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書写書道教育のゆくえ

〈愛知学院大学人間文化研究所報(第32号)〉

1. はじめに
 私は、愛知学院大学文学部日本文化学科の授業において、三年生のゼミ授業(八名受講)を担当している。当ゼミにおいて「学校書写書道教育」をテーマとし、学生たち一人ひとりに研究発表させ書写書道のさまざまな問題点を見出し考察するといった授業を進めている。その中で、学生たちが深刻な報告と重要な示唆を与えてくれた。この稿では、現在直面している小学校中学校における書写教育のあり方に関する問題を掘り下げ、これからの新しい書写書道教育について述べたいと思う。

2. 一学生からの報告
 「私の弟(愛知県内の中学生)は、書写の授業はほとんどないに等しく、書写クラブも廃部になり、書写に触れる場は夏休み冬休みの宿題と書塾だけで、実に寂しい現状である。」
 この報告に関連して、ある一人の学生は、「中学校で書写の教科書がなくなったと聞いてびっくりしました。もっと調べるといろいろとびっくりするようなことがありそうです。」と記してくれた。これに関連して、岐阜県に住む学生の弟(中学生)も書写の授業が学校で行われていないと言う。愛知県内だけの問題ではなさそうである。書写の授業は、国語の授業時間のうち、中学一年では十分の二、中学二・三年では十分の一を占めているはずである。学校の授業として行われるはずの書写の授業が実際には行われていないという現状は、学生同士が各自の研究を話し合う中でさまざまな情報交換や意見交換を行って得られたものである。
 私が毎年学年当初に実施しているアンケートがある。これは、学生がこれまでの学校生活の中で、授業として書写書道を受講したか否かのアンケートである。このアンケートは、ほぼ毎年同じ結果が出る。小学校では各学年とも平均的に約一割の生徒が書写の授業を一年間に一度も受けなかったというものであり、さらに中学校の二・三年生では、過半数の学生が書写の授業が一年を通して一度もなかったというものである。これには愕然とせざるを得ない。ゼミ学生の報告にあるように、書写の授業がほとんどなく、教科書も配られないというのと合致する。
 これは国語教育の中での書写教育および文字教育の放棄にほかならない。文字教育の放棄ということは、言い換えれば軽視であり、無視ですらある。あるいは教授することを敬遠しなければならないような何か特別な事情があるのであろうか。現在の新学習指導要領でいわれている「基礎基本重視」はどうなっているのであろうか。
 先日、愛知県内の中学校へ国語の教育実習を終えてきたばかり学生がいる。その学生からの報告によれば、「書写の授業が行われておらず、見学はもちろん実技の実習が出来なかった。」というものである。四週間という実習期間はそう短いものではない。一か月の間に一度くらいは書写の授業があってもよさそうなものである。実習できなかったというのはどうしたものであろう。その中学校では書写の時間割自体がカリキュラムされていないのだろうか。そんなことで国語の教員免許状を取得し、書写実技の実習経験がない教員が実際に教壇に立つことがあるかもしれないのであるから、親としてわが子を安心して学校に預けることができるだろうか。教育実習生が書写の実習が出来なかったことについては非常に残念である。

3. 毛筆教育の重要性
 毛筆は今日では非実用的な書写用具と考えられているのであろうが、実は日本人が文字を筆記する上では毛筆の運筆が実に大切な役割を果たしている。実際に毛筆を使用する場面は日常生活の中で極めて少ない。公の場面では、結婚式、パーティーなどでの署名を毛筆で求められたり、記念の色紙の揮毫を求められたりするくらいである。最近は毛筆に代わる筆ペンが改良されて市中に出回っている。獣毛の毛筆とは似ても似つかないペン先であり、むしろ硬筆のペンに近いくらいであるが、細かい文字は毛筆さながらに書くことができる。ただし、毛筆特有の微妙なにじみとかすれを表現することはできない。学習指導要領においては、「毛筆の学習は硬筆の筆記に役立てる」とあり、毛筆の重要性は見失われていない。毛筆の筆さばきは、硬筆による実用的な筆記に役立ててこそ硬筆文字に命が吹き込まれるといってもよい。それは線の太細であり、強弱であり、勢いであり、ねばりであり、伸びやかさである。毛筆特有の筆さばきのリズムが自分の手中に入り、健康的な筆線が書かれてこそ人間の手による筆記文字といえる。硬筆の筆記用具をパソコンのプリンターや液晶文字の再現をするために使用するというのであれば何も手で書く必要はない。せっかく手書きするのであるから、実用的な文字を書くために毛筆の筆さばきが応用されるならば、今まで以上に手書き文字を嗜む時のよろこびを味わうことができよう。
 毛筆教育にはもう一つ忘れてはならない側面がある。それは、音楽や美術(図画工作)と同じように情緒教育の面をになっているということである。例えば、音楽では小学校五・六年生の学習指導要領の中で、歌い方の表現として、「呼吸及び発音の仕方を工夫して,豊かな響きのある,自然で無理のない声で歌うこと。」という記述がある。書写の場合、文字を正しく書くということだけに執着して、歌を歌うときのような気持ちで文字を書くということを忘れてはいないだろうか。確かに、心を込めて書くということの内容は曖昧模糊としているが、感情や気持ちを表現しようとして発した言葉や声調は聞く人の心に響くだろう。喜怒哀楽の表情は見る人の目に伝わるものである。手書きによる筆跡も同様のことが言える。抑揚のない無表情な筆線からは何も感じられないが、感情移入された筆線からは書かれた言葉とともに書者の気持ちがありありと感じられる。芸術的な表現とは異なるかもしれないが、人間が社会の一員として生活していくには、朗読の時の声の出し方やスピードが日常生活の会話やスピーチなどに生かされるのと同様で、書写の表現は、国語の中の「書く」という面で重要な役割を持っているはずである。伸びやかで力のある線を引いたり、張りのある生き生きとした字を書くことは、文字を正しく書く以前の人間の心の問題である。そういう点でも書写教育をもっと充実するべき時であると考える。

4. 新しい書写教育の可能性
 平成十七年発行の新しい書写教科書は、学習指導要領の一部改正(平成十五年十二月)により内容を一新した感がある。学習指導要領に示していない内容を加えて指導することができるようになったため、教育出版では、新たな内容が「発展」として明確に記されている。例えば、行書の学習である。今までは中学校で学ぶべき行書が、小学校五・六年の教科書に出ている。また、大阪書籍の中学校書写教科書には、実技や理論問題が「力だめし」として掲載されている。行書や行書に調和する仮名で書いたり、筆順を問う問題などである。このような問題が高等学校の国語の入試問題に出題されることは実に望ましいことである。さらに、小中学校の教員採用試験にも国語の問題として書写の実技と理論を出題してほしいものである。なお、新しい教科書はカラー刷りで内容も豊富、魅力もあり工夫もこらされている。このような素晴らしい教科書が用意されているので、是非とも書写教科書を授業で活用してほしいものである。
 昨年(平成十七年)の七月に「文字活字文化振興法」が制定された。「活字その他の文字を用いて表現されたものを読み、及び書く」などといったことが「文字活字文化」として定義付けられている。文字文化には日常の筆記文字はもちろん、毛筆を使った筆写文字も含まれていよう。この新たな法律制定の時の新聞記事には、読書や朗読に関することについては大きく取り上げられていたが、書写書道、手紙や実用的な書式などのような文字を手書きするという活動を重んじたり、伝統文化を継承することについてはほとんど言及されておらず、新聞社の書写書道にかかわる関心が薄かったのは残念である。今後は、この法律を是非とも学校教育の中でも活用していってもらいたいものである。
 学校書写教育が十分に行われていないという、現在直面している重要な課題であるにかかわらず、誰も問題視しない、手出しをしない、当たらずさわらずでそのままにしているというのはいかがなものだろうか。もう一つ付け加えると、私の住んでいる校区の小学校の成績通知表では、書写の評価がどのようであるのか知りたくても反映されていない。親としては気になるところである。国語についての成績欄には、書写は漢字の書き取りや言葉のきまりなどと一緒の言語事項という大枠でひとくくりされており、単独に評価が示されない。書写だけの評価欄が無いということは、もしも書写の授業が行われなければ評価する必要がないということであろうか。これは改善してほしいところである。

5. おわりに
 いくら電卓を使うことが当たり前の時代になっても、買い物でつり銭をもらうときのような、100‐5=95くらいの簡単な計算能力はすばやく暗算でしたいものである。現在の学習指導要領が「基礎基本重視」としているのはそこにあり、何も「ヨミ・カキ・ソロバン」型の教育が前近代的な古いものというわけではない。むしろ、今流行の「声に出して読みたい日本語」のような論語暗唱型の読み教育が見直されているのと同様、寺子屋式の習字教育が必須のものであったように、注目を浴び重要視されてもよさそうなものである。ただし従来のような、手本を見てまねて書くといった単純な丸写し作業による習字教育ならばやらないほうがましである。せっかくやるのであれば、「百マス計算」のように工夫のある、新しい方法と内容を伴った「生きる力」を育むことのできるような書写教育をめざすべきである。
 はじめの話にもどるが、「学校書写書道教育」ゼミの最後の授業で、「学校における書写書道の授業は国語の中の教科でよいか、それとも音楽や美術のような独立した教科の方がよいか」を学生に尋ねた。すると、ほとんどの学生は独立した教科として教えたほうがよいとの結論を導いた。私としてはさらに、高等学校の書道についても、芸術科目の中の書道であるよりは、日本人が日本語を書くという特別な学習活動であるので、西洋における音楽や美術という芸術科目の枠組みからはずして、体育と同じように独立した科目として扱われるべきであることを希望するものである。

平成18年9月20日