三月に入って、そろそろホワイトデーだなぁと思ったらちょっと憂鬱になってしまった。
いや、憂鬱というかちょっと怖い。一体涼さんはどんな「お返し」をしようとしているのだろうか。ああ、目には目を、歯には歯をだ。とりあえず何があってもいいように覚悟だけはしておこう。その反面、何があるのか楽しみな気分も、ほんの、ほんの少しだけあったり……結婚してから、多少は免疫がついたのかもしれない。
ところがホワイトデーまで一週間を切ったある日、涼さんに突然、明日から出張で北海道に行くと告げられた。急に決まった事で、慌てて準備をしようとする私の側で、涼さんはひどくがっかりした顔をしていた。
「残念です」
「え?」
「ホワイトデーには帰ってこれそうにもないんです」
「あー」
そうか、それでそんな顔をしているのか。
「かといって、今から前倒しでする時間もないですし」
……一体何をしようとしていたのだろうか、そんな時間がかかる事を用意していたのだろうか。……ちょっと怖いと思うと同時に、それを回避できたことにちょっと安心もして
「何ほっとしているんですか」
読まれてしまった。
「かといって帰ってきてからやるっていうのも、なんだかタイミング外しているから、あまり乗らないですしねぇ」
「そんな、気にしないでください」
「だって、僕色々考えていたんですよ?」
「いや、そんなたいしたことしてないんですから、そんなお返しに気合入れなくても」
「いや、あれはたいしたものでした」
しみじみと言われると、過ぎた事なのに恥ずかしくなってきた。
「だって、お返しが欲しくてしたわけじゃないですし」
「でも」
「涼さんが好きだから、したんですよ?」
うっかり自然とそんな言葉が漏れてしまった。それに涼さんは嬉しそうに笑ったけれど
「でも、残念です」
「じゃあ、電話ください。ホワイトデーに電話してください」
「何言っているんですか、毎日だって電話しますよ!」
そう高らかに宣言されても。
結局涼さんは、そのまま何もせずに旅立ってしまった。
そう言えば、結婚してからこんなに離れる事になったのははじめてだ。
久しぶりに、独身時代にもどった気分で「ひとり」を満喫しようと思っていたのだけれど、それを満喫していたのも最初の頃だけで。その週の中ごろにはもう涼さんが恋しくて仕方なくなってしまった。だって、毎日一緒だったんだもの。一緒にいることがもう当たり前なんだもの。
涼さんは宣言通り、毎日電話をくれたけれど、随分忙しいみたいだった。会話もそこそこに電話を切ってしまう。色々話したいことがたまっていく、聞いて欲しいことがたくさんある。昨日見たもの、今日食べたもの、そんな些細なことばかりなんだけれど、そんな些細な会話を当たり前のようにしてきた私たちなのだ。言葉をかわせないだけじゃなくて、その、やっぱり涼さんが側にいないのは寂しかった。
早く帰ってこないかなぁ。
でも。そうやって待つことが出来ることもまた、しあわせなのかもしれない。だって涼さんはちゃんとわたしのところに帰ってきてくれるのだから。涼さんを待っているおうちがあって、涼さんを待っているわたしがそこにいて。そんな風に思って寂しさを紛らわせた。帰ってくる日を楽しみに待とうと思った。
そんなこんなでホワイトデー当日。何をするとでもなく、だらだらと過ごしていた。涼さんからは夕方に電話が入って、これから大事な接待があるからと、慌しい様子が伝わってくる。涼さんが電話口で何度も謝る。わたしは謝らないでくださいと言った。わたしも気にしていませんから、元気にやっていますから、と涼さんに心配かけないようにちょっとだけ嘘をついた。ちょっと甘えたことも言ってみたかったのだけれど、そんな事を言う間もなく、電話は切れてしまった。
ため息はついちゃいけない、だってお仕事なんだから。
そろそろ夕ご飯の支度をしなくちゃなぁと、思ったけれどひとりだと作る気も食べる気もしない。適当でいいやとカップラーメンと缶ビールというかなりオヤジくさい夕食をだらりととっていたら突然、玄関のチャイムが鳴った。あれ?と思った時には
「ただいま」
目の前に、涼さん。
「えええ!?」
「帰ってきちゃいました」
だ、だって電話をしたのってほんの二時間前ですよ?それなのに?
「ヤツカの声を聞いたら、たまらなくなってしまって」
で、でも大事な接待は
「無理矢理時間を空けて」
で、でも一体どうやって
「ちょうど、うちのセスナが空いていたので」
……。
「北海道に呼び寄せて、それで」
……。
「また戻らなくちゃならないんですが」
驚きの余り言葉にならない。
「驚きましたか?」
聞かなくても、きっと今のわたしはすごくすごく驚いた顔をしているんだろう。なんだか夢みたいだ、嘘みたいだ。ありえない、信じられない、でも目の前にいるのは間違いなく涼さんだ。
「でもね、せっかく帰ってきたけれど、あんまり急いでいたから結局何も用意できなかったんです」
「は?」
「ホワイトデー」
ああ、そうか。もう突然の目の前の事に驚いて、涼さんがわざわざ帰ってきてくれた理由を忘れてしまった。ほんとうに、なんて……駄目だ、やっぱり言葉にならない。
「だからね、これを」
涼さんがはい、とわたしのてのひらの上に何かを乗せた。ころんと、ふたつ。
「あ」
「この間、ももか主任の席まで行く用事があったんです。会社を訪ねたときに」
そう、そういえば、よくあの島の脇の棚の上に置いてあった。
「僕が欲しそうにしていたら、くれたんです」
そう、これは涼さんのお気に入りだ。
「『涼さん、こんなの好きなの?』って驚かれました」
そう、確かに涼さんからは連想できないものだ。
「ヤツカが教えてくれたんですよね」
わたしの掌に乗るのは「いちごみるく」のキャンディ。「まあるくって、ちっちゃくて、さんかく」な、あの有名な「いちごみるく」のキャンディだ。涼さんはこれを付き合っていたころ、わたしの家で初めて見てとても感じ入っていた。わたしからみればこれを初めて見たという事に感じ入るというか驚いてしまうのだが。涼さんはこれを見てしきりにかわいいと言っていた。色も形もパッケージもかわいい、なにより「まあるくって、ちっちゃくて、さんかく」という言葉がかわいいと、感動の域にすら入りかねないいきおいで、目をキラキラさせて見ていた。ものすごく新鮮に映ったらしい。それ以来、涼さんはこれをいたく気に入っていた。
「こんなものしか、ないんですが」
けれども、それがなんだか嬉しかった。あまりにもスケールの大きな涼さん、とその世界。それに驚いたり困惑したりするわたしだけれど、涼さんの中にあるこんな素朴な気持ちが嬉しい、飾らない気持ちが嬉しい。そしたら、セスナで帰ってきたという驚くべき事実も、わたしの為にしてくれたのだと普通に受け止められるような気にすらなっ……いや、やっぱりこれは普通じゃないけれど。でも、そんな感じに嬉しかった。嬉しかったから、涼さんに抱きついた。久しぶりに涼さんの匂いに包まれて、結局、なんだかんだいって、わたし、しあわせなんだ。
ひとしきり抱き合って、ふと思い出して身体を離して涼さんを見る。久しぶりにまじまじと見つめ合ったら、ちょっと恥ずかしくなってしまって
「あ、あの涼さんご飯まだですよね?」
それほど急いで戻ってきたのだから、多分食べていないんだろうなぁと思って聞いたら、うんと答えた。
「じゃあ、何か作りますね」
とはいえ割と自堕落に過ごしていたから、冷蔵庫に何もないんだよなぁ、どうしよう。
「いえ、でも時間がないんで」
え?もう?もう、すぐに戻らなくちゃいけないんですか?
と、聞き返す前にふわっと抱き上げられた。ええ?と驚いたのは抱き上げられたことにではなく、この後にいつも続く展開に対してだ。
「じ、時間がないんじゃないですか?」
「明日の朝イチで帰ります」
「だ、だって」
「だから、時間がないんです」
「時間がないって、何をしようとしているんですか!」
「だって、僕そのためにわざわざ帰ってきたんですよ?」
「そっ」
「僕のお返しがあれだけで終わると思っていたんですか?」
「でっ」
ベッドに横たえられた。諦めて、というかもう何を言っても無駄だから、ただ目をぎゅっと閉じて、涼さんのお返しを受けようと身構えていたら、ふと
「あ、ヤツカ」
「……は、はい?」
「大事なことを忘れていませんか」
すぐに何を言っているのかわかった。けれどもこの状況でそれを改めてするのもなんだか間が抜けてるけれど、けれども
「おかえりなさい」
涼さんに口づけた、いつもの「おかえりなさい」のキス。
こんな状況で、それを言い出すのが妙におかしくなってしまった。いつものこと、当たり前のこと。それが増えていくのが結婚するってことなのかもしれない。
そしていつも通りの展開で、涼さんがわたしを抱きしめた。いや、そこから先はいつもどりじゃないのかもしれない。涼さんの「お返し」はいつも通りじゃすまないのかもしれない。
目が覚めた。
「起きましたか?」
涼さんの声。あれ、今何時?もう戻らなくちゃいけないんじゃないの?まだ大丈夫なの?そう思った時、耳に聞こえる奇妙な音。いや、聴覚よりもなにか変な違和感を感じて。
「!!」
思わず窓にはりついた。眼下に見える白いのは雲。今はりついた窓は飛行機の、いやセスナの窓、振り返ると涼さんがいるセスナの機内。
「連れてきちゃいました」
涼さんが悪びれずに言った。連れてきちゃいましたって!!
「だって、あんなカワイイヤツカ、置いていくなんて忍びなかったから」
ああああんなって!!
唖然とした。驚きで声にならないというか、息もできないぐらいだ。
ゴオオという空気を引き裂く音。この音にすら気付かずに眠りをむさぼっていたのか、もとい涼さんにこうやって連れてこられたことにすら気付かなかったのか。だって、昨夜の涼さんがあんまりだったから、疲れてすっかり眠ってしまっていたから……なにもかもがあんまりだ、わたしを連れてきてしまった涼さんも、それに起きなかったわたしも。
「多分明日には仕事が片付くと思うんです。そしたら北海道でゆっくり旅行でもしてきましょう」
確かにそれはステキな提案だけれど
「それまでちょっと待っていてください。向こうの別荘をあけておくように言っておきましたらから、そこで」
確かに向こうには涼さんちのたくさんある別荘の一つがあるのだけれど
「何か足りないものがあったら言ってくださいね」
ちゃんと足元にはわたしの旅行用の鞄があった。中を見たらちゃんとそれなりに荷造りされて、必要なものはちゃんと入っていた。もちろんチェキも入っていた。そういえば、当たり前なのだけれど、わたしちゃんとお洋服着せられている。ちゃんとわたしが「旅行に行くならこうしたい」と思うセレクトで。
確かにそれは素晴らしい気遣いだけれど。
確かに、間違っていないけれど、でも!
「それにね、ヤツカ」
不意に涼さんがわたしを抱き寄せた。
「まだ、僕の『お返し』は終わっていませんから。ヤツカ、途中で眠ってしまうから」
え、えええ?あれで終わりじゃないの?あれ以上何をするって言うの?
「続きは、試される北の大地でね」
確かに試されている、常に、わたしが試されている。
訳のわからない涼さんの台詞に、わたしは考えることを放棄した。少し、寝ていいですか?と聞いたら自分の膝の上にわたしを横たえさせてくれた。
「もう少しで着きますからね」
すごい「お返し」だった。何もかもがすごい「お返し」だった。いや、過去形にするのはまだ早いのだ。
続きは試される北の大地、北海道で。
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涼さんの逆襲編(……)。書くつもりはなかったんですが、つうかこの「奥様はヤツカ」は当初4話で完結予定だったんですが、既に予定外のモノばかり書いています(うつむき)。
最近のおくヤツ(そう略すのか)は、涼さんがおかねもちという設定を生かしきれていないなぁと思ったので、がんばって織り込んでみました(笑)。
しかしなんだかワンパターン化してきたなぁ(素)。そんなお姫様だっこが好きか(うん)(うわー)。いっそのこと、ボタン一つでベッドが出てくるようにこのマンションリフォーム(それリフォームの域を越えているよ)したらどうでうしょうかね?(聞くな)、そうすれば「お姫様だっこ」を出さなくても大丈夫だし!(2004.03.14)
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