◇4


[1]

 まさか誰もいないと思っていたから、人影を見たときにはひどく驚いた。その人物が誰だかわかるともっと驚き、そしてその人が何をしているのかがわかった時、さらにさらに驚いた。
 泣いている。ケペルがラダメスの墓の前で泣いている。
 慌ててタラータは物陰に隠れた。
 月は、雲に隠れたままだった。
 こんな時は、気づかぬふりをするものなのか、見なかったことにするべきなのか、あるいは……。タラータは出て行くにも出て行けず、さりとて目的を果たすまでは帰る訳にもいかず、そのまま息をひそめたまま、ケペルの様子を見守っていた。
 ケペルが何故ここにいるのかは愚問で、また何故泣いているのかも愚問だった。アムネリス付きの女官として、彼の、いや彼らの事は知っていたからだ。だからケペルがここにいても驚くことはない、とタラータは思った。
 と同時にやはりそれは疑問であり驚くべきことだった。裏切者−−裏切者として処刑された男の墓で泣いている事が許されるのだろうか、そしてその事をわかっているはずなのに、彼は何故泣いているのか。それ以前に、男性がここまで泣くのを見たことがないタラータにとっては、彼の立場も何もかも乗り越えて、それが不思議でならなかった。
 それにしても、さすがに声は抑えているものの、全身を震わせんばかりに嘆くケペル。その嘆きは終わりを知らないかのように、いつまでもいつまで泣きつづけていた。……いっそ病的といってもおかしくない。驚きから落ち着いてくるにつれ、その行動はどうしても理解しがたくなっていた。わからないでもない、わかるのだ。けれどもこんなところであられもなく泣きつづけていて、誰かに見つかったらどうするのだろう、それを咎められたらどうするのだろう。いや、そもそも彼の倫理的に、彼の名誉としてはどうなのだろうか……。あてどもなく考えるタラータ。一言で言えば「なにもそこまで泣かなくても」、だ。  ケペルはまだ泣いていた。
 けれども彼の嘆きの声が何故か心に染みてくる。まるで音楽のように、低く、時に高く、不調和音のようであり、調律された音色のようであり。それはひとつの物語のようでもあった。言葉はないのに、彼がいかにあの将軍を思っていたのかが伝わってくる。失ってしまった事実、失うに至った事実、そして想いという名の真実。哀しさといとおしさがタラータの耳を通って、そして全身に満ちてゆく……。
 いつしかケペルの嘆きに聞き入るタラータ。こんな風に嘆く男を知らない。けれどもずっと前から知っているような気もした。
 ふいに嘆きがやんだ。そしてタラータの隠れていた物陰にケペルが近づいてきた。ようやく帰るのか、と思ったらケペルははっきりとタラータの存在を認め、そしてその前に立った。逃げる間も焦る間もなかった。
「……」
 気づいていたのか、気づかれていたのか、いつから?
 気まずいと思った。本当は見てはいけないもの、見られたくはないと思っているだろうものを見ていたのだ。いや聞いていたのだ。それが好奇から来るものではなくても、非礼と言えば非礼。
 何を言っていいかわからないタラータに、ケペルがそっと小さな布切れを差し出した。理解が出来ずにいると、ケペルが失礼、と言い、タラータの頬を知らず知らずに伝わっていた涙をそっと拭った。
「貴女が、泣いておられたので」
 いや、泣いていたのはケペルだったではないか。
 掠れた声は、確かに先ほどまで泣いていたものだったのに、言葉はどこか落ち着いていた。暗闇にもわかるほど、その頬には涙の筋と、腫れぼったいようなまぶた、確かに泣いていたひとなのに。その泣いていた人に「泣いているから」と慰められる。タラータはただその顔を見上げるばかりだった。
 ようやく口をついた言葉が
「気づいてておられたのですか?」
「はい」
 ならば何故、ケペルは泣きつづけていたのだろうか。普通はそこで泣き止むのではないか、泣いている自分を見られないように。普通はそこでこの場を去るのではないか、泣いている自分を見られないように。まさか泣いている姿を見せようとしていたのか、それともタラータをいなかったことにしたかったからか。
「……貴女の気配がしたので」
「わたくしの?」
 訝しげに見ると、ケペルはああ、と説明をし始めた。
「私が毎晩ここに来ると、決まって誰かが置いていった花がありました。そしてそこに残った気配がいつも同じでした。それと、同じだったので」
 確かにタラータは毎晩ここに来て、そしてそっと花を供えて帰ってゆくのだ。それを気配で悟るとは、それはケペルの武人としての才覚なのだろう。でもやはり答えにはなっていない。タラータに気づいていながら何故……。
「毎晩?」
「ええ?」
「エジプトの将軍が、裏切者の墓場へ毎晩?」
 自分の行動は棚にあげて、そう言った。
「……そうですね、世間から見ればおかしな事ですが、私からすればおかしなことではありませんので」
 そう、堂々と言われてはこちらも声が出ない。
 わかっていてやっていたのか、それもよくわからなくなってきた。
「貴女は?アムネリス様のお言いつけですか?」
 タラータはすぐに首を振った。裏切者の死を嘆くという「世間から見ればおかしな事」を、不名誉なこと、そんなほんの疑惑ですら、アムネリスの上に置けないというように激しく首を振った。
 それに、それは事実ではない。タラータは、誰に言われるまでもなく、自分の意思でここに来ている。
「わたくしが勝手にしている事です」
 今、エジプトのファラオとして君臨するアムネリスが、胸の奥に何重にも鍵をかけてしまっている想い。アムネリス付きの女官であるタラータには、それがどうしても悲しくて仕方がなかったのだ。それは誰も知らない、知られてはいけない、存在してはいけない想い。けれどもそれがタラータには、いや自分達にはわかるのだ。すべては終わったことだ。それでもタラータはその悲しい王女の為に、今はなきかつての『王女』の代わりに、何かをしたかった。例え、それで自分自身が「裏切者の死を嘆く」とされ「世間から見ればおかしなこと」と言われようと、それを責められようとも……。
「そうですか」
 その想いをタラータは説明しなかったが、ケペルにはわかったのかもしれない。共に「世間から見ればおかしな事」をしているものとして。
 沈黙。でもそれは決して窮屈なものではなく、むしろ暖かいものだった。
「流し尽くせば、涙は涸れるのだと思っていました」
 突然、ケペルが言った。
「けれども、沸きつづけるものなのだと知りました」
 ケペルが続ける。
「今夜こそ、最後にしようと思いながら、毎晩同じ事のくりかえしです」
 淡々と言葉を続けるケペル。それに対して自分がどう思われるかは問わずに、それが世間から見てどう思われるかも問わずに、ただそれが自分には「おかしなことではないから」と言いきるケペル。わかっているのだ、それがいかに「おかしなこと」で「ゆるされないこと」なのか。それでも、彼は涙をこうして流していた。
 なんて、なんて強さなのだろうか……。
「すみません」
「え?」
「花。萎れてしまいましたね」
 タラータが持っていた花を指差した。
 私を待っていてくれたせいでしょうか?とそこで初めてケペルは笑った。そんな風に冗談のように、柔らかく笑った。こんな風に笑う男を知らない、けれどもずっと前から知っているような気もした。
 タラータも笑った。
「ご安心を。ケペル様」
 タラータはラダメスの墓の上にそれを備えた。その時、風がふいて、雲を飛ばして、月が顔を見せた。その月明かりにゆっくりとゆっくりと花はまた開いていった。その薄い花弁を広げていった。
「こういう花なのです」
「驚きました。根を切られてもまだ」
「生きているのです」
「生きているのですね」
 ケペルの指がその花弁に触れた。
 ケペルの目に涙が光っていた。タラータの目にも涙が浮かんでいた。
 尽きない涙。そして決して尽きることない想い、そして命。




[2]

「もう帰っちゃうの?」
 そう言い縋る女を適当にあしらって店を後にした。
 女を抱いても少しも気が晴れない。
「くそっ!」
 いまいましく地面を蹴りつけるメレルカ。そもそも気が晴れるような事を求めていた自分にも腹が立っていた。そしてその理由にも、その理由を認めようとしない自分にも腹が立つメレルカだった。
 帰る気にも更に酒を煽る気にもなれず、ただメレルカは歩きつづけた。
 何故だ。
 その言葉が喉に出かかって、それを押しとどめた。その言葉の先がどこにたどり着くのか、自分でもわからなかったからだ。
 ”裏切ったのは”
 ”死んでしまったのは”
 そのどれもが、あるいはそれ以外のものが、意味のないことだとわかっていたからだ。もはや過去の事だとわかっていたからだ。
 気が付けば、随分と歩いていた。ふと気付けば、そこはメレルカが、イトネーンと出会った場所だった。あの奇妙な出会い。エジプト兵の格好をした、あの奇妙な女が……そこにいた。
「……」
 もはや遠目にもわかる、兵士の格好をしていてもそれがイトネーンであることは、もうわかりきっているぐらいわかっていた。わからないのは、何故そこに彼女がいるのか。
 あの日と同じように兵士の格好で、イトネーンはそこにいた。そして泣いていた。
 近づく足音にイトネーンが気付いた。メレルカに気付いても、イトネーンは何も言わなかった。
「何をされているのですか?こんな時間に、そんな格好で」
「泣いているのです、メレルカ様」
「何故?」
 突然の再会に驚きつつ、泣いているイトネーンにメレルカはそっと手を差し出しその涙を拭おうとした、そうしたら、イトネーンはするりと身をかわした。何故。
「よいのです、泣いている意味があるから泣いているのですから、泣きたくて泣いているのですから」
 そしてまたイトネーンは涙をぽろぽろ流し始めた。苦しそうに嗚咽を詰まらせる。思わずメレルカはイトネーンを抱きしめようとした。しかし彼女はまたしてもするりとそれを避けた。
「何故?」
 もう一度メレルカは問い掛けた。するとイトネーンは
「何故?では何故メレルカ様は泣かれないのですか?」
「え?」
「わたくしの言っていること、おわかりになりますか?」
 さっぱりわからない。そんな顔をしていたら、イトネーンにそう強く問いただされた。メレルカは首を振った。
「では、もうお帰りくださいませ。わたくしにお構いなく」
「何を言っておられるのですか!こんなところで、貴女ひとりを」
「宮殿への帰り道もわかっています。そもそも今日はここに迷い込んだのではありません。自分の意思で来たのです」
「わかりません、何故ですか?何故泣かれているのですか?」
「メレルカ様は、そうやっていつもわたくしに聞くばかりですのね」
「いや、はぐらかさないでください!」
「メレルカ様」
 イトネーンは少し呆れた顔をして、そして諦めた顔をした。そして仕方なく、というように話始めた。
「……アムネリス様の代わりに、泣いているのです」
「は?」
「アムネリス様は、もはやファラオとなられました。そしてあの方は裏切者となってしまいました。ファラオが裏切者の死を嘆く事は許されないことなのですから」
 そしてまたイトネーンは大粒の涙をこぼした。ぱたりとそれが地面に落ちる。
「そんなアムネリス様が、哀しいのです。ですからわたくしは、こうしているのです」
「でもこんなところで……」
「わたくしには、泣ける場所がここしか思いつかなかったので。まさかこの衣装が、人目を忍ぶ為にまた役に立つ時がくるとは思ってもいませんでしたけれど……」
「……イトネーン殿」
「あの方は、泣けないのです。ファラオであるから泣けないのです。ですからわたくしが泣くのです。なのにどうしてメレルカ様は泣かれないのですか?」
 もう一度、問われた。
「ファラオでないのに。どうして泣かれないのですか?泣けるのに、どうして泣かれないのですか?」
 イトネーンは抗議するように、メレルカの胸を叩いた。何度も何度も。
「泣けるくせに」
 メレルカは黙ってその抗議を受けていた。またしても見透かされて、そして突きつけられる自分の想いに、成す術もなく立ち尽くしていた。
 いや、見透かされたのではない。隠していた想いを引きずりだされたのだ。もはやそれは過去の事にすぎないと、自分の中で整理はついていた事だ。
 あいつは何故死んだのか、それはあいつが裏切ったからだ。
 それだけの事実だ。
 「死ぬとは何か」それは全てが無くなること。だからラダメスもなにもかも全てなくなった。なのに……自分の想いはなくなってはいなかったのだ。エチオピア侵攻を前にすべて捨てたはずの想いは、すべて残っていただけなのだ。メレルカはそれを認めたくなかった。それを認めると、すべてが崩れてしまうからだ。自分がこれまで信じて、すがってきた「それだけの事実」が覆されては、もはや自分は進めないからだ。もはや自分は戦えないからだ。
「泣きたいのでしょう?」
 イトネーンの言う通り、泣けばよいのだろうか。
 けれどもメレルカは泣けなかった。ただ、じっと自分の中に再びよみがえった想い、それが小さく軋む音に耳を傾けているだけだった。
 イトネーンがまた泣いてた。メレルカは、言った。
「……泣かないでください」
 それしか言えなかった。
「泣きたくて泣いているのではありません」
「え?」
「メレルカ様の代わりに泣いているのです」
「イトネーン殿……」
「仕方なく泣いているのです、貴方様が、仕方ないぐらい哀しいから」
 そうだ、自分は確かに哀しいのだ。本当はその感情にすべてが支配されるほどに。けれども一度手放したその感情は、手に戻した今でも、自分のものはないかのようだ。それがまた哀しいのだと思った。
 メレルカはイトネーンを抱きしめた。今度は、かわされなかった。けれども抱きしめられて、イトネーンはいやいやと拒絶しようとした。
「泣かないでください、私の為に」
「貴方様の為にではありません、仕方なく……」
「……では、泣いてください」
「……」
「私は、何もできません。ですから、貴女が泣かれる場所をご用意します」
「……」
「ここで泣いてください」
「……ここで?」
「それしか、できないのです」
 メレルカはイトネーンを強く抱きしめた。何もできない代わりに。
 イトネーンは泣いていた。アムネリスの代わりに、メレルカの代わりに。
 そして誰の代わりでも、誰の為にでも、自分の為にでも泣くことができなくなってしまったメレルカがじっとその涙を受け止めつづけた。


++++++++++++++++++++++++
 ケペタラ+メレイト。ラダメスの死をめぐるそれぞれ。
 まあダブルデートみたいなものです(違うよ!)
 あえて並べて提出します。本当はもっと短くまとめるつもりだったんですが、つうか当初の予定にはまったくなかった話なんですが(駄々漏れ)(緊急拡張工事)。

 どうしてタラータ(ひかちゃん)なの?と思ったそこのアナタ、「今すぐここから立ち去るがいい!」(笑)。
 誰かの為に、誰かの代わりに泣くイトネーンさん。だから伝令3の死にも過剰に反応して泣くことが出来るのですよ(繋がった!)(えー?)。


(2005.02.26)
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