紙飛行機

 

 わたしの中でそれは確かな予感となって現れて、間違いないと思ったから。
 だから覚悟を決めていた。だけど、その覚悟を越える想いがいまなお溢れ続けている。


 その日の涼さんはちょっといつもと違った、ような気がした。
 繋いだ手が、熱かった。いつもはすごく冷たいのに。ひんやりと、しっとりしているのに。
 涼さんの顔色を伺うと、いつもと全く変わらないのだけれど。わたしがあんまり真剣にみつめていたから、涼さんが「なに?」とわたしと目を合わせた。わたしはとっさにうつむいてしまった。
 夕食の後、少し歩きましょうかと、車を置いたまま近くの海の見える公園まで歩いた。隣を歩くとき、自然と指を絡めるようになったのはいつからだっただろうか、どちらからともなく。涼さんはわたしが喋りつづけるのを、ただ黙って聞いていた。やがて汐の匂いがして、デッキと海が見えてきた。暗くて何も見えないけれど、何かを見るように手すりまで乗り出してみた。
「ヤツカ」
「はい?」
 海からの風に髪が煽られる、涼さんの前髪が乱れていたから、わたしが直そうとすると、涼さんがその手を掴んだ。
「ヤツカ」
「……はい?」
「大事な話を、したいのですが」
 涼さんが真剣だった。何?、という前に何を言われるのだろうかとちょっと怖くなった。わたしが緊張したのがわかったのか、涼さんは、そんなに緊張しないでくださいと笑ってくれた。
「実は転勤が決まりまして」
「え?」
「海外なんですが、向こうの支社に」
「あ……」
「多分、しばらくしたらその支社を任せられるんだと思います」
「あ……」
 こういう場合、栄転という事で、おめでとうございますと言えばいいのか。ずっと努力を重ねてきた涼さんが、ようやく力を認められたのだ。次期社長として、もうひとつ上のステップにあがれるのだ。だからおめでとうだとは思うのだけれど、それよりもいきなりつきつけられた「別れ」に、動揺しないでいるのが精一杯だった。その反面「ああ、こうやって終わる場合もあるんだ」と、それまで自分がしていた「覚悟」と照らし合わせるような、変な冷静さも残っていて。
 泣くんじゃない、ヤツカ。
 それでも、すごい凹む。そんな言葉で笑い飛ばしたいぐらいに、わたしは凹んだ。
「ヤツカ?」
 うつむいてしまった。本当は何があっても、ちゃんと涼さんの目を見ていたいと思っていたのに。
「ヤツカ、ちゃんと見て」
 ほら、怒られた。
 わたしが顔をあげると、涼さんの顔が正面にあった。
 わたしの手を握る涼さんの手が、熱い。
「ヤツカ、結婚してください」
 とてもとても真摯な眼差しだった、そして真摯な言葉だった。今までで、一番飾らない言葉だったかもしれない。涼さんの唇から出てくる言葉は「別れ」だと思っていたからもうびっくりで。
 いや、驚くより嬉しかった。
 とっさにわたしの身体は、喜びに満ち溢れてしまった。頭で考えるより先に、身体が反応してしまった。
 ぱっとわたしの顔が明るくなったのが映ったように、涼さんの真面目な顔が綻ぶ。そしてポケットから無造作に指輪を取り出した。小さな、かわいい石のついた「エンゲージリング」。涼さんは喜びを隠さないわたしを、そのまま返事として受け取ったのだろう。涼さんがわたしの指に指輪を嵌めようとしたその時に、ようやくわたしは「はっ」と気づいて、ぎゅっと手を握ってしまった。
 当然、指輪は嵌められない。
「ヤツカ?」
 なんてことだ、あんなに覚悟していたのに。いざとなったらそんなのすっとんで喜びが先に来てしまった。
 だけど、わたしはもう決めていた、覚悟していたのだ。それが今だった。
 わたしは涼さんとは一緒になれない。
「ヤツカ?」
「ごめんなさい、わたし」
「……ヤツカ?」
「ごめんなさい、お受けすることはできません」
「ヤツカ!」
 涼さんが驚く。それはそうかもしれない、さっきまであんなに喜んでいたわたしだ。……だって嬉しかったんだもの。それでもわたしは自分の意思を変えなかった。
「……どうして……」
 涼さんが呆然としている。わたしは、そう、わたしはどうやって説明しようかと思っていたんだっけ……いや、そんな覚悟も準備も、結局吹き飛んでしまったのだ。それでもわたしは自分の意志を変えなかった。
「ヤツカ」
 またうつむいてしまったわたしの上から困惑の声。
「……僕の事が、嫌いになったんですか?」
「バカなこと言わないでください!」
 思わず怒鳴った。
 だって、バカな事だと思ったんだもの。わたしが涼さんを嫌いだなんて、そんな……
 わたしの怒鳴り声に、涼さんは面食らった顔をしていた。だけどわたしの気持ちを確認できたことに、ほっとしたようにゆっくり息を吐いて。
「ヤツカ」
 繰り返し呼びかけられるわたしの名前。
「僕は、そんなに鈍い男でも、世間知らずの男でもないつもりです。ヤツカから見ればいたらないことばかりかもしれないけれど……僕は僕なりに、ヤツカと、僕の違いをわかっているつもりです。そしてそれにヤツカが困惑していたことも、ためらっていた事も、わかっていたつもりです」
 気づいていた、いや、途中で気づいたと言うべきか。
 最初はそういう「違う世界のひと」特有のずれで、わたしがその「違い」に困惑し、とまどっているかなんて、気づいていないと思っていた。だけど涼さんはあえてその「違い」を隠さずに、晒してきてくれたのだ。わたしが涼さんと付き合っていたのは、ほんの数年だけど、涼さんはそれ以上の長い時間、生まれてから今まで、多かれ少なかれ自分の「違い」を感じてきただろう。気づいていないはずはなかったのだ。
 わたしは涼さんとの「違い」で最初の頃は随分思い悩んだりしたけれど、涼さんは「違い」をわかった上で、わたしに接してくれたのだ。最初から、素直にまっすぐに。
 だからわたしも、自分に素直にまっすぐに、向き合う勇気を涼さんからもらったのだ。
「だけど、それでも僕はヤツカと一緒になりたいんです」
 涼さんの何の飾りもない言葉が嬉しい、でも哀しい。
「僕にはヤツカの困惑もためらいも、ちゃんと受け止める覚悟は出来ています。ちゃんとヤツカを、ヤツカを脅かす全てから守りたいと思っています」
 涼さんが、しきりに「結婚に迷うわたしの戸惑い」を解こうとしてくれている。
 だけど、ごめんなさい。
 涼さんが素直にまっすぐわたしに向かってきてくれるように、わたしも素直にまっすぐに自分に向き合ったら、この結果が出たんです。
 一緒に幸せになることはできない。
 それをうまく説明できないわたしは、ただ涼さんの言葉に首をふるだけだった。
 随分長いこと、色々な言葉が交わされた。いや、喋っていたのは涼さんだけだったかもしれない。涼さんはわたしを説得しようと喋っていた。わたしは涼さんを納得させようと喋る言葉を選びあぐねていた。多分、この世で一番説得力のない話をわたしはしているのだろう。いっそ嘘でも「嫌い」と言ってしまえば、涼さんは納得してくれるのかもしれない。でもそれは言えない、そんな嘘はつけない。
 しばらくの沈黙。涼さんがため息をついた。
「ヤツカ、この話はまた後にしましょう。きっと僕もヤツカも疲れているから」
 確かに、互いに神経は妙にうわずっているのかもしれない。
 涼さんがちらりと時計を見た。帰りましょう、と。
「でも僕はこれっぽっちも、納得してませんからね」
 捨て台詞のように吐き出したその声が、子供のようで、なんだかすごく切なくて。
 泣くんじゃないヤツカ。
 これは、自分で決めたことだから。
 涼さんがいてくれたから、決められたことなのだから。


 それからわたしたちは会うたびに、その話をした。話す内容は繰り返し同じ事。時には喧嘩みたいになることもあった。だけど、そんな言い争いの中でも、わたしたちは互いを想い合っていることを確認せずにはいられなかった。
 涼さんがわたしをなだめすかすように抱きしめた。
 わたしが涼さんをあやすように抱きしめた。
「どうして?」
 何度も何度も涼さんが言った。それにわたしは、その度に何を答えたのだろうか?
 言葉はもはや、意味をなさないような気がしていた。ただ自分の「覚悟」が確かであることだけを支えに、自分を曲げることはしなかっ……いや、この期に及んでわたしはまた揺れたのだ。
 涼さんの言う通り、わたしたちには共に生きる道があるのではないか、と。
 もしかしたら、見落としているだけで、ほんとうは二人で歩ける道があるのではないかと。
 例えば涼さんの家の問題とか、お互いのいわゆる「格」の違いだとか、そういう事は、最初からわたしは問題にはしていなかった。いや、そんな目先の問題にとらわれずに真実だけを見つめたいと思っていたから。それに涼さんが言葉の通り「守ってくれる」と信じられたし、涼さんとなら乗り越えていけると思っていた。ならば、何故?わたしは涼さんと一緒に生きていけないと思ったのか。


 涼さんは繰り返し繰り返し、わたしを説得しようとした。わたしはそれをすべて受け止めて、そして首を縦には振らなかった。その度に涼さんは哀しそうな顔でわたしを見る。
 そんな顔をしないでください。
 そんな涼さんに心がつまる。そんな涼さんの為に、わたしはもう覚悟も何もなく飛び込んでしまえと思うことも度々で。
 その反面、涼さんはもう本当はわかっているのではないかという気がしていた。
 もしかしたら、わたしが覚悟を決めるよりも早く、わたし達に一緒に歩く道はないのだと気づいていたのではないのだろうか。多分、涼さんにはわかっていたはずだ。こうなることを。
 こうして過ごしている時間は、涼さんが納得するための時間なのかもしれない。
 そして、こうして過ごしている時間ですら、わたしにはかけがえのない、いとおしいひととき。
 ふと、涼さんが言った。
「もし僕が、涼の家を捨てたなら?」
 泣きそうになった。そこまで言ってくれる涼さんの気持ちを思って泣きそうになった。
 泣くんじゃない、ヤツカ。
「そんな事、言わないでください」
 そんな風に自分を否定しないでください。
 だって涼さんは、そこにいたから『涼さん』なんですよ?
 わたしはそんな『涼さん』だから好きになったんですよ?
 そんな涼さんの世界をわたしは理解しているつもりだった。それすらも涼さんの一部だから、わたしにはいとおしいものだったかもしれない。だけどそこにわたしはいない、いるべきではない。
 わたしの居場所は涼さんの隣にあるのだけれど、涼さんの世界でわたしは自分らしく生きていけない。
 涼さんの居場所はわたしの隣にあるのだけれど、わたしの世界で涼さんは自分らしく生きていけない。
 そういうことなんだ。
 あきらめではない、自分を卑下しているのでもない。運命という言葉で片付けるつもりはないけれど、きっとそういうことなんだ。
 だからいつかはこんな日が来るのだと「覚悟」していた。
 別れなくてはならないと「覚悟」していた。
 これは、わたしが涼さんにしてあげられる、最後のことだ。わたしにできる最後のことだ。


「でも僕は、ヤツカを残してなんか行けません」
「わたしなら、大丈夫です」
「大丈夫じゃないでしょう?少なくとも、僕は心配で『大丈夫』なんかじゃいられません」
 確かに、涼さんがいなくなる夢をみて、あんなに壊れたわたしだから「大丈夫」ではないのかもしれない。だけど、わたしには確信があった。
「涼さん、この間の新聞社の写真コンクール、覚えています?」
 涼さんは何をいきなり?という顔したが、頷いた。
 少し前に、某新聞社の写真コンクールに応募した。かなり規模の大きかったコンクールだったから、力試しのつもりで応募した。賞など期待していなかったけれど、運良く佳作に選ばれて、すこしばかりの賞金をもらった。わたしはそのお金で涼さんにモデル代と称して、涼さんにご馳走した。めったに、というかわたしから涼さんにご馳走するのは初めてだから、なんだか嬉しくて。涼さんも慣れないと言いつつまんざらじゃないようで、そんな役割交代を楽しんだ。というところで話は終わっていたのだが
「あのコンクール、上位入賞者の副賞でNY留学の権利があったのを覚えていますか?」
「ええ」
「あのお話をいただいたんです」
「え?」
「一部の審査員の方から、推薦いただいて」
「行くんですか?」
「はい、二度とないチャンスだと思うので」
 そういう事ってあるのだと思った。これは巡り合わせだと思った。
 涼さんはため息をついた。
「それがあるから、僕と別れたいんですか?」
 わたしは首を振った。
「お話があったのは、今週に入ってからなんです」
「……そうですか」
 仮にこのタイミングじゃ無かったら、わたしは行かなかったかもしれない。わたしだって「涼さんを残してなんか行けない」からだ。涼さんもそれはわかっていたのか、敢えて言わなかった。
「わたしも新しい道を歩いていきます、だから」
「……その道は同じではなかったという事ですね」
「……はい」
 涼さんは、じっとうつむいていた。何かを考えていた。
 「残されるヤツカが心配」という論理で、涼さんは最後の説得を試みようとしていたのだろう。けれど
「……もう、僕には何も言う事がありません」
 その言葉と、出国までの時間に押されるように、涼さんは「納得」してくれたのだ。


 明日は涼さんが出発するというその夜、わたしは泣いた、ひとりで泣いた。
 どうして泣くの、泣くんじゃない、ヤツカ。
 だけど涙は止まらなかった。
 これは何の涙なんだろうか?悲しみなのか、後悔なのか、だけどそれは全て自分の中で綺麗に片付いていることではなかったのか。
 きっと、今のわたしが悲しくて切なくて泣いているんじゃない。多分今まで我慢してきた涙がでてきてしまったんだ。出しちゃわないといけないんだ。
 大丈夫、きっとこの涙を出しきれば、きっとわたしは笑って涼さんを見送れるはずなのだから。
「見送りに、来てください」
 涼さんからの最後のお願いだった。
 翌日、見送りに現れたわたしを見て、涼さんは驚いていた。そりゃそうだろう、わたしの顔は昨日さんざん泣きましたという顔をしていたからだ。それを涼さんはどう受け取ったのだろう。わたしの悲しみととったのか、後悔ととったのか、あるいは。
 涼さんの驚いた表情がふわりと溶けた。そして涼さんは笑ってくれた。優しく、ただ笑ってくれた。
「ヤツカ」
 どちらからともなくわたしたちは抱き合った。
 それはもう恋人同士のそれではなかった。外人がするような、ハグのような抱きしめ方で。
 あ、と思った。わたしの中で、涼さんと別れることが事実としてすとん、と落ちた。いや、それまでもちゃんと認識していたはずなのに、本当に自分の中でそれを理解したのは、まさに今だった。それは涼さんも一緒だったのかもしれない。
 触れるか触れないかの、互いのぬくもり。最後のぬくもり。だけど悲しくはなく、寂しくもなく。
 大丈夫だ、わたしは涼さんがいなくてもちゃんと歩いていける。
 そして涼さんも大丈夫だと思った。
 間違いない。
 淡々とした最後だった。言葉はもはや無く、いや、言葉にせずともわかっていたと言うべきか。
 ゲートの向こうに涼さんが消えるのを、見えなくなるまで見送った。そしてわたしは空港の屋上に出た。
 涼さんがどれに搭乗するかだなんて、そんなに気の利いた事をする余裕は無かった。もとい、涼さんの乗った飛行機を見送るために屋上に来たのではない。
 青い空を見上げると、自然と涙がこぼれた。これは昨日流し尽くせなかった涙だ。最後のこの涙を流してしまえば、わたしもまた飛び立つ事が出来るのだから。
 涙を拭うことはしなかった。上を向いたまま、流れるままに流していた。傍から見ればきっとおかしな人に思われるだろうけれど構わなかった。
 この涙が終わったら、わたしはわたしの道を歩いていける。
 その道を歩く力をくれたのは涼さんだ、涼さんにどれだけ多くのものをもらったかわからない。だけど一番の大きなものはその力。
 大丈夫、わたしは大丈夫です。
 空の彼方に白い飛行機の影が消えていくのが見えた。
 それはまるで、あの日の紙飛行機のようだった。




 涼さんの海外赴任・プロポーズ・ヤツカが身を引くように別れる、は全て小郷さんから出たプロットです(秘技責任転嫁)(以下転載)。

>たとえば涼さんが海外に赴任(社長の座が待っています)。それを機会に婚約指輪を
>渡そうとするが、やはり二人の生きるべき場所は一緒じゃないんだと悟ったヤツカは
>その指輪を受け取れない。「涼さんにはもっとふさわしいひとがいるに決まっている」、
>それと彼女のやりたい仕事(写真関係とか(決めつけ))関係でもっと上の地位
>に昇れるチャンスがあるとか。そんな感じで二人愛し合ったまま別の道を歩くんです、
>再び会えることを願って(クサいしベタだし)。

 いや、それイイ!と喰らいついて書いたのがこれなんですが。どうですかね?注文通り仕上がってますかね?(さあそれはどうかしら?)
 この話をしていた頃はヤツカの退団だなんて、まだまだ先だなぁと思っていたのですが、あっという間でした。
 退団にオーバーラップさせた話を書くこと自体、ファンの方には申し訳ない気持ちで一杯です。すみません。
 でも書いている本人も凹んでます(じゃあ書くなよ)。


 これで終わりじゃありませんので(えー?)。


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