Project_O


 遠慮がちなノックに訝しげに部屋のドアを開けると、そこにはパジャマ姿のまりえがいた。
「おじさま……」
「まりえちゃん?。駄目だよ?そんな格好で。こんな時間に」
 驚きつつ、どうしたかを聞く前に、そんな言葉がついてでた。
「……ねむれないの」
 まりえは小さな声で言った。
「少し、お話していっても、いいかしら?」
言葉遣いは大人びているのに、何故かちいさな子供のような印象をうけた。
暗闇の中に浮かぶ、不安げな顔。不意に湧き上がる抱き締めたい衝動は、心のどこから出ずる物なのだろうか。
 まりえを部屋へと招き入れる。寝室と言っても、小さな応接セットを置く場所があるぐらいの広さで。そのソファーにまりえを座らせる。寒そう、というよりあまりにも心細げだったので、自分のガウンをまりえの肩にかけてやった。その間、まりえはうつむいたままだった。
 壁際の棚から、グラスとブランデーを取り出した。かなり薄めに湯で割って、まりえに差し出した。
「飲むといいよ、暖まる」
 まりえはこくんと頷く。自分のガウンにくるまって、ますます小さく見えて、ますます子供のようだった。
 年頃の女の子の成長は早い、とまりえが時折見せる「女性」に目を瞠っていたが、こうしてみるとまだまだ幼い、そのあどけなさが、おかしいようないとおしいような。
 不意にまりえが、あっと何かに気付いた顔をした。その目線の先に、ベッドサイドの机に開かれたままの厚い本と、散らばった紙、煌々とつく電球。今し方、自分が仕事をしていた場所だ。
「ご、ごめんなさい。おじさまのおしごとのお邪魔をして……」
「いや、僕も寝付けなかったから……何をしていたという訳じゃないんだ」
 慌てて立ち上がろうとするまりえを軽く目顔で制する。多少の嘘を入れて、まるで怯えるように不安な顔を少しでも和ませたくて言った。まりえは少し安心したように
「おじさまも、眠れないの?」
 少しだけ、安堵したように言った。
 一体この子は何がそんなに不安なのだろうか?恐い夢でも見たのだろうか、何か恐ろしい思考に陥ったのだろうか。いや、たぶん漠然と感じる不安。それはなんとなくわかるような気がした。それは自分も通ってきた道だからだ。思春期と呼ばれる時期は、自分にはあまりにも早く過ぎ去ってしまったけれど、そんな不安を抱いて眠れない夜は自分にだってあったのだ。ただ、その時に救いを求める相手がいたかいないかの違いで。
 今、確かにこの子は自分に手を差し伸べて、求めているのだろう。自分でも説明のつかない、不安定な心を抱えて。
 気がつくと、まりえの手の中のグラスが空になっていた。
「おいしかった?」
「……うん」
「今からそれじゃ、先が思いやられるかな?」
 そう言ってちょっと肩をすくめる。まりえが少し笑った。不思議とそれだけで、重かった空気が和む。
 さすがに2杯目は躊躇われたので、代わりに紅茶を入れてやる。
「良く夢をみたよ」
 まりえには何も聞かずに、自分から話をする。たぶん、まりえはそんな他愛のない事を求めている。
 なんでもいいのだ。彼女のを不安をとく物語である必要も、彼女に何か示唆する言葉である必要もない。まりえに向かって何かしゃべってやればいいのだ。彼女の目が自分をじっと見つめていた。
「あれは……なんだったんだろうな。目の前が真っ白になる夢なんだ。寝ている自分はわかっているのに、目の前がなんだか明るくなって。それも尋常な明るさじゃなくて、陰なんて微塵もない白さでね。自分の目を疑うほどの、ね」
「……今でも?」
「いや、今はもう見なくなったけれどね。ただ何度も見たから覚えているよ。だんだん自分がその白さに溶けていってしまうような気分になって、感覚が消えてしまうような不安を覚えて、どうにかして夢から覚めなくちゃと思うんだ、夢の中で」
「……」
「やっと目をあけると、そこは今度は暗闇で。誰もいない何の音もしない暗闇で。だけどそれに不思議と安心するんだ。窓の外をみるとだんだん空が白み始めて。そしてまた不安になるんだ。夢の中と同じようにこのまま真っ白になってしまうんじゃないかとね」
「……」
「じっと息をひそめて夜が明けるのを見ていた。朝日の色がさしてきて、ようやく安心して、眠る事が……」
 気がつくとまりえがすやすやと眠りについていた。年寄りの思い出は退屈だったか、と苦笑する。自分でも何故そんな話をしだしたのかわからない。遠い遠い昔の話。もしかしたら、まりえに聞いて欲しかったのかもしれない。そんな気がした。
「まりえちゃん……?」
 小さな呼吸音が聞こえる。その細い肩が規則正しく上下している。まぶたを伏せうつむいた顔が、亡くなった兄によく似ていた。
「まりえ」
 少し大きく声をかけた。いつもは呼ばない呼び方で。その声が自分でも驚くほど亡くなった兄に似ていた。
 まりえが目覚めないのを確認すると、ガウンごとまりえを抱き上げる。そのまままりえの部屋に運ぼうとしたが、不意にまりえが目覚めてしまうような感じがした。慎重に自分のベッドに運び、ガウンを脱がせて毛布をかけてやる。まるで人形のように素直にそこにおさまる姿が、たまらなくいとおしかった。
 サイドテーブルの電気を消した。
「おやすみ、まりえちゃん」


**************


 目が覚めた時、ちょっとおかしいなと思ったの。
 何となく、いつもとは違う位置に物があるの。窓も、ドアも、ソファーも、カーテンも。毛布の上に重ねてかけられたビロードのガウン、テーブルの上をじっと見つめると空になったグラスと、白いティーカップ。ああ、あれはおじさまのお気に入りの……このガウンはおじさまが着ていたのと……。
 一瞬にして思い出した。できれば思い出したくないと思った。だって、まるで子供みたいじゃない?眠れなくて、おじさまの部屋に……。あ、あんな時間に、あんな格好で。
 どうかしていたとした思えない。慌ててベッドから飛び出た。おじさまの姿は、ない。ただおじさまの匂いだけがはっきりと残っている。……そうだ、このガウンを着せてくれたんだっけ。
 なんだか、急に熱くなってきた。逃げるように自分の部屋に戻って、制服に着がえる。そう、今日は平日なのよ。おじさまだってお仕事なのよ、なのにわたしったら……。
 だけどそんな風に恥ずかしい、思い出したくないと思っているのに、おじさまの一挙一動がまるで再現フィルムの様にわたしの脳裏によみがえる。グラスを持つおじさまの長い指、はらりと一筋おちた前髪、そして食い入るように見つめていたおじさまの、目。
「……」
 ぎゅっと、自分を抱き締めた。わからないけれど、その再生をやめる事ができなかった。
 時計をみる。朝食の時間だ、また慌てて部屋を飛び出した。
 おじさまが帰国して、一緒に暮らすようになった時、おじさまはこんな話をした。
 今まで一緒にいなかった2人が一緒に暮らすんだ、2人ともいままで違う生活があったから、色々不都合もあるだろうし、お互いに何かと不満に思うこともあるかもしれない。だから一つだけルールを決めよう。朝食は必ず一緒に取ろう。どんなに僕が遅く帰ってきても、まりえちゃんの朝が忙しくても、必ず一緒に。喧嘩をしても、何があっても。僕達は、今日から家族なんだから、家族は一緒にご飯をたべるものだから。
 一語一句思い出せる。でも最初はちょっと面倒だな、と思ったの。「大真のおにいさま」は「大真のおじさま」になってなんだか口うるさくなったのかしら、と。
 でも。初めておじさまと一緒の食卓についたとき、おじさまはすごく照れた笑いを浮かべてた。
『なんだか、照れる、かな』
『だって、おじさまが言い出したことでしょう?』
『うん、そうだね。でも僕はずっとひとりでとっていたから』
 それはわたしも同じだった……忙しい両親と一緒に食事をとったことなんて、数えるほどしかなくて。
 そう言って、ちょっと目線をそらしたおじさまが、なんだかとても近くに感じられたの。
 とても、好きだと思ったの……。
 ……。
 階段を降りながら、そんなことを思い出した。ダメダメ、おじさまに「おはようございます」と、どんな顔をして言うのか、それを考えなくちゃいけないのに。消し去りたいくらいの恥ずかしさと同時に、どこかに書きとめておきたいような……ぐるぐると回り始めた思考をまとめるのは、もう最初から諦めていた。
 ……食堂のドアを開けるのは、少し躊躇ったけれど、過ぎてしまったことはしょうがないし。
 食堂に続くテラスで、おじさまは新聞を読んでいた。わたしはまず最初にあやまろうと思っていたの。いつも忙しいおじさまの、大事な時間をわたしが奪ってしまったことには変わりないもの。
「おはよう、まりえちゃん」
 おじさまはいつもと変わらない調子で、先に声をかけてくれた。
「お、おはようございます」
 それで、なんだか気持ちが削がれてしまったの。なんだか、あやまるタイミングを失ってしまったというか。だっておじさまは、本当にいつもと変わらずに、わたしに笑いかけてくれるんだもの。
 おじさまは何も聞かなかった。まるで何事も無かったように。
 わたしはそれにほっとしつつも、ちょっと寂しい気がしたの。あれは、もしかして、わたしの夢?……トーストにバターを塗りながらふっと顔をあげたら、おじさまがちょっと顔を隠しながら盛大なあくびをしていた。わたしが驚いてみつめていると、おじさまはわたしの視線に気付いて、照れたように笑って、そして肩をすくめていたずらっぽくウィンクしたの。そんなおじさまはじめて見た。思わずふきだしそうになるのを懸命にこらえた。おじさまも小さく笑いが止まらないみたいだった。給仕の丸山が不思議そうにわたしたちを見ていた。おじさまが目配せする。2人で持つ、小さな隠し事。
「まりえお嬢様、お迎えのお車が」
 慌てて食事を終える、そしておじさまの座る椅子の脇に立った。
 大丈夫、今夜はきっと、いい夢が見られる。
 そしておじさまにも、いい夢が見られますように。
 祈るように、おじさまの額に軽くキスした。おじさまはちょっとびっくりしたようだったけれど、
「行ってまいります」
「うん、行ってらっしゃい」
 いつもとかわらない挨拶。いつもと変わらない事がうれしい。
 そしていつもと変わった事があるのもうれしい。それはいつも一緒にいるからだ。変わらない事も変わった事も、一緒にいられるから、感じる事ができるのだから。