獣(吉岡清十郎)


 いつの頃からか俺には俺をじっとみつめている獣が見える。
 何故そこにそれがいるのかわからない。ただ俺をじっとみつめている。
 時々低く唸る、そして吠える、そして暴れる。
 ただ一つわかっている事は、その獣が唸れば唸るほど、俺は静かになっていく。その獣が吠えれば吠えるほど、俺はひどく冷めていく。その獣が暴れれば暴れるほど、俺は深く深くどこかへ落ちてゆく。


 その獣は、決まって俺が戦う時に暴れだす。見苦しいほどに狂おしいおどに。
 うるさいな、静かにしていろ。
 そう思う時には、もう俺の前には誰かが倒れていた。誰かではない、今まさに自分が対峙していた誰かだ。
 また、俺はどこかに落ちていた。深く深く何もないところに。
 その獣が暴れれば暴れるほど、俺は強くなっていった。
 その獣がいるから、俺は常に勝ち続けている。
 それだけは、わかっていた、いや知っていた。
 その獣が何であるのかわからない、ただその獣は今も俺をじっとみつめている。その目に映るものは俺なのか、俺なのか。


 腕の中のアンナが、もどかしそうに身体を動かす。後ろから抱きしめたままの俺は、殊更何をする訳でもなく、その柔肌のぬくもりを逃さぬように、抱きしめていた。アンナの手が伸びて、豪奢な造りの簪を抜いた。アンナの色の薄い豊かな髪が俺の鼻先をかすめて広がる。その髪に顔を埋めるように匂いをかぐ。アンナがもどかしそうに声をあげた。
 その声に呼応するように、獣が高く高く吠えた。
 腕の中のアンナがもどかしそうに俺を求める。獣が激しく暴れだした。
 俺は深く深くおちてゆく、ひとりで静かに落ちてゆく。
 アンナが乱れる、獣が狂う、そして俺はひとりしずかに落ちてゆく。


 あきらめたように眠ってしまったアンナを起こさぬように、その頭の下から自分の腕をそっと抜いた。
 まるで子供のように眠るアンナが何故か哀しくて、その額に唇を寄せた。
 寒さを感じて、傍らに脱ぎ捨てられた着物を羽織る。豪奢な模様が薄暗闇にもわかる。アンナの着物だ。
 這うようにして、壁際に寄りかかる。傍らの盆を引き寄せ、残っていた冷酒をあおる。
 また、俺はどこかに落ちていた。深く深く何もないところに。そこには俺しかいない。アンナはいない、アンナは来ることができない、アンナを連れてゆけない。
 また、いつものようにあの獣が俺をみつめていた。
 低く唸った。
「鳴いているのか?」
 また、いつものようにあの獣が俺をみつめていた。
「……泣いているのか?」
 獣は何も言わない。獣だから何も言わない。
 冷酒をまたあおった、どこか苦い。
 獣はそんな俺をじっとみつめているだけだった。



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自ら獣である事を知りながら、その運命から逃げようとした男、小次郎。
自ら獣である事を知っていたが故に、強さを手に入れていた男、武蔵。
そして自らの中の獣を飼いならしていたが故に、強さを手に入れていた男、清十郎。

っていうのはどうですかね?(聞くな)(つうか吉岡清十郎はそんなに比重の高い役じゃないから)(ズバー)。
この話の下敷きには吉岡先生不能説というのがあるのですが(えー?)。でも言い出したのは私じゃありません(責任転嫁)(誰にだよ)。