俺の身体の下で、嬌声をあげるマレーネ。感覚だけが支配する身体を惜しげもなく晒すマレーネ。
ただそれだけの為の時間。それだけの為の己の存在意義。
それ以外は、何ひとつ必要なものはない。
触れていない所など無いほどに、慣れ親しんだ身体。
誘われて導かれて教えられて、何もかも知りつくした身体。
なにがいいのかいけないのか、いつならいいのかいけないのか。
それ以外は、何ひとつ知りたいことなど無い。
「マレーネ」
振り返る。少し首を傾げて俺を見る。
指先が、思わせぶりにタイを解き、床にはらりと落す。それを拾おうと屈んだら、マレーネの白い手が視界に入る。やわらかなその手を取り、口付ける。見上げると、マレーネは何とも言えない蠱惑的な笑みを浮かべていた。その手をゆっくりと握りこちらに引き寄せようとする。払いのけるように手を引いた。拒絶ではない。単なる遊び、駆け引きの遊び。
立ち上がって、わざと、わざわざマレーネのタイを結びなおそうとする。それを拒むように、マレーネはこちらの帽子を取り、こちらの服を脱がしにかかる。白い手が首筋を撫で、顎先から喉元についっと指を滑らせる。そして自ら上着のボタンを外し、ブラウスのボタンを外す。はだけた服の隙間から、垣間見える乳房を俺の肌に押しつけてくる。どこか緩慢な動き、どこか冷静な動き。冷たい肌を裏切るかのような、熱いまなざし。
こちらも出来るだけ平静に受け止めようとするのだか、やはり己には勝てずにまどろっこしくマレーネに纏わりついている布をすべて剥いだ。タイだけが辛うじて引っかかっている。
マレーネは勝ち誇ったように低く声を立てて笑った。そうやってマレーネは男の本能を嘲笑うのが好きだ。俺は敢えてそれを否定しない。火が点くのが先か後のだけの話だ。やがて立ち上る甘い吐息、悦びの悲鳴。
マレーネは誰でもいいのだろう。己の渇きを癒す相手であれば。
俺も誰でも構わない。ただ今俺の渇きを癒せるのがマレーネだというだけだ。
こんなに渇くのは、ここが砂塵だからだ。
こんなに渇くのは、ここが戦場だからだ。
こんなに渇くのは、そこにマレーネがいるからだ。
砂が水を吸うように、俺たちは互いを貪りあった。
「マレーネ」
振り返る。開いた唇、濡れた瞳。
それがマレーネの本能を物語る。だけどそれを嘲笑う事は無かった。マレーネが求めるままに、己の求めるままに、ただそれだけのことでしかない。何の前触れも無くマレーネを押し倒す。マレーネは全く抵抗しなかった。白い腕を絡ませて、うっとりと身を委ねる。吸い付くように乳房に掌を這わせると、身を捩って応える。白い白すぎる肌を僅かに染めて。そんなマレーネも俺は知っている。それ以外は何も知りたいことなどない。
まるで傷つけあうように抱き合って、いくばくか満たされて。
そんな日もあるそんな時もある。
ひとしきりの戯れの後、まどろみの中、右手の浮遊感に目を覚ました。
マレーネが俺の右手を取っていた。薄闇の中、窓から入る月の光がマレーネの顔を映す。伏せられたまぶたから小さく睫が震えているように見えた。
マレーネが俺の手首の内側に口づけた。そして歯を立てる。ぎしっと音がして俺の皮膚が裂かれた。不思議と痛みは感じなかった。すうっと舌を這わせる。何かを描くように、腕に赤い線が引かれた。そしてその赤い糸をたどるように、今度は掌に向かって舌を這わせる。
それは何を意味するのだろうか。わからない。知りたいという欲望も元からなく、ただそんな行為を繰り返すマレーネに何か侵しがたい物を感じ、為すがままに任せていた。次第に生まれる快感に委ねたまま。
マレーネは、その度にその行為を繰り返した。まるで何かの儀式のように。
俺は相変らず何も問わず何もせず、ただマレーネの奇妙な儀式に身を任せていた。
マレーネはいつも瞳を伏せたまま、その行為に没頭する。
相変らず震えているように見える睫が、白い頬に月明かりの陰を落して。
ある時、ふと思い出したように、マレーネの右手首の内側に唇を這わせた。傷つけるのはさすがにためらわれたので、何度も執拗に舌を彷徨わせる。薄い皮膚の下の鳴動。マレーネの脈、血の流れを探るように吸い上げる。その鼓動が急に止まったような気がした。はっとマレーネを見やる。
マレーネは泣いていた。伏せた瞼から濡れた睫を震わせて。唇が僅かにわななく。何故か片目からだけ涙をこぼす。なにかに耐えているかのようだった。なにかにうち震えているかのようだった。
動きの止まった俺の前で、ゆっくりとマレーネの瞳が開かれる。濡れた瞳がどこか、どこか遠くを見ていた。唇が何かを呟く。思わず「何?」といらえを返したその瞬間、マレーネの手が俺の顔をしたたかに打ち据えた。尖った爪が頬を裂く。マレーネは冷ややかに俺を見下ろすと、何も無かったかのように、ふいっとそのまま出ていく。
知らなかった部分、触れたことのなかった部分。それが最初で最後だった。それ以上は知ることも触れる事も許されないことだけを知っていた。
「マレーネ」
振り返る。シルクハットの陰から除く目は、明らかに俺を挑発していた。
近づいてシルクハットを取る。その白い顎を取り、上を向かせる。口付ける。マレーネは瞳を閉じる事なく、俺を見据えていた。
そしてそれからいつもと変わらぬ互いを潤すための行為。そして儀式。
俺の手首はいつも血が滲んでいた。治りかけてもマレーネが容赦なく引き裂く。それは彼女を侵した俺への罰であるかのように、あるいはただマレーネの残酷さのように。
なのに癒すように這わせる舌が限りなく優しい。
理由は何も知らない。何もいらない。
戦場に出る前に、己の手首の傷に口付ける。甘い血の味。
まるで儀式のように繰りかえす、僅かに渇きが癒される感覚すら覚えて。
それ以外は、何ひとつ必要なものはない。
なかった。
不意に視界を何かが過ぎった。
敵かと思いその方向を仰ぐと、刺すような太陽の光に一瞬視界を奪われる。太陽を横切る黒い影、鳥だ。なぜかそれが白い鳩だと思った。鳩、こんなところでこんな世界で。
まぶしさに目を閉じる。瞼の裏に見慣れた面影が映っていた。
「マレーネ」
振り返る。
その刹那、首筋を銃弾が貫いた。状況を把握するより先に身体が砂に沈んだ。どくどくと脈打つ鼓動に合わせて血が流れていく。死を思うことは簡単だった。けれども。
……マレーネは俺の為に泣いてくれるのだろうか。
こんなに渇くのは、ここが戦場だからではない。
こんなに渇くのは、ここが砂塵だからではない。
血が流れるよりも早く、身体中の細胞が壊れるように、おそらく一生潤う事なく、やがて砂に帰していく。
欲しい、ただひとつ欲しいものがある。ただひとつの俺の渇きを満たすのは。
まるで気が触れたかのように、己に問い掛け続ける。
赤黒い血が砂にどんどん吸われていった。砂をかき抱くように、投げ出された腕を引き寄せた。唇をその傷に這わす前に事切れた。
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