せめて己が何者なのか、己が今どこにいるのか。
それだけがわかれば、なんとかなる。
まるで指先からすりぬける砂のように、確かなものは何もないこの世界で。
それが、俺にとって生き残る為の術だった。
砂塵の夜は冷える。冴え冴えと星が瞬く中、ひとり歩哨に立っていた。砂塵の果ての、岩盤が塞のようにせりあがる場所で。やがてこの岩も日にさらされ風にさらされ、砂塵の一部になってゆくのだろう。
何と戦っているのか、何を守ろうとしているのか、その答えははじめからここにはない。
ただ今俺はここに歩哨に立っている。それだけで十分だった。
聞きなれぬ音が聞こえて、反射的に身構える。音、ではない声、でもない……うた?
少し離れた岩陰を覗くと、そこからその歌は流れていた。マレーネ。
「……」
マレーネは得体の知れない女だった。
何故この戦場にいるのか、何故この砂塵にいるのか、何のために……その答えもここにはない、いや、その答えは求めてはいけない気がしていた。
隊の男たちの中には彼女を求める者も溺れる者も喰われる者もいた。だが俺は決してマレーネには近づかなかった。わからない事は問い掛けない、わからないなら求めない。いつだって確かなものは自分の存在だけなのだから。ある意味、彼女の存在に畏れてもいた。知識をもった時から、人は「わからない」ことが恐怖となる。
ただ、漠然と、いや直感で彼女に関してわかっていた事がある。
この世界は、彼女なのだ。彼女が、この世界なのだ。
そのマレーネが歌っていた。岩肌に腰掛け歌っていた。低い声が響く。暗闇の洞窟で、いつまでもこだましてゆくような声。それはどこか暖かい。
マレーネは歌いつづけていた。どこの国の言葉ともつかない歌、それは祝福であるのか呪いであるのか、何を歌っているのかもわからない。白い横顔が覗える。それは今まで見てきた得体の知れない女ではなかった。懐かしさすら覚える。
マレーネから見えない位置にそっと腰を下ろした。目を閉じる。暗闇とマレーネの歌声だけの世界になる。低く広く滑らかに、その歌を聞きながらいつしか眠りに落ちていた。
「おい」
鳩尾を蹴り上げられて、目覚めた。
「交代だ」
完全に意識が眠りに落ちていたのだ。交代の兵が近づくのも気付かなかった。
呆けたように立ちあがる俺の足元をその男がなぎ払った。男が笑う。歩哨中に寝ていた俺を、男が責める事は無かった。ただ、軽蔑の眼差しで俺を見下ろした。任務を果たさぬ事は向こうにとっても、俺にとってもどうでもいいことだった。ただこの状況下で眠りを貪る愚かさを軽蔑するのだ。それは己の首を締める行為に等しい。
岩陰を覗くと、そこにもうマレーネはいなかった。それにどこかほっとする自分が、よくわからなかった。
ふと、あの歌声が聞こえたような気がした。
「マレーネ……」
無意識に呟くその名前が、低く広く滑らかに自分の中に響いた。
それから歩哨に立つたびに、そこで歌っているマレーネがいた。偶然か、必然か。
無造作に投げ出された足、その足を組み、膝の上に肘をつく。手のひらの上に載せた尖った顎、きゅっと締まった唇、流れるような鼻筋。睫にかかるブロンドの柔らかな髪。その見事なラインに見惚れる暇を与えない、その表情。それは今までの俺の中のマレーネを覆すものだった。
幼子のようにも見えた。少女のようにも見えた。老女のようでもあった。
そして、
俺はその歌声に抱かれながら眠りに落ちる。
突然の雨。砂塵に降る雨。風もなくただまっすぐに突き刺さる雨。
「マレーネ!」
前線からの帰り。雨に視界をさえぎられ、隊からはぐれた俺はいつもの歩哨の場所に迷い出た。見知った場所に出た事に安堵する暇もなく、けぶる雨の中に見知った姿。マレーネは、やはり歌っていたのだろうか。雨の音で何も聞こえない。
「マレーネ!」
口を開けば、呼吸困難になるほどの雨だ。なんて雨だ。砂塵のベドウィンたちの祈りが届いたのか。異常だ。
俺はマレーネの手強く引いた。そのまま転がるように走り出した。砂が重い。
少し行けば補給庫がある。もっとも間に合わせの小屋だから、この雨で無事かどうかはわからないが。
屋根の下に入ってもなお、激しい雨音。走りこんで、扉を閉めて、息苦しさにその場に倒れる。雨漏りと呼ぶには激しい水滴が、ささくれだった床板を穿っていた。
隣に同じようにマレーネの激しい呼吸音。必死に酸素を求めて喘いでいる。そのマレーネの息遣いに、ひとなみであるのだと場違いな感想を持った。生けるものの実感というか。ともすれば、彼女には命というものが感じられない。
しばらく2人の息遣いと雨音だけだった。
冷えた身体をなんとかしようと、してやろうと辺りを見渡す。昼間の雨であるせいか、外はどこかほのあかるく、手探りをせずとも大抵のものは見えた。カンテラを見つけて、明かりをつける。
振り返ると、乱暴に服を脱いでいるマレーネの姿があった。すでに白い足が無防備に晒され、脱ぎ難そうに濡れた上着から袖を抜こうとしていた。
「マレーネ!」
慌ててそれを制する。マレーネがそれに抵抗するから力づくだ。マレーネは驚いたような目で「何故?」と聞いてくる。冷たいから寒いから、気持ち悪いから脱ぐのに何故?と。不満げに唇すら尖らせて。
諦めてマレーネの上着を脱ぐのに手を貸してやる。ぐっしょりと濡れたそれは随分重い。とめどなく零れる雫が既に足元に水溜りを作っていた。そこにマレーネの踝が映るのが見えた。水溜りが段々ひろがり、踝から上をそこに映していく。なめらかな肢体。濡れたブラウスがマレーネの身体に纏わりついていた。ぴったりと、乳房にはりつくその絹が透けて、その白さよりも白い肌がはっきりとわかる。
マレーネはそれすらも脱ごうとしているのだが、また俺に止められるのではないかとこちらを覗うように見上げていた。「いい?」とその目が許可を求める。まるで子供じゃないか。
黒い瞳、濡れた瞼、髪から落ちる雫が鼻筋を伝い、唇を撫でて、顎先からぽたりと落ちる。それを追うようにマレーネから目を逸らせた。何もかも見ていられなかった。
目線を逸らしたその視界の隅で、マレーネが急に笑った。形の良い唇がきゅっと上がる。まるで悪戯を思いついた子供のよう……だったのはほんの一瞬で、その唇が歪んで、白い歯と舌が覗く。
「……」
マレーネはしなだれかかるように、俺の首筋に腕をかける。いやに甘い薫りのする吐息が鼻先をくすぐる。マレーネの手が俺の軍服の合わせを解く。濡れて解き難いそれを、いとも簡単に解いてゆく。さっきまで、濡れた自分の上着が脱げなくて、不恰好な形で両腕を突き出していたのに。
そのまま肌を重ねてきた。もう濡れた服を脱ごうとはしなかった。むしろその感触を楽しんでいるかのようだった。冷たい絹が、互いの体温でぬるまって行く様を。互いの皮膚が吸い付く。されるがままの俺の下腹部にマレーネの指が伸びる。はっとしたようにマレーネを突き放すよりも早く、マレーネの指が俺を捕える。その顔はもはや子供ではない。ただ、時折まるでそれが単なる好奇心、とでもいうようにくるっと瞳が輝く……のもほんの一瞬で。喉の奥がくくっと笑った。
抗う俺を、マレーネはいとも簡単に征していく。俺はそこから逃れようと懸命だった。これは俺のしらないことだ、しらないことは畏れることだ。そして畏れる分だけ惹かれる。だけどこれは違う。何かが違う。それは俺がマレーネに求めていたものではない。ただ、聞こえるのはマレーネの歌声だけだったはず。
犯してはならない、侵してはならない。禁忌。
だけどこの女はなにもかもしっている、なにもかもわかってやっている。俺を組み敷きながら、その瞳が淀みの中から鈍く光る。ひどくずるい。醜悪さすらある。それは人が生きながらえるうちに積もり積もらせる醜さだ。
それでもなお、俺は抵抗していた。
身体は既にマレーネに委ねられていた。それまで確実に繋がっていた自分の意思と衝動がずれていく、そして乖離。
乖離した衝動は彼女と繋がり、乖離した意思はどこにも繋がらない。たどりつかない苦悩と、たどりついた快楽と。
引き裂かれる。
そして引き裂く。聞こえるのは空を引き裂く雷鳴。
頬におちる濡れた雫は空からからなのか、彼女からなのか、自分からなのか。
その手が俺の濡れた髪を梳いた。そして微笑む。そして犯しつづける。
それから奇妙な天候は続いた。晴れたかと思えば雨。再び太陽が顔を出すと、砂塵はみるみる乾いていく。水を知った砂は、以前よりも渇いている。
どこからともなく狂い始めていた。
いつものように歩哨に立つ。そして聞こえてくる歌声。低く広く滑らかに。しかしそれはもう優しい眠りを招くものではない。
「マレーネ」
声をかけると、マレーネはなにもかもしっている、なにもかもわかっている顔で俺を迎えた。歌いながら両手を差し出す。低く広く滑らかに俺の中に響き渡る。その一瞬が残像のように残り、それをかき消すようにマレーネが身体を開き、誘う。
それでもなお、俺の意思はマレーネを抱く事を拒んでいる。また己がずれていく。引き裂かれる、引き裂いていく。
犯してはならない、侵してはならない。禁忌。
砂塵に飲まれていくように、自分が狂っていくのが手にとるようにわかる。今となっては己が何者なのか己が今どこにいるのかもわからなくなっていた。
濡れた髪を梳くと、指に生暖かい血がついてきた。そこで初めて自分が負傷した事に気付く、自分が今、戦場にいるのだと気付く。その赤い体液を見ながら、俺は叫んだ。唯一わかっていた事も失ったのだ。唯一確かだった己を失ったのだ。それではここはどこなのだ己はだれなのだ。足元から崩れていく、ずぶずぶと砂に埋もれていく恐怖。
気が触れたように砂の中に拳をたたきつける。
わからない、わからないから恐怖だ。
確かに俺は禁忌を犯したのだ。俺の中の幼子でも少女でも老女でも、ましてや女でもないものを侵した罪。
「マレーネ」
無意識に呟くその声は、怨嗟の声であった。まるで地の底を這うような。
そう、
いつものように歩哨に立つ。そして聞こえてくる歌声。俺は無言でマレーネに近づく。
マレーネの乳房が俺の目の前に晒される、俺はその乳首を吸った。マレーネの満足げな吐息が俺を包む。低く広く滑らかに。
マレーネはなにもかもしっている、なにもかもわかっている顔をして俺に抱かれる。だけどここから先はしらない、俺の手が彼女の首を締める事はしらない。
マレーネの白い首に手をかけた時、一瞬見せた「何故?」という瞳はすぐに消えた。
そしてなにもかもしりつくしたかのように、じっとこちらを見据えた。
マレーネの唇がひらく。
漏れたのは抵抗の言葉ではなく、いつもの歌だった。今はそれを聞きたくなかった。ぎりっと手に力をこめる。マレーネの歌声が細くなる。そして消えた。微笑みながら、子守唄を歌いながら、息絶える。
その瞬間、すべてのものが弾けとんだ。何もかも何もない世界に雪が降る。砂塵に降る雪。
わかっていたはずだった。この世界は、彼女なのだ。彼女が、この世界なのだ。
わかっていたはずだった。それもまた罪であるのだと。
ゆっくりと立ち上がる。降る雪は砂に触れると途端に消えて、積もることがない。砂は熱かった。雪は冷たかった。全てが狂った世界で、俺はどうしていいかわからない、迷い子のような気分でそこに立ち尽くす。わかっている事はただひとつ。
俺は還るべき場所を永遠に失ったのだ、還るべき夢を己で葬り去ったのだ。
のろのろと歩き出す、あてどもなく歩き出す。それでもなお、俺は還るべき場所を求めるのだ。失われたとわかっているのに、求めるのだ。いつしか俺の身体が砂塵に朽ちるまで、永遠に。
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