予兆

 

 それは、予兆だったのかもしれない。

「あ!」
 自分の叫び声に、驚いたかのように起き上がった。目覚めればいつもの自分の部屋。外はまだ暗い。
 自分でも自分が一体どうしたのかわからず、だけど頬を濡らす自分の涙に気づいた時、はっきりと思い出した。そして、思い出した事に涙が、震えが止まらなかった。
「ヤツカ?どうしたんです?」
 隣で寝ていた涼さんが起きて、驚いてわたしに声をかけた。わたしは嗚咽のように漏れる声を必死で押さえながら、首を振った。
「怖い夢でも見たんですか?」
 なおもわたしの身体は震えていた。しきりに首を振る。
「どこか具合でも悪いんですか?」
 何も肯定しないわたしに涼さんの声が困惑ぎみに響く。落ち着かなくちゃと思いながら、まるきり反対に反応する身体。
「ヤツカ、落ち着いて」
 まるでむずかる子供の様だ。でもどうにもならなかった。
「ヤツカ」
 涼さんは不思議と落ち着いた声で
「ヤツカ」
 わたしの名を呼んでくれる。
「ヤツカ」
 それがどれだけ嬉しいか、安心できるか。
 だけど無性にそれが悲しく切なく苦しく怖くて。
「ヤツカ」
 涼さんが優しく抱き締めてくれた。あやすように背中をなでて。どれくらい時間がたっただろうか。涼さんは辛抱強く、わたしの波が静まるのを待ってくれた。
「僕にどうして欲しいですか?」
 いたわるように、なだめるように。
「僕に何ができますか?」
 もう、「どうしたの?」とは聞かなかった。ただわたしのために心を砕いて、わたしのためだけに心を開いて。
「ヤツカ」
 わたしは涼さんに、しがみつくように抱きついた。
 全身で「抱いてください」と訴えた。それしか、出来なかった。
 涼さんは黙ってうなずいてくれた。


 今までそんな風に乱れたことなどなかった。
 わたしは涼さんにむさぼりつくように抱かれた。
 もっと、はやく、とねだるわたしに、涼さんは慎重にいつもより少しだけペースを上げて応えてくれた。繰り返し繰り返し。わたしは泣きながら応え返した。
 わからない、けれどわかっている。
 何度目かの時に、わたしは涼さんに初めてそのお願いをした。涼さんは「いいんですか?」と驚いて聞きかえした。わたしは涼さんに口付けた。「つけないでください」、わたしは全身で涼さんの全てを直接感じたかった。そうせずにはいられなかった。
 あまりにもあからさまにみだらなわたし。自分を止められない。
 明らかに、いつもと様子の違うわたしを、涼さんがどう思ったのかはわからない。けれども涼さんは、いまありのままのわたしを受け止めてくれている。
「ヤツカ……声だして」
 それでもどこかまだ理性が残っていたのだろうか。無意識にいつもの様に唇を噛んで堪えていたわたしに、涼さんが言った。カラダのなかから溢れる感覚を押し込めていた。もう、何も考える事はないのに。カラダも心も全てさらけだしていいのだから。涼さんの指がわたしの中をぐるりとかき出した。思わず変な声を上げてしまった。涼さんはかまわずに、続ける。声を押し殺す代わりにわたしは何度も涼さんの名を呼んだ。いや叫んでいた。……やがて、そんな風に冷静だった涼さんの息遣いが荒くなって。
「……ヤツカ!」
 何かをはきだすかのように、我を忘れたかのように、わたしの中に。わたしは自分の持っているもの全てで、それに応えた。
 やがて、二人とも疲れ果てて眠りにつく。
 涙は最後までとまらなかった。
 目覚めたのは、まだ夜明け前だった。昨夜、というより今朝方まで抱き合っていたのだから、そんなに眠った訳ではない。だけど随分すっきりとした目覚めだった。あまりにもみだらに乱れて、時間も加減もわからず抱かれて、抱いて。
 正体無く眠り込んでいる涼さんを起こさないように、ベッドから抜け出した。


 わたしは、夢をみたのだ。
 涼さんを失う夢。
 別離ということばでもなく、不在ということばでもなく、ただ、涼さんを失う夢。


 そんな漠然とした夢だ。単なる夢なのだ。
 だけど夢だとわかっていても、わたしのこころはぐちゃぐちゃになった。カラダはこなごなになった。変な表現だがまさにわたしは壊れたのだ。悲しくて切なくて苦しくて怖くて。そしてそう感じている自分がまた悲しくて切なくて苦しくて怖い。こんな自分がいたなんて。涼さんを失うだけで、わたしはいとも簡単に自分を失うのか。
 昨夜の自分を恥ずかしいとは思っていない。そうでもしなければ、わたしは、多分狂っていた。
 熱いシャワーを浴びながら、ひとつづつ反芻する行為。
 わたしの手は無意識に、涼さんのあとをたどっていた。
 そして、泣いた。身体の中に残っているすべてをはきだすように。そうやって、何もかも流されてしまえばいいのに。だけど消えない想いがある。
 シャワーを止めて鏡を覗くと、首筋の、服を着てもはっきりわかる場所に、鮮やかなキスの痕。普段は絶対につけないのに。そんな不注意なことはしないのに。
 そういえば、昨夜は痛かった。それも普段ならないことで。涼さんは、巧いのだと思う。わたしはいつも満たされて、知らない自分を教えられて。その涼さんが、まるで知らない人みたいに、わたしを抱いた。ふたり一緒に乱れていた。それが嬉しい。
 身体から熱が引くのに合わせて、次第にわたしの心は静かに落ち着きを取り戻した。
 わたしは、わかっていたのだ。
 夢なんかじゃない。
 あれは、いつかくる現実なのだと。
 そして今、まざまざと別れを意識しながら、わたしは更に涼さんの事が好きになる。
 愛している、と。もしその言葉を呟いてあの「夢」が消えるなら、その「現実」が消えるなら、何万回でも言うだろう。照れずにまっすぐに。


 部屋のドアを開けようとすると、涼さんの話声がした。携帯で誰かと話している。言葉尻から、会社への電話だとわかる。ちょっと様子を伺い、電話を切る気配でドアを開けた。涼さんはちゃんと着替えてソファーに腰かけていた。
「おはよう、ヤツカ」
 笑ってくれたから、笑い返す。
 敢えて「仕事は?」とは聞かなかった。今のが今日休む為の電話だとわかっていた。昨夜のわたしを見ては、このままおいて行けないと思ってくれたのだろう。申し訳無いと思った。でも、「すみません」とは言わずに
「あの……ありがとう、ございます」
 涼さんは、うん、と言ってそして
「ヤツカ、おいで」
 言われるがままに、涼さんの前にぺたん、と座らされる。涼さんはわたしが持っていたタオルを取ると、濡れた髪をくしゃくしゃと乾かし始めた。子供の頃、母親にされたように、されるがままなのが気持いい。いつまでもそうしていたいような気分だった。
 涼さんの指が地肌を滑る。うっとりとその感触に目を閉じる。
 それから涼さんに促されて、会社に病欠の連絡をした。
 それから流石に寝不足だったので二人して少し寝て、起きてからごはんをたべて。
 それから、ずっと一緒にいた。何をするとでもなく、ただ一緒にいた。
 涼さんは昨夜の事は何も問いたださなかった。ただ
「よかった」
「何がですか?」
「ヤツカのそばに、いられて」
 多分涼さんは昨夜のわたしの側にいられて、を指しているのだろう。わたしを支え、わたしを受け止めて。だけどわたしはそれがいつかまた聞く、別れの時の言葉のように思えた。
 泣かなかった。今、涼さんの側にいられる事が何よりの幸せだから、だからもう悲しむことはないのだ。そんな想いを込めて、わたしは涼さんの手をきゅっと握った。涼さんはすぐに掌を返して、わたしの手を包み込むように握り返してくれた。
「ヤツカ、かわいい」
「……」
「今日は、大丈夫なんですか?」
 いつもならわたしは、その言葉を照れるのだ、そしてイヤがるのだ。
「今日は……大丈夫みたいです」
 涼さんが子供のように笑った。そして何度も「かわいい」と言ってくれた。
「かわいいですよヤツカ」
 だけど流石に十回以上連呼されると、いつもの羞恥心がもどってきた
「やっぱり恥ずかしいです」
「どうして?」
「あ、あの、何回か取り消して下さい」
「何回?」
「何回言いました?」
「十五回」
 数えていたのか、と驚きつつ。
「じ、じゃあ十回ぐらい」
「わかりました、取り消します」
 わたしが、ほっと溜め息をつくと
「……カワイイ」
「あ、ああ!せっかく取り消したのに!また!」
 いつも通り、照れて騒ぐわたしを涼さんは笑いながら抱き締めた。


 それは、予兆だったのかもしれない。
 ならばおそれずに。それまでは。それまでなら。



 

 まあ、そういう展開なんですが(何が)。
 ちなみに「ヤツカ、おいで」は小郷さんが涼さんに言わせたい台詞集から、そして「ヤツカ、声出して」は六実さんが涼さんに言わせたい台詞集から引用です。
 つうか台詞集て。
 割と早いうちから。小郷さんと「俺たちの考えるすずやつファイナル」ってのを考えていたんですね。結局この2人は別れてしまうんだろうなぁと。まあ、ヤツカサヨナラを意識している部分もあったからだと思うのですが。
 そんな感じですずやつのラストを考えつつ、その助走として書いたものです。
 いや、平たく言えばエロよりなすずやつが書きたかっただけなんだけどな!(イイ笑顔)(……エロいのかなぁ?)

戻る