マレーネ、気まぐれな女マレーネ。
マレーネの声を聞いた事が無い。あるのは鼓膜に引っかき傷のように残る彼女の吐息と鼻から抜けるような喘ぎと甘いため息。それは声ではない。本能から生まれる身体の軋み。
だけど、そんな小さな無数の傷が俺を捕らえて離さない。
マレーネ、つかめない女マレーネ。
彼女は何を考えているのだろうか。長い足を斜めに寄せて、椅子に気だるげに腰掛けている。俺はたまらなくなってマレーネを後ろから抱き締める。するりとマレーネが逃げる。だけど。
形の良い唇の端が少しだけあがった。この時だけはマレーネの考えている事がわかる。だから俺はマレーネの考える通りにマレーネを抱く。いや、それは彼女の意思ではない。彼女の本能彼女の欲望彼女の渇き。
マレーネ、捕まらない女マレーネ。
彼女の渇きは癒せても、俺の渇きは癒されない。
本当に喰えない女マレーネ。何がいいのかいけないのか。彼女を組み敷きながら、突然彼女が拒絶した。宥めるようにそのブロンドの髪に口付けると、今度ははっきり抵抗してきた。こっちにだってこっちの事情があるのだから、そう簡単には引き下がれない。だけどこんな時のマレーネは気まぐれでつかめなくて捕まらなくて。
マレーネの肌はいつも冷たかった。だけど、それに触れている時だけ俺はいきている気がした。
混沌の戦場、過去も未来も、上も下も、右も左も、前も後ろも、何もかもない世界。
マレーネを捕まえている時だけが、真実だった。
そして戦いの一日が終わる。
血と泥と汗に塗れて帰還する兵士たち。誰と戦っているのか何と戦っているのかそんな事はどうでもよくて。今日も生きながらえたという事だけが事実として横たわる。生きながらえなかった奴は事実として忘れられる。 深手を負った。まあ、治らない傷でもない。慣れた手つきで傷口を縛り上げていると、マレーネが通りかかった。マレーネは俺を不思議そうな顔で見ていた。いや実際には今も暖かな血が流れている傷口をだ。ふいにマレーネが近寄った。そしてその傷を指先でつぃっとなぞった。俺が痛みに顔を顰めると、マレーネもまた顔を僅かに顰めた。綺麗な形に眉根が寄った。それは痛がる俺に同情したのではなく、触れた傷口がマレーネの「お気に召さなかった」だけだ。たちこめる血の匂い汗の匂いに、今度ははっきりと嫌悪感を表した。
マレーネ、つかめない女マレーネ。
そして何も興味がないとでも言うように、くるりと背中を向けるマレーネ。俺はその手を引いて引き寄せた、いや押し倒した。 乱れたブロンドの陰から、マレーネが拒否する。だけど構わなかった。気が昂ぶっていた、それは戦いの後特有のそれか、マレーネの態度にか、あるいは血の匂いにか。
マレーネの顔にさっと怯えが走った。おそらくは初めて見る顔。いつだってマレーネは余裕の表情で見下した表情で。マレーネの本能が俺の本能が止められない事を悟ったのだろう。そしてマレーネの本能が更に俺を煽る。
マレーネの肌は冷たかった。それすら腹立たしくて俺は叩きつけるようにマレーネを抱いた。
はじめてきく彼女の叫び声。
血の匂い、汗の匂い、泥の匂い。
諦めたようにマレーネの抵抗がやんだ。そしてマレーネの白い腕が俺の首に絡みつく。
赤い唇が笑っている。
マレーネの肌は熱かった。こちらを焼き尽くすかのように熱かった。まるで戦場。マレーネの身体の重みが蜃気楼のようにまとわりつく、そして溺れる。
マレーネ、気まぐれな女マレーネ。
頼れるものなど何もない、縋れるものなど何もない。自分が立っているのは果たして天か地か。否、そこには砂があるだけだ。砂塵、流れる砂、とどまる砂、溢れる砂。
そんな時はたまらなく不安になる。忘れていた過去の優しい暖かい思い出に縋ろうとしても、思い出すことは何もなくて、未来に希望の光を見出そうとしても、それは決して見つからなくて。
砂、砂塵、月、月夜。
気がつくと、そこにマレーネがいた。マレーネの手が俺の頬に伸びる。そこで初めて自分が泣いていた事に気付く。マレーネは、やはり不思議そうに俺を見つめていた。黒目がちの瞳が俺を見つめていた。俺は無意識のうちにそこに何かを見出そうとしていた。過去か未来かわからない。
マレーネが俺の手を引く。そのまま後ろにあった椅子に座るマレーネ。俺はマレーネの前に膝まづき、促されるままにマレーネの胸に顔をうずめた。
これはなんだ?
マレーネの白い長い指が俺の髪を何度もすく。
これはなんだ?これはなんの気まぐれだ?
マレーネの白い乳房に軽く歯を立てると、ふるると肌を震わせた。
これはなんだ?これは……。
見上げるとマレーネが微笑んだ。笑ったのではない、ゆっくりと微笑んだ。
これは……。
考える事も出来ずに俺はマレーネの乳房を食んだ。
これは本能か欲望か思い出か希望か。
マレーネの肌は暖かった。ただ暖かかった。
マレーネ、俺のマレーネ。
目覚めた時はぬくもりの中。だけどそこにマレーネはいなかった。
マレーネは砂塵の中にいた。そこに立っていた。いつものように何もなかったように何にも縛られないように。俺が近づいても、何の反応も見せない。いつものようにいつもどおり。
昨夜のマレーネは別人だと思った瞬間
「あ。」
マレーネが小さく声をあげた。その視線の先には鳩。空に羽ばたく一羽の白い鳩。
それが、初めて聞いたマレーネの声だった。まるで無垢、まるで単純、まるで清楚。
振り返ると、マレーネはもういなかった。白い鳩もいつの間にか見えなくなった。
ただ、マレーネの声だけが、繰り返し繰り返し俺のなかにこだまする。
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