣服はぐしょ濡れ、髪はぼさぼさで顔に貼りつき、顔色は青い。
「ええと……あんたは……?」
「兄さん! 道光兄さん!」
いぶかしげに眉をひそめる趙閃の声を遮り、黄金律の声が店中に響き渡った。
「おお、金律! なぜお前がここに?」
「それはこちらの台詞です!」
「うむ、たまたまこの宿屋の前を通りがかると、不景気な曲を演じてくれるのくれないの、と悶着が聞こえてきたものでな、外で聞こうと待っていたのだ。して、お前は?」
「兄さんが馬鹿げたことをしていると聞いて、止めに来たのです! 兄さん、その剣を放してください! それは妖剣です!」
「……知っているとも。だが、雨乞い師としての力の無い、この私にすら雨を降らせる力を与えてくれる素晴らしい剣だ。これを放すわけにはいかん」
「おいおいおい、ちょっと待てよ」
兄妹の間に割り込んだのは、唐突に立ち直った陳重だった。つい先ほどまでの情け無い姿を忘れたかのように、胸を張り、腰に拳を当てて偉そうにふんぞり返っている。
「そのおまえさんの雨のせいで、みんな迷惑してるんだ。今すぐ止ませろよ」
陳重は黄道光の胸に指を押し付けた。しかし、その指はたちまち払われた。
「断る」
「なにぃ?」
「今や私は雨乞い師ではない。雨降ら師(あめふらし)なのだ。そう、雨を降らせてなんぼ、止ませるなど、私の存在意義を否定するようなものだ。絶対に受け入れられない」
「いい度胸だ。……だったら、こちらも雨師陳重の名にかけて、ぶっ飛ばしてでも止めてやる! 行くぞ!」
「あ、待て、陳重」
趙閃の制止を聞かず、そのまま殴り掛かった陳重は、たちまち剣の腹で脳天を殴られてひっくり返った。
「……あ〜あ、馬鹿だね。青銅の剣ならともかく、妖剣持ってる相手に素手で挑む奴があるか」
「ううう、姐さぁん、どうか、どうかあっしの仇を討ってくだせぇ……」
「あー、もううるさいね。負け犬はとっとと下がりな」
べそをかきかき陳重は引き下がった。
「さぁ、趙閃とやら、貴様の部下は倒れたぞ。観念して曲を弾くのだ」
「こんなの私の部下じゃない!」
「そんなぁ……こんなの呼ばわりはひどいっスよ、姐さぁん」
「うるさいね、お前みたいな役立たずなんか『こんなの』で十分だよっ!」
「兄さん、これ以上の暴虐はやめて!」
「そうとも、この俺の店で不景気な曲なんぞ流させねぇ、今度は俺が相手だ!」
吠えて挑んだおやじだったが、たちまち妖剣の一撃を食らって床に沈んだ。
「……だから、どうして素手で挑むんだよ」
趙閃の本日三十回目のため息を背に、おやじは呻いた。
「ううっ、うかつ……」
「うははははははは、この私に勝てる者などいるものか! この妖剣アメフラシがある限り、私は無敵だっ!」
黄道光は妖剣アメフラシを手に勝ち誇りの哄笑をあげる。その感情の高ぶりによってなのか、店の外に降る雨がひときわ激しく地面を叩き始める。
趙閃は振り返っていかつい中年男に声をかけた。
「おい、西輝沫。あんた、あの剣を折りに来たんだろ? あんたが始末をつけなよ」
しかし、男はゆっくりと首を振った。
「俺の役目は剣を折ることだ。剣を持つ者を取り押さえることではない」
「なんじゃそりゃ……じゃ、じゃあ黄金律! 早いとこ兄さんを説得しなよ!」
「もうだめです!」
「はぁ?」
へなへなと床に座り込んだ娘は、手ぬぐいで顔を覆い、泣き崩れていた。
「あああ、あれはもはや私の知る兄さんじゃありません! 兄さんはもっとおどおどしていて、人に命令されたらいやとは言えず、無敵や最強なんて言葉は口が裂けても言えるような人じゃなかったのにっ! あああっ、なにが兄さんをそこまで変えてしまったの!」
「だから……妖剣アメフラシだろ」
「ああああああああっ!」
趙閃の鋭い突っ込みを無視して、ひたすら泣きわめく。
趙閃はうんざりと呟いた。
「泣きたいのはこっちだよ……何だって、こうろくでもない奴ばっかり……はぁ」
三十一回目のため息。
黄道光の勝ち誇りはまだ続いていた。切っ先を趙閃に突きつけ、高らかに……わめいている。
「さぁ、もはや私の覇道を遮る者はない! 趙閃よ、弾け、弾くのだ! この世の全てを終わりにしてしまいたくなるような、終末的な歌をっ! この帝王『雨降ら師』様のために奏上せいっ!」
「あいよ」
趙閃のふてくされた返事に、ふと黄道光の笑いが止んだ。
「あいよって……本気?」
顔を上げた趙閃の目に、危ない輝きが閃く。
「お望みなんだろ? いーとも。弾いてやるよ、終末の歌をさぁ。言っとくけど、仙術の効果を引き出す歌だからね、どういう結果になっても知らないよ。く、くく、くくく……」
琴を掻き鳴らす。あの異界的かつ金属的な、残響を伴う音が辺りに響き渡る。
「せ……仙術?」
たちまち黄道光の顔色が変わった。
「ち、ちょっと待て。仙術は無しだ。普通の、普通の歌でいい。それで十分だ」
「うふ、うふふふふ……ここまできて遠慮するんじゃないよ。十世代分の歴史の中でも、聞ける奴が一人いるかどうかって代物だ。心して聞きな……」
熱に浮かされたような目でうふふふふ、と含み笑いを漏らし、おもむろに爪を振り上げる。
「や、やだやだやだ、そんな危ないのはいらない! 俺はただ歌を聴きたいだけ……」
「もう遅いっ! 行くよぉっ!」
趙閃の指が弦を弾く。弦の振動は音波を発生させ、音波は仙術の力で複雑な共鳴を起こし、増幅され、一瞬にして周囲のあらゆる無機物を崩壊させた――つまり……次の瞬間、宿屋は大音響とともに吹っ飛んだのだった。
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趙閃は点々と水溜まりの残る街道を東に向かって歩いていた。思いつくままに浮かぶ鼻歌に合わせて琴をつま弾く。
背中にはその派手な衣装とは相容れぬ無骨な剣が一振り。柄に貼り付けた一枚の札は、知っている者が見れば、封印の札とわかる。
つい先ほどまで降っていた雨は上がり、十日ぶりの陽光がさんさんと降り注いでいる。気持ちのいい風が頬を撫で、思わず趙閃は大きく深呼吸をした。
胸に広がる緑の匂い。気分爽快。
「うぅ〜ん、雨上がりの空気はいい。それにやっぱりお天道様の光は気持ちいいよ」
店が吹っ飛んで呆然としていたおやじのことも、調子のいい雨師陳重のことも、失神していたわがまま黄兄妹のことも全て雨に流して、後は知ったこっちゃない。
浪境仙娥・流れ楽士趙閃。
風の吹くまま気の向くまま、放浪と出会いを何より好む異端の仙女の旅は続く。
終