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『small office home office』 「涼さん!馬から落馬したって!」 「……ヤツカ、また日本語がおかしいですよ?」 乗馬に出かけていた涼さんが馬から落馬……いや落馬して怪我をしたと聞いて、わたしは慌てて病院にかけつけた。ドアを開けて叫んだわたしに、ベッドの上の涼さんはしれっとそう言ったのだ。いや、でも右肩を打って全治一ヶ月。……慌てもするし、心配もするし。それに連絡をもらった時には詳しい話も聞かなかったから、涼さんの身に何かあったらどうしようと心配で不安でたまらなくて……。 ぐっと溢れそうな涙を堪えた。病院の特別室には、お医者様や看護士さんやら、会社の人やらいたから。涼さんの口から事の顛末を聞き、お医者様から、詳しい怪我の状態を聞いて、ようやくひとここちつく。 「でも、涼さんが落馬なんて」 「申し訳ございません、奥様」 部屋の隅にいた厩舎の管理人さんが進みでてわたしに頭を下げる。 「あれは事故だったんですよ、しげみから栗鼠が飛び出してきて、馬が驚いただけで……ジョゼファーツ号は悪くないんですから、誰の責任でもないんです」 それでも、一歩間違えば、首の骨を折って即死でもおかしくなかった。わたしは身震いした。やっぱり、耐え切れずに涙が溢れた。安心したのもあるのかもしれない。いや、こんなに心配したのに、涼さんがしれっとしているのが、少しだけ、悔しかったのかもしれない。 「ヤツカ……大げさなんですから」 涼さんが怪我をしていない方の手を伸ばして、わたしの涙を拭った。そんなわたしたちに、周りの人たちがそっと席を外してくれたのが気配でわかった。 涼さんは薬が効いてきた、と言ってすうっと眠りに入ってしまった。 夜、完全看護だからつきそいはいらないのだけれど、わたしはそのまま病院に残った、涼さんに付き添っていたかったから。ずっと涼さんの側にいた。月明かりに照らされる涼さんをじっと見つめて……。ふいに涼さんがうめき声をあげた、涼さんが目を開ける。 「ヤツ、カ?」 「涼さん」 「……帰らなかったんですか?」 「それより、大丈夫ですか?」 「痛い」 「は?」 「ヤツカ、痛い」 「え?」 慌ててナースコールを押そうとしたら、涼さんがそれを押しとどめた。 「でも」 「いいんです、薬が切れたら痛くなるのはわかっていましたし、これ以上は投薬できないから、我慢してくださいと言われてますから」 「でも」 「いいんです、僕、我慢しますから」 そして涼さんは、痛い、とまた言った。苦しそうに眉をしかめる。そこで初めて気付く。痛くもあり、つらくもあったはずだ。けれども周りの人にそれを悟られたく無かったのだろう。わたしの前では素直に「痛い」と言って、甘えた声を出す。……いじらしい、というのはおかしいだろうか。 「ヤツカ……」 涼さんがちょっと潤んだ目で見上げる。わたしは涼さんの頭を撫でてあげた。涼さんはまた、甘えた声で「痛い」と言った。 「痛い、ねぇ痛いよヤツカ」 「うん、大丈夫、大丈夫ですから」 慰めて、そしてキスして、あやすように手を握って。一晩中、ずっと、そうしていた。 一週間ぐらいして、涼さんは退院した。完治するまで入院していればいいのに、仕事上そうもいきません、と。こういうときぐらいゆっくりすればいいのにと思う。それでも会社に行くことはできないから、自宅療養。まあただ寝ているよりかはいいのかもしれない。 とはいえ利き腕の右肩がギプスで固められてしまっているから、普通の生活の何気ない動作がどうしても一人ではできない。そんな涼さんの世話を甲斐甲斐しく焼くのはわたしの仕事だ。……口には出さないけれど、涼さんにあれこれしてあげらるのは、ちょっと嬉しかった。服を着るのも、ご飯を食べるのも、わたしから涼さんにしてあげられること。 お風呂にも入れないから、わたしが身体を拭いてあげる。ベッドに寝そべった涼さんの服を脱がせて、ちゃんと病院で教わった通りに「清拭」する。さすがにこれはわたしも最初はなんとなく恥ずかしかったのだけれど、けれどもそれ以上に涼さんが恥ずかしがった、というかきゅっと目を閉じて無口になってしまう。そうやってわたしのなすがままに身体を預ける涼さんが、なんだかいとおしくて。 今日もそうやって、身体を拭いていた。涼さんはまたきゅっと目を閉じてしまう。 「寒いですか?」 ううん、と首を振る。そんな仕草もかわいくて。そしてこんな明るいところで涼さんの裸を見るのもあまりないことだから、つい色々と発見してしまう。あ、こんなところにほくろが、とか、爪が伸びてきたなぁ、とか。 綺麗に拭き終えて、涼さんに服を着せようとしたら、涼さんが目を開いた。 「ヤツカ」 「え?」 「しませんか?」 「え?」 「セックス」 「……は?」 「だって、せっかく脱いでいるんだし、また脱がすのも着せるのも大変でしょう?だから」 「ななな何言っているんですか?」 「だって、しばらくしていないじゃないですか?」 「だって、怪我が……」 「大丈夫、ちゃんと負担にならない体位を聞いてきましたから」 「たっ」 「それに怪我をしたからって、そういうのがなくなるわけじゃないじゃないですか?」 「でっ」 「僕がヤツカに身体を拭かれながら、どれだけ我慢してきたか」 ……そうか、目を閉じて無口になるのは、その、我慢をしていたからか……って納得している場合じゃない。 「それに、ヤツカだってたまっているでしょう?」 バカ!と言う前に思わず涼さんのを確認してしまった。どうしよう、本当に抜き差しなら無い状況になっていたら……と思ったら 「……」 あれ、なんともない。 「ヤツカ、何を見ているんですか?」 涼さんがニヤリと笑った。 「……………………」 ようやく、そこでからかわれたのだと気付く。 「ばっ……!」 もう馬鹿という言葉にもならない。そのまま涼さんの服をたたきつけ、ても涼さんは着ることできないから、ニヤニヤ笑ったままの涼さんに無理矢理着せて、ボタンはもう勝手にしてとばかりにはめずに、そのままくるりと背中をむけた。 「ヤツカ、そんなに怒らないで。ね」 涼さんが起き上がる気配がする。振り返ると、片腕でどうにか身体を起こそうとしていた。手伝おうとして、でもやっぱり腹が立っていたからそのまま無視。涼さんはよいしょと身体を起こして、ベッドの端に腰掛けた。 「ヤツカ」 涼さんがぽんぽん、と怪我をしていない左手でベッドを叩いた。左側に座れということか。怒ったままでもしょうがないから、仕方なく、そこに座る。すると涼さんは左腕でわたしを抱き寄せた。不器用に、無理矢理に。 「涼さん?」 利き腕ではない慣れない感覚にとまどい、声をかける。涼さんはしばらくの沈黙のあと、吐息を吐くように呟いた。 「くやしいです」 「は?」 「僕の腕は、ヤツカを抱きしめる為にあるのに」 それなのに、今、満足にわたしを抱きしめることができない、とくやしがる。仕方ないじゃないですか、というよりも前に、その涼さんの苦しげな切なげな声が心に響いてしまって。そうだ、確かに涼さんの両腕はいつだってわたしをしっかり抱きしめてくれていた。いつだってそうだったのに、今はそれができないし、しばらくそうしていない。 「涼さん……」 わたしは涼さんの腕を外させた。え、という顔をする涼さんの前に立つと、両腕でしっかりと涼さんを抱きしめた。涼さんが抱きしめられない代わりに、涼さんの両腕の代わりに、わたしが、涼さんを、抱きしめた。 「ヤツカ……」 うん、そうだ。しばらくこうしていなかったから、しばらくはこうしていよう。 片腕生活に慣れると、途端に涼さんは仕事の虫になってしまった。おそらくはこれがしたくて、無理矢理退院してきたのだろう。朝起きてご飯を食べて、書斎にこもって、お昼にでてきて、また書斎にこもる。時には夕食の後にも、夜遅くまでも。決して完全な身体じゃないんですから、と小言を言っても馬耳東風とばかり、涼さんはお仕事をしていた。ちょっとしたSOHOだ。涼さんの面倒を見る、事が思いがけず楽しかったものだから、そして涼さんが昼間に家にいる、というのが嬉しかったものだから、このSOHOには辟易した。 「涼さんー、お昼ですよー」 かくして今日も、朝ごはん以来に夫の顔を見る。仕事の時だけかける眼鏡の顔は新鮮だけれども、やっぱり正直寂しかった。せっかく家にいるのに。お昼を食べて、ちょっとコーヒーを飲んで、そしてまた書斎に「出勤」していく涼さんを見送る。忙しいのも、それが必要なのもわかるけれど……。 でもまあ文句ばかり言っていてもしょうがない、といつものように前向きに思考を切り替えようとがんばった。がんばったら、ちょっといいアイデアが浮かんだ。 「涼さんー、お昼ですよー」 今日も朝食以来、ダイニングに来た涼さんが「?」という顔をした。テーブルの上には色違いの巾着袋がふたつ。中はもちろん 「お弁当?」 「はい」 涼さんが笑った。中からお揃いのお弁当箱が出てくる。事業部に勤めていた頃は、しょっちゅう自分でお弁当を作っていたから、新婚生活を始めた時に涼さんにお弁当持っていきますか?と聞いたことがあった。ところが涼さんのお昼は出先だったり、接待だったりして外食がほとんどで、お弁当を持っていっても無駄になるだけだった。いつだったか、涼さんは自分の部下(といっても涼さんより年上の)が、いつもお弁当を持ってくるという話をした事があった。涼さんがその人に「今日も愛妻弁当ですか?」と聞くといつも「いやあ、もうそちらみたいに新婚ではないですからね、ただの『妻弁当』ですよ、愛はもうどっかいってますよ」と笑うのだという。それでもそのお弁当はちらりと見ただけでも、奥さんの愛情や心遣いがつまっていて「あれも一種のノロケなんですかねえ」と、楽しそうに、でも少し羨ましそうに話していた事があった。だから、だ。 「『愛妻弁当』ですね?」 涼さんもそれを覚えていたのか、嬉しそうに笑った。 そして二人でいただきます、と手を合わせ、お弁当の蓋をとった。涼さんを喜ばせたかったから、ちょっとがんばったから、反応を見逃すまいとじっと見ていた。開けた途端、涼さんはぱっと明るい顔をした。けれどもすぐに何かに気付いたようで、ちょっと暗い顔になった。 「あの、」 「ねえ?ごはんの上にぴんくのでんぶでハートとか書かないの?」 「かっ、書きません!」 「じゃあお弁当箱の底に海苔で『LOVE』とか書かないの?」 「書きません!」 一体、どこからそんなネタを仕入れてきたんだ。涼さんはちょっとがっかりしていた。そしてそそくさとお弁当をしまってしまった。え?まさかハートとかLOVEが無かったから機嫌を悪くしたの? すると涼さんは言った。 「屋上に行きましょう」 「え?」 「だって、OLさんはそうするんでしょ?こんないい天気だもの。こんなおいしそうなお弁当だもの、一番ふさわしい場所で食べなくちゃ」 このマンションは屋上にちょっとした公園みたいな場所がある。涼さんに手を引かれて、お弁当をもって屋上へ出た。高層マンションだから高すぎるぐらいなんだろうけれど、でも二人でまるでピクニックに来たみたいに浮き立った気分になった。涼さんはおいしいおいしいと、わたしの分まで横取りしながら綺麗に食べてくれた。よかった、ハートもLOVEも無いけれど喜んでくれたんだ。また会社に行くようになったら、こうしてお弁当を作れることもないだろうから、明日からもお弁当にしますか?と聞いたら涼さんがうんうんと、子供みたいに喜んだ。うん……こんなに喜ぶなら明日からはハートとかLOVEとか……いや、やっぱりそれは恥ずかしいからやめておこう。 ごちそうさま、と二人で手を合わせた。そしてその日はそのまま屋上で二人並んでのんびりほっこりひなたぼっこをしていた。何をするとでも、何を話すとでもなく、二人でベンチに座って、ゆったりとした午後のひとときを楽しんだ。 書斎でのお仕事中はできるだけ邪魔しない、とは思っているけれど、やはりそれでも様子が気になる。という訳で今日は「さんじのおやつ」を持って書斎のドアをノックした。 涼さんは書斎の応接セットに座っていた。目の前にパソコンのディスプレイを置いて、なにやら見入っていた。どうやら会議の映像のようだった。一瞬、テレビ会議か何かかと思ったのだけれど、その割には周りに何も機材が無かったし、カメラのアングルも、ホワイトボードに向う7〜8人の会議を後ろから覗いている、という形だった。既にやった会議の内容を映像でチェックしているのかな、と納得した。そこまでしなくちゃいけないのか、大変だなぁと思いつつ。 「涼さん、休憩にしませんか?」 涼さんは「ん」と答えたきり、画像から目を離さない。映像を止めるかな、と思ったけれど、そのまま食い入るように会議に見入っていた。後で見ればいいのにとか、議事録とかの方がよっぽど効率いいのになぁと思った。 なんとなく手持ち無沙汰になってしまって……ううん、構ってくれなかったことがちょっと寂しくなって。そのまま涼さんの隣に座った。最近の定位置はもちろん左側。涼さんがちらりとこちらを見たから、邪魔?と言うように首を傾げたら、いいよと言うように短いキスをくれた。そしてまた会議に見入る。もう、と思いつつも今そうやって涼さんのそばにいられるのが嬉しかった。邪魔にもされず、でも取り立てて構ってもくれないけれど、ただ、そこに自然にいられるのが嬉しかった。涼さんにとって自分が「あたりまえ」になっているのが、嬉しかった。涼さんが自然にわたしを受け入れてくれている。涼さんの体温を感じながら、そうやって一緒にいられるしあわせを噛み締めていた。その思いが抑えきれずに、ちゅ、と涼さんの頬にキスをした。涼さんはそれも「あたりまえ」に受け止めてくれた。 ぼんやりと涼さんの肩に頭を預けたままわたしもその会議を見た。末席に座っている若い社員が、カメラをじっと見ていた。めずらしいものでも見たような、驚いた顔をしている。今までそこにカメラがあったことに気付いていなかったのかしら?そんな余所見をしていたら、後で涼さんから怒られるわよ、と笑ったら、その人は慌てて顔をそむけた。え……? その若い社員の気配に、会議をしていた全員が振り返り、カメラを見た。そして全員驚いた顔をして、すぐに慌てて目をそらす。え……まさか? 涼さんが苦笑した。 「すみません、若い人には目の毒でしたか」 その声が、隣の涼さんからと、ディスプレイの中から聞こえた。 え?……ええええ?この映像、やっぱりテレビ会議だったんだ!で、でもだって何もそんな機材無いし、事業部で見たことあるようなテレビ会議の設備なんて全くないし、何で! 「じゃあ、休憩にしましょうか?」 そう言って涼さんが傍らの携帯に手を伸ばすのと、わたしが驚きの声をようやくあげるのと、その声がディスプレイからも聞こえてくるのが同時で、そしてプツリと画像が消えた。携帯のカメラ機能を使ってのテレビ会議、というか涼さんの会議監視だったのだ。最近の携帯はとても発達している……って感心している場合じゃない。 「なっ、なんで言ってくれなかったんですか?」 もしかして、涼さんからのキスも、わたしからのキスも見られていたのだろうか……少なくとも、しあわせそうににやけた顔をして、涼さんにぴたりと、よりそう、わたしは見られた訳だ。恥ずかしい、言葉にならないぐらい恥ずかしい。 「恥ずかしがる事ないじゃないですか?だって、別にあたりまえの事じゃないですか」 そのあたりまえをさっきまでは嬉しいとわたしも思っていた。でも、人に見られるのは訳がちがう。 涼さんはなんならもっと見せ付けてもいいんですよ?と再び携帯に手を伸ばした。わたしは慌てて書斎を飛び出した。 そんな涼さんの自宅療養一ヶ月が終わった。肩もすっかり完治して、今日は久しぶりの出勤。いつものようにいってらっしゃいのキスを玄関で。いつものようにと言いつつも、すごい久しぶりだ。でもこうやって涼さんがずっとおうちにいた日々が終わってしまうのが少し寂しい気もした。それを涼さんは察したのか 「大丈夫、僕が定年退職したら、まいにちがきっとあんな風になりますよ」 そしてその時に濡れ落ち葉とか粗大ゴミ扱いされないように、がんばって働いてきますよ、と冗談を言って出勤していった。 それを見送りつつ、なんだかすごくしあわせになってしまったのは、そんなあたりまえだった日常がもどってきたこと。涼さんが前と変らず元気になったこと。そして「定年退職したら」、ふたりがおじいちゃんおばあちゃんになっても、きっとこんなふうに一緒にいられるのだと思ったら、そんな先のことなのに、それがすごくしあわせに思えたのだ。 「……」 いつかそんな日がくる時まで、わたしもこのいとおしい日常をがんばって働こう。 よし、と自分で声をかけると、掃除機をかけにリビングに向かった。 | |
| 2005.12.18 | |
| 「愛はないから妻弁当」 これはウチの上司が元ネタです。とはいえ大学生の息子さんがいながらいまなお奥さんとラブラブなのは知っているんだから!(ここで言ってどうする)(笑)。 ※ブラウザバックで戻ってください。 |