+ Within


 特別なことがなければ、朝は一時間ほど早く起きます。そうして出来た時間に、僕は仕事や読書、あるいは物思いにふけったり、と。朝一番という時間は一番効率がよいのです。
 この僕の長年の習慣を、ヤツカは結婚してから知ったようでした。そういえば独身時代の僕たちの朝は、ヤツカの部屋で迎える朝であり、ホテルで迎える朝であり、そんな習慣を実行しない「特別なこと」がある時でした。もっとも身に付いた習慣ですから、実際無意識に目覚める事も多かったです。そんな時は飽きることなくヤツカの寝顔を見つめていました。たぶんヤツカは知らないでしょう。知ったらまた顔を赤くする事でしょうから、黙っていようと思います。
 結婚して最初の頃は、ヤツカも一緒に起きようとしていました。何だか気が引ける、何だか悪いと言って。口に出しては言いませんでしたが「旦那様が起きているのに」という思いがあったようです。ずいぶんとカワイイ、いや古風な事を言うものです。それはきっとヤツカがそんな家庭で育ってきたからなのでしょう。
 とはいえ、ヤツカにはヤツカのリズムがありますから、この習慣には馴染めなかったようです。あるいは、この時間が僕にとって一人でいたほうがいい時間なのだと解釈したのでしょう。今ではこうして、僕が起きてもすやすやと眠っています。今もまさに。
 僕は隣で眠るヤツカの頬を撫でました。ふと、首筋に僕が昨夜つけた赤い痕を見つけました。ちょっとすごしてしまったようです。僕はヤツカのパジャマの襟を直し、その痕を隠すと、静かにベッドから降りました。


 結婚してからも変わらない僕の習慣。そもそも結婚して何が変わるのだろうかと、何も変わらないだろうと思っていました。お互いの気持ちは昔も今も変わらないのですし、一緒にいる事も、一緒にいてすることも変わらないのですから。
 それでも結婚したのは、ヤツカと一緒にいたい、ずっといたいと言う想いを表すのに、他に方法がなかったからなのだと、自分では思っています。
 軽くシャワーを浴びて着替え、コーヒーを入れて書斎へ。昨夜も遅くまで使っていたパソコンを立ち上げるのは、海外からの報告を得るためです。でも珍しくメールは何もとどいていませんでした。手元の資料に目を通し、すべき事は全てすんでいると確認すると、僕はソファーに深く座り、コーヒーに口をつけました。
 珍しく、する事のない朝でした。テーブルに置かれた雑誌をぱらぱらとめくりましたが、特に目をひく記事もなく。めずらしく、ぽっかりと穴が開いたような感覚。朝の静寂の中に、僕はひとり。
 いえ、僕はひとりではありません。こうしている間も、僕の中のどこかでヤツカを感じていました。壁一枚へだてて眠っているヤツカの存在。ふとそれに気づけば、自然と口元がほころびます。同じ屋根の下にいるからだけではなく、たとえば仕事をしている時でも、僕は常にヤツカを感じているのです。不思議な感覚です。一体感とでも存在感とでも言えばいいのでしょうか。それともこうして生活している事で芽生えた責任感なのでしょうか、連帯感なのでしょうか。ヤツカを僕のなかのどこかで、いえ僕の中にヤツカがいるのです。そう、結婚して唯一変わったことと言えば、そのことなのかもしれません。
 僕の中にヤツカがいる。
 結婚する前は、そんな風に思った事はありませんでした。結婚する前は、いえヤツカと出会ってから感じていたのは、ヤツカの中に僕がいるという事でした。初めてヤツカを抱いた時、ヤツカの中に僕がいた時、僕は奇妙な安堵感を感じたのです。おかしな話ですが、例えるならばその時の僕はその場でヤツカに首を締められたとしても、何の抵抗もなくそれに委ねることができたと思います。無防備、というより全てからの開放。
 ヤツカの中に僕がいました。
 こんな風に全てを投げうてるひとがいるとは思っていなかったのです。人を信じる以上に疑えと教えられた僕、すべてが打算であり、利益であり、損得勘定であり。あるいは利用し利用され。そんな僕であったのに、ヤツカの前では何もない僕がいました。いえ、あの時の僕は僕ですらなかったのだと思います。ヤツカの中に僕がいる、身体だけではなくて、心から、いえ全ての僕がヤツカの中に。それは不思議な感覚でした。あの時初めて僕はひとと交わったのかもしれません。それがたまらなく幸福だったのです。それ以上の幸福はないと思っていました。
 けれども今、こうして何もしていないのに、僕の中にヤツカがいます。そこにヤツカがいるように、確かにここにヤツカがいます。それを幸福とは思いません。ただ、それを当然のことのように、まるで生まれたときからここにいるかのような自然さで受けとめられているのです。
 ヤツカの中に僕がいる。
 僕の中にヤツカがいる。
 そしてここに僕たちがいる。
 結婚というものは、いえ、僕達はきっとそういうものなのでしょう。だから、こうしているのでしょう。


 急にバタバタと音がしました。ヤツカが起きたようです。時計を見ると、いつもより少し遅い時間です。慌ててキッチンに向かう音がしました。その音を感じながら、僕はヤツカを全身で感じていました。ヤツカがそこにいるのを。ヤツカがここにいるのを。
 いつものように遠慮がちなノックと共に「おはようございます」の声がしてドアが開きます。時計を見たらいつもの朝食の時間です、よっぽど慌てて支度をしたのでしょう。けれどもその顔はいつも通り何事もなかったように。僕に寝坊したことを気付かれていないのだと信じきっていました。
「おはよう、ヤツカ」
「あさごはんができました」
「あ、ヤツカ」
「はい?」
「ごめんね、言うの忘れていたんだけれど、僕今日お休みなんです」
「え?」
「この間の代休で」
 嘘ではありません。ただそれを決めたのはついさっきという点では嘘です。
「え、だったら……」
「だったら、何?」
 だったらあんなに慌てることなかったのに、と唇を尖らすところをすかさず切り返しました。ちっちゃな嘘をついて、誤魔化すヤツカがかわいくて、思わずにやりと笑ってしまったら、ヤツカは「あ」という顔をして、ばれた事に気付き、顔を赤くしました。
「涼さん、意地悪です」
「だから、何がですか?」
「もう!」
 ヤツカがぷいと後ろを向きました。僕は笑ってヤツカを後ろから抱きしめました。
 僕の腕の中にヤツカがいる。
 僕の中にヤツカがいる。
「でもせっかくのお休みですね。どうしますか?」
 機嫌を直したのかヤツカが、少し弾んだ声で聞いてきました。
「まずはあさごはんですね」
「それから」
「寝ましょう」
「え?さっき起きたばっかり………………」
 僕はヤツカをこちらに向かせると、唇を塞ぎました。ヤツカは真っ赤になりながら、僕の言葉の意味を額面どおりではなく理解したようで
「……ふ、不健全です!そんな、朝から」
「何が?」
「何がって、あの」
 でも僕はどちらの意味でも良かったのです。どちらにしても、ヤツカの中に僕がいることも、僕のなかにヤツカがいることも変わりはないのですから。
「と、とりあえずあさごはんを食べてから……」
「から?」
 なおも言葉尻をとらえてからかいました。
「そ、それからお洗濯をしてから……」
「から?」
「お、お掃除してから……」
「から?それからなら、いいの?」
 黙ってしまったヤツカを、僕はぎゅうっと抱きしめました。
 僕の中にヤツカがいて、
 ヤツカの中に僕がいて、
 2人の中に僕たちがいる。


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 すずやつを書かせたら右に並ぶものはいないと自負しています(違います、他に誰もいないだけです)(苦笑)。
 ネタ自体はかなり前からありました。それがつるっと出てくるあたり、今ちょっと疲れているんだろうなぁ(疲れた時には甘いもの)(言い訳にもなってない)。(2005.04.13)