+ Ring


「涼さん、そろそろ休憩にしませんか?」
 伺うように書斎のドアを開けて声をかけた。
 今日はお休みの日。けれども涼さんは書斎にこもってお仕事中。
 まあ、それならそれでとひとりでお買い物に行ってきて、それから洗濯物をとりこんで畳んで、それから……それから……やっぱりちょっとつまらない。だから3時をすぎるのをずっと待っていた。ずっとそうやって声をかける機会をうかがっていたのだ。
 涼さんの返事を待っていそいそとお茶の支度を書斎に持ち込んだ。書斎には簡単な応接セットがあるから、今日はここでお茶にしましょうと。涼さんが「随分準備が早いですね」と笑った。うう、どうしてだかわかっているくせに。でもそれから真面目な顔になって、せっかくのお休みなのにごめんねと言って、それから
「でも僕だって寂しいんですよ?せっかくヤツカとゆっくりしたかったのに」
 そう言って子供みたいに口をとがらせた。もう、この人は何を言っているんだか。
 テーブルを挟んで向かい合わせに座る。お茶うけにさっき買ってきたケーキを出したら、涼さんが「あ」と嬉しそうな顔をした。涼さんは甘いものはあまり好きではないけれど、ここのケーキだけはお気に入りだ。
 カップから湯気と紅茶のかおりが立ち上る、ふと顔を合わせて、そしてお互いになんとなく微笑みあう。ああ、やっと日曜日の午後らしくなってきた。
 ふと涼さんが言った。
「……なんか、おかしいですね」
「え?」
 涼さんがちょっと顔をしかめている。もしかして、紅茶の味がおかしいのかしら?でも自分で飲んでもそれは感じなかったけれど。
「うん……なんかおかしい」
「何がですか?」
 涼さんはそれには答えず何か考え込んでいた。私が不安になり始めた頃、涼さんがはっと気付いた顔をして、立ち上がった。ちゃんと自分の分のケーキとカップを持って、そして私の隣に来て、座った。
「涼さん?」
「うん、そう、そうだ。だからおかしかったんだ」
「え?」
 何がなんだかさっぱり。
「ほら、独身の頃はよくヤツカの家でこうしていたじゃないですか?だから、隣にヤツカがいないと、なんだか落ち着かないんです」
 確かに、独身の頃は私の部屋に無理矢理置いてあった小さなソファーで、2人こうして肩を並べていた。でもそれはソファーがひとつしかなかったからで、私からしてみれば、目の前に涼さんがいないほうが違和感なんだけれど。
「ヤツカ」
 呼ばれて涼さんを見る。……うん、確かにこの角度は、この角度のからの涼さんは見慣れた顔だ。その涼さんの顔が近づいてきて、そして私にキス。
「……」
「うん、こうじゃないとね」
 ひとり納得する涼さんの前でわたしの顔は真っ赤になっていたかもしれない。
 そしてまたわたしにキスしようとする涼さん
「ちょ、ちょっとお茶が冷めますよ?」
「だって、昔はこうやってよく2人でいちゃいちゃしていたじゃないですか」
「い……」
 いちゃいちゃって……いや、そんな事はしてないです、いやしたかもしれないけれど、でもそんな事を言われても。
「思い出しますね」
 そして涼さんはキスは諦めてくれた、その代わり。
 涼さんがこちらに向かって大きく口を開けた。はい?
「ほら、昔はこうやってヤツカが食べさせてくれましたよね?」
「そ、そんなことしてませんてば!」
 捏造もいいところだ。何を言い出すのだ。何をおねだりしているのだ。けれども涼さんは構わずこちらにむかってあーんと口を広げて待っていた。それがどうにもこうにもおかしくて、恥ずかしいよりなんだかおかしくて。
 そんな涼さんの捏造にのってみることにした。涼さんのお皿から、とうてい一口では入らないサイズに切ってフォークにさして
「はい、あーん」
 涼さんはそのサイズに一瞬ひるんだけれど、自分から言い出した事だから。意を決したように大きな口を開けてそのケーキを頬張った。涼さんがちょっと「やられた」という顔をしていた。わたしは意趣返しができたような気分でちょっと得意げになった。
「もっと食べます?」
 涼さんがぶんぶんと首を振った。その鼻先にはケーキを一口で食べきった名残でクリームが。だめだ、声を立ててわらいそうなぐらいにおかしい。涼さんは何がなんだかわからずに、また憮然とした顔をして、それでもクリームなんかつけているのがおかしくておかしくて。
 空いていた左手の指先でそのクリームをぬぐってあげた。涼さんが「あ」と気付く、そしてちょっと顔をあからめた。今日の涼さんの反応は新鮮でカワイイ。それを言おうとしたら、涼さんがいきなり私の左手をとってぱくっと指先を口に含んだ。
「なっ!」
 突然の事に慌てて手をひっこめようとしたら、涼さんはこう言う。
「だって、このクリームは僕の分でしょう?」
 だからといわんばかりに、いやそれ以上の思惑で私の指先を舐める。涼さんの生暖かい舌の感触がクリーム以上に甘くて、そのあまりにもな光景に固まってしまった。
「思い出しますね」
 尚もわたしの指を執拗に舐めながら言った。
「昔はこうやっていちゃいちゃしていましたね」
 だから!いちゃいちゃて!捏造です!
 涼さんの舌と唇はどんどんエスカレートして、わたしの左手を丹念になぞっていく。うわ、やだ、ちょっと。
「でも、ここだけは昔と違う」
 涼さんの唇が、薬指にはまっていた指輪に触れた。いとおしそうにそれをなぞる。結婚指輪。そして柔らかく押し付けてくる。何度も何度も。冷たい金属に涼さんの熱が移っていくのをリアルに感じていた。思わず、うっとりと、ため息の出そうな……。
 まるで恭しくかしづく騎士のように、私の手にくちづける。なんてこうクサイことをやっているのだ。涼さん?そこだって、その、感じちゃうんですよ?けれどもそれを拒否することも出来ずに、ただ涼さんのなすがままになっていた。涼さんは飽きる事無く、くちづけつづけた。静かな部屋が、余計に静まり返って、その不思議な沈黙を破りたくて、何か、何か話をしなくちゃいけないと思って
「母の指輪は、お風呂でしか外れなかったんです」
 涼さんはまだくちづけを続けている。
「母もずっと結婚指輪をしていました。でもわたしが物心ついた時には結婚当初よりも太ってしまったらしくて、その指輪は外れなくなっていたんです。でもお風呂でなら、お風呂で石鹸をつけて滑らすと外れたんです」
 涼さんはまだくちづけを続けている。
「それで、子供の頃は湯船でそれを外して、おもちゃ代わりにして遊ぶのが大好きだったんです。何度も何度もお湯の中に落として、水の中でわずかに揺れながら落ちていくのを見るのが好きだったんです」
 涼さんはまだくちづけを続けている。
「でもある時、そんなふうに遊んでいたら排水溝にその指輪を落としてしまったんです。子供心にすごいショックでした。その指輪の意味もちゃんとわかっていた年頃でしたから、これがないと両親は夫婦じゃ無くなってしまうんじゃないかと、怯えてしまって、ひとしきりわんわん泣いて」
 涼さんはまだ……いや、わたしは一体何を話しているんだろうか?
 結婚指輪から思い出した子供の頃のエピソード。けれどもちょっと不吉な話の流れになってしまった。でもそれを不吉と思ったのはわたしだけで
「心配しなくても、もしヤツカが無くしてもちゃんと新しいのを買ってあげますよ?」
 言うと思った。確かにそうなのだけれど。
「でも、わたしはイヤです」
 だって、これはあの日、あの結婚式の日に涼さんからもらったものだもの。この指輪をはめてくれた涼さん、明るいチャペルの空気、やめるときもすこやかなるときも、誓いのくちづけの後に囁いてくれた「愛している」は特別な響きを持って聞こえてきて、そういう思い出のつまっている指輪だもの、これじゃなくちゃダメなんだもの。
「そんな、モノにこだわらなくたって僕達の愛は本物じゃないですか」
 さらりと恥ずかしい、でも事実な事を言う。それはそうだけれど、そう言われるとそうやって「これじゃなくちゃダメ」と思う自分がちょっと幼く思えた。でも、やっぱりこの指輪ををなくしてしまうのはイヤだ、悲しい。
 涼さんはようやく唇を離して、そしてちょっと考えていた。
「そうですね……昔の僕だったら、やっぱりヤツカと同じようにこの指輪を失うのはいやだと思ったかもしれません」
「え?」
 涼さんはまたちょっと考えて
「そうやって、指輪ひとつに色々な意味をこめようとしたことがありました。モノにこだわろうとしたことが。ヤツカ、ヤツカは知らなかったかもしれないけれど、僕、割と早い時期からヤツカと結婚するつもりでいたんです、付き合い始めた最初の頃から」
 そんな事は知る由も無い。
 というか涼さんがそう思っていたことも、そう言い出した事にも驚いた。
「結婚というか……ヤツカに少しでも早く、この指輪をはめようと思っていた時期があったんです。正直に言ってしまうと、そうやってヤツカを縛り付けたかった」
 涼さんの指がわたしの指をやさしくなぞる。
「もちろん、僕は結婚というものが単なる法制度でしかないことも、この指輪がその象徴にしかすぎないこともわかっていたつもりです。けれども、それでもどうしてもヤツカを縛り付けたかったんです。ヤツカを自分のものにしたくて仕方なかった。そうやって結婚指輪という印をつけたかったんです。今思えばバカな話ですが、でもね、僕は本当にヤツカを『自分のもの』にしたくて。焦ってもいました、何故だかわからないままに、指輪ひとつにこだわってこだわって」
 一気にそこまで言ってわたしをうかがう。わたしはどんな顔をしていいのかわからなかったけれど、その話の続きを促すように頷いた。
「けれども、それがどんなに愚かで、自分勝手で、傲慢であるかに気付きました。僕はねヤツカ、そういう事に気付けなかった、そういう事が傲慢であると知らない男だったんです。それを気付かせてくれたのは、ヤツカでした」
 多分、私の顔は真っ赤になっていただろう。それでも尚続きが聞きたくて
「それで……?」
「うん……それで考えました。肝心なのは『僕がヤツカをどうこうしたい』ではなくて『僕がどうしたいか』なんだって」
「それ、で?」
「僕はヤツカと一緒にいたいと思った、僕がヤツカと一緒にいたいと思った、だから結婚した……僕は一体何を話しているんでしょうかね?」
 そして照れたように笑った。私はそれがなんだか珍しくて……そして、うれしくて。そんなふうに涼さんが思っていたことも、そんなふうに涼さんが変わっていったことも、そしてそれをこうやって話してくれていることも。
 わたしは涼さんの左手を取った。そして涼さんがしたのと同じようにくちづけた。涼さんの薬指にも嵌っている結婚指輪、わたしたちが夫婦である証。それがあってもなくても、わたしたちは夫婦なのだ。結婚したのだ。
 涼さんが身を捩った。涼さんが本当に照れて、固まってしまっていた。そしてしばらくの沈黙、優しい沈黙、わたしは涼さんの指にくちづけ続けた。その沈黙を破るように涼さんが言った。
「それで、その後はどうしたんですか?」
 わたしはようやく唇を離した。
「……結局、父が新しい『結婚指輪』を買ってきたんです。でも結婚指輪は結婚指輪なんだから、ちゃんとしなくちゃダメだからと主張して、両親に目の前で「指輪の交換」をしてもらいました。ちゃんとわたしが神父さんの代わりになって」
「なんだ、とてもいい話じゃないですか?」
 そして涼さんは指輪を外した。そしてわたしも指輪を外した。お互いに何をしようとしているかわかっていたからだ。
 わたしが涼さんの指輪を取って、涼さんがわたしの指輪を取って。
「病めるときも」
「健やかなるときも」
 まるでままごとのような、それでいておごそかな、二度目の指輪の交換。何度でも何度でも、そうやって誓いたい。いつまでも一緒に。


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 つかれたときにはあまいもの(何の言い訳にもなっていない)。
 すずやつ祭の頃から私がヤツカの部屋にあるソファー(ラブチェア―)にこだわるのは一人暮らし仲良し同期の間で「ソファーのある家(そのソファーを置ける余裕のある広さの部屋を借りたいよなぁ?)」が一種のステータスだったからです(そうなのか?)(多分)。でも私はきっと物置になると思うので置きません(笑)(つうかどうでもいい)(2004.07.14)