書のひろば

 

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書 家

<皇學館大学国文学会会報に掲載>

  私は書家である。では、書家とは何をする人か。ただ毎日朝から晩まで筆を持って紙に向かってひたすら字を書いているのではないか・・・、と。書道教室の生徒からも聞かれる。「先生、普段は何してるの?」と。家でいつも字を書いているのか、あるいは何もしないでぼんやりしているとでも言うのか。不思議な存在であるらしい。

 ひと昔前までの書家はあるいはそうだったかも知れない。晴耕雨読、文人墨客と称してのんきに暮らしていたに違いない。でも今は違う。情報化社会、多様化の時代、日進月歩でめまぐるしく環境が変化する。のんびりとはしていられない。「寺子屋先生」であれば、近所の子供たちを集め、求められた字を売るだけで何とか暮らせる。しかし、私は寺小屋先生とは違う。いわゆる書道の会派に所属して、先輩や仲間とともにお互いに切磋琢磨する。1年間に10回前後の書道展に出品する。そのたびごとに作品の制作に励む。それだけではない。展覧会ごとに事務局の業務もあって、作品の陳列展示、会場当番、作品搬出、その他こまごまとした雑用をこなす。時には作品の審査や会議にも出る。これがいわゆる書家の「作家活動」である。これだけでも結構忙しいのである。画家が絵を描いて売るのとはわけが違う。ほとんどボランティアである。2年程前から大きな展覧会の審査員をさせてもらえるようになった。東京で1週間ほど泊り込みである。展覧会の審査員にでもなると、自分ひとりが展覧会に出品していても仕方がない。知っている人の作品が出ていれば点を入れてあげたくなるのが人情である。お弟子さんにも出品してもらえば審査の甲斐もあるというものだ。お弟子さんが出品できるようにお手伝いをする。これもまた大切な作家活動である。

 こちらの大学に専任として勤めるようになって2年目である。授業の他にも、書家であるということでいろいろとお声をかけてもらう。講演会の看板字や垂れ幕、演目のめくりなども時々頼まれる。先日、伊勢外宮の「神楽殿」なる字を頼まれた。神楽殿が改築されるので掛けかえるのだそうだ。家族も喜んでくれた。とても名誉なことである。神宮司庁に出かけていってそこで書いた。一発勝負である。墨と板の相性が心配であったが何とか大丈夫だった。看板屋ではないから活字のような字は書かない。かといってあばれたり品のない字も書かないようにしている。書道の画仙紙とは違って、にじんだりかすれたりしないけれども、墨で書いた落ち着きのある字になるように心がけている。書はその人となり、心の表れたものである。いつも作品を書いているのと同じ心構えで筆を持つ。それなりに心の準備もいるし、気を使っているのだ。

 書家は着物を着て、ゆっくりと墨を磨って静かに落ち着いた気分で筆をとって字を書いているのだと思っている人がいまだに多い。テレビ局が取材に来たときもそうだった。「着物を着ないんですね・・・」と。着物を着て字を書いている姿をカメラに撮りたかったのだろう。少しがっかりしたようだった。時代錯誤である。書きやすい衣服を着て書く。何も昔ながらの着物でなくてもよいのである。墨の香りは心を落ち着かせる。墨の中の香料にその作用がある。墨も手で磨れば何時間もかかるが、今は「墨磨り機」がある。機械が自動で墨を磨る。むしろ手で磨るのと同じくらい発墨のよい墨ができるようになった。墨液も使う。墨液は手で磨るよりも一定の濃度と均一の墨色が得られ、種類もたくさんあって極めて便利で使いやすい。大切なのは、短い時間の中で心を静めて、いかにその瞬間瞬間の感興を表現するか、生き生きとした生命を文字に吹き込むかなのである。

 実は私の家は「晴嵐館」という書道交流団体の本部をしている。財団法人の組織なので、個人のものではないが、一応運営の主体をになっている。何をする所かというと、書道教育の普及と発展を目的として、調査研究、展覧会、講習会、講演会、機関紙の発行、書道教育者の養成などの事業を行っている。県の教育委員会の監督のもとで、このような業務をする社会教育施設である。また、展示室も備えているので書道の美術館として一般に公開もしている。大学の仕事が増えた分、こちらの方は少しおろそかになっているが、でも、土曜日曜日はだいたいこれにかかりきりだし、夜も遅くまで責任のある業務が山積みしている。これは私の宿命でもある。こんなに忙しくて、作品はいつ書くのかと仲間の人から心配されるが、何とか時間を見つけてやっている。幸いなことに、「日展」などの大きな展覧会の作品を書く時期は、夏休みで学校の授業がない。仕事もはかどるしとても助かる。

 であるからして、やはり静かに落ち着いた時間と気分が一番ほしい。日々の生活の煩わしさは一切忘れて、すがすがしい爽やかな気分で筆を走らせる。そんなひと時をたとえ短い時間でも持つことができる幸せを、書道を通して噛みしめることができる。何もすることがないから書道をするのではなく、忙しい時間の合間をぬって作品を書く。これでいいのだ・・・、と自分に言い聞かせている。今日は書くぞと意気込んで、一日中筆を持っていても、ただ時間と紙ばかりを費やして成果があがらないことが多い。そうやって考えると、今のこの状態はなかなか充実していて効率的である。

 効率的であるといえば、それはワープロである。書家がワープロというと似つかわしくないかも知れないが、そうでもない。これが実に便利であるし、能率的である。昨年やっとパソコンも買った。使い始めて一年になる。メールで送られてきた文章やホームページ上の資料がそのまま活用できる。FAXで送られてきた文章はもう一度タイピングし直さなければならないが、それがない。これがまた便利である。書道会の雑務はほとんどワープロが活躍してくれる。書類は機械が保存していてくれて、少し手直しするだけで清書もしてくれる。手書きで字を書くのは、作品を書いたり練習したり、メモをしたりする時だけ。書家でありながらパソコンを使うことには何の抵抗もない。私は科学や数学が好きな理科系少年だったから、そんな考え方をするのかもしれないと思っている。手書きで字を書く機会が減ったので、余計に筆を持つ時間が楽しい。今、世の中には活字が氾濫している。手書きの文字はめったに見られなくなった。新聞、雑誌、ポスター、テレビ画面、店の看板、学校の教科書、文字という文字のほとんどが活字である。印刷活字のように書けば上手な字であると思い違いをしている人が大勢いる。平仮名でさえ活字のように書く。活字のように書くのであれば、ワープロの方がまだましである。もしも手書きで文字を書きたいのなら書いてもよいが、機械には書き得ない行書や仮名文字を書くことをお勧めする。くずし字や仮名文字が読めない書けないというご時世だから、もっと書道に親しんでみては・・・と思うのだが。

 こんな話は普段から学校ではあまりしないし、ウラ話でもある。でもやはり時間がほしい・・・。