| happiness 2 |
たまたま街中で見かけた小さなギャラリーでやっていた展覧会。仲間内の展覧会のようなものだった。僕はひやかし半分で、そのギャラリーに足を踏み入れた。そして不遜な態度で、その一点一点を評していった。なんだ大したことないじゃないかと、鼻で笑いながら。 その頃の僕は美大の写真学科を出たばかりで、就職する宛ても無く、親の脛をかじりながらただブラブラしていた。いつかは己の才能で日々の糧を得ようという、自負と野心だけは一人前にあって。そんな若さ故のいきがりと、甘さを持っていた頃だった。 一枚の写真に目が止まる。 ひとりの老人が釣堀で、釣り糸を垂れている。午後の日差しが老人の皺をくっきりと浮かび上がらせて。まるでその老人の生き様が見えてくるような写真だった。何かをしきりに僕に語りかけているようでもあった、全てを乗り越えて悟りを開いているようでもあった、生きているようでもあったし、死んでいるようでもあった。 なんだ、なんだこの写真は。 目が離せなくなった。その一枚の写真に僕は魅せられた。 ようやく衝撃が収まって。僕は鼓動を抑えながらこの写真の作者を見た。「陽色萌」、どんな人なんだろうか、こんな、こんな写真を撮る人はどんな人なんだろうか。 他人への興味などなかった。僕は僕でありさえすれば良く、他人なんてどうでもいいと思っていた。けれど、どうしてもこの人に会いたいと思った。いや、会わなくてはならないと思ったのだ。 ギャラリーの受付の人に尋ねたら、案外あっさりと彼女の職場を教えてくれた。名前も聞いたことの無い、小さな写真スタジオで専属のカメラマンをやっているという。僕はその足でその写真スタジオへ向かった。無気力になんとなく生きていた僕の、どこにそんな行動力があったのか。 西武線沿線の、各駅停車しか止まらない駅から少しはなれた住宅街にその写真スタジオはあった。思っていたよりスタジオの構えは大きかった。思い切って中に入ると、何か締め切りが迫っているのか、相当慌しい空気が流れていて。応接室というより部屋の隅に置かれた応接セット、そこで随分待たされた。そこだって雑多なものが置かれすぎで、僕は自分の居場所を自分で作らなくてはならなかった。 「お待たせしました」 快活な声、見かけよりも若いのかもしれないと失礼ながら思った。でもきっと僕より7つか8つは年上だろう。若く見えるのは、前髪を全部あげているからかもしれない。 「……あの、どういったご用件ですか?どこかでお会いしたことありましたか?」 訝しげに彼女が聞いた。僕は挨拶も自己紹介もせずに言った。 「僕を助手にしてください」 「はぁ?」 呆気に取られている彼女に僕は一気にまくしたてた。彼女の写真を見て感じたことを、僕もまたその道を志す者であることを、そして是が非でも彼女の下につきたいのだと。そう、彼女の写真を見て感じた感動、それはそのまま「こんな写真を撮りたい」という僕自身の欲求に変わった。もっと言うならこれ以上の写真を撮りたいと思ったのだ。それまで何も見えていなかった僕に、これを超えたいという衝動が生まれた、そんな欲が生まれたのだ。 彼女は目を丸くして僕の話を聞いていた。僕が一息ついた時、 「ヤツカ!いつまで油売っているんだ」 彼女が呼ばれた。ヤツカ?そう呼ばれているのか。 「ごめんなさい、もう時間が無いの」 彼女は、ヤツカさんはすまなそうに頭を下げた。だけどその顔に、ちょっとやっかいな子が来たなぁという困惑がありありと見えた。 「わたしの写真を気に入ってくれてありがとうございます」 もう一度、頭を下げる。 「でもわたしもここで雇われている身ですから、助手を取るような身分でもないし」 「でも僕は貴女の写真に感動しました、だから」 何度となく、自分にこんな行動力があったのかと驚く。 それぐらい僕の中の感動と、衝動は大きかったのだ。 彼女は、ヤツカさんは困ったような笑顔を浮かべていた。 「ヤツカ!早く!」 また呼ばれた。ヤツカさんは慌てて自分の名刺を取り出し、なにやら書き込んでいた。 「もしわたしの写真を気に入ってくれたのなら、良かったらここを訪ねてみてください」 「ここは?」 「ヤツカ!」 「ごめんなさい、もう時間がないの」 そう言って、慌しく僕の前を辞してしまった。引き止める余裕も無かった。 結局その後、誰も僕を構ってくれるわけでもなく、そのスタジオを後にした。 数日後、そのヤツカさんに教えられた場所に行った。なんの変哲もない、町の小さな写真屋さんだった。何故ここがと思ったけれど、入ってみてすぐにわかった。 店の奥に小さなギャラリー、というか店の奥の壁一面を利用して、写真の展示に使われていた。その写真を見てすぐにヤツカさんの写真だと思った。名前は特に明記していなかったけれど、その写真にも僕はまた魅せられた。やっぱり僕の目は間違っていなかった。 僕はこの人から何かを得たい。 「気に入ったかい?」 真剣に見入っていたら、店主らしき人が声をかけてきた。僕は返事をしなかった。鼓動がまた止まらなくなっていたから。その僕の様子に満足げに頷きながら 「もうすぐその写真を撮った奴が来るよ」 その時店のドアが開いた。 「こんにちはー」 偶然だ、いや、きっと必然だ。 ヤツカさんだった。 「ヤツカ、お前の熱心なファンが来てるぞ」 ヤツカさんはすぐに僕に気がついた。 「……ほんとに来たんだ」 「なんだ、知り合いか」 店主は残念そうにつぶやくと、店の奥へ入っていった。 「僕、やっぱりあなたの写真が好きです」 つたない言葉だったけれど、思ったままを伝えた。 「僕をあなたの助手にしてください」 一度は断られた願いをまた言った。いや、受け入れてもらうまで何度でも言う。 ヤツカさんは呆れたように 「この間も言ったけれど」 「構いません」 今度はあからさまに呆れていた。 「君、いくつ?」 だんだん怒ってきているのかもしれない。迷惑な奴だと思われているのかもしれない。最初は丁寧な言葉遣いだったのに、次第に口調がきつくなってきた。でも僕はひるまなかった。 「24です」 「お仕事は?」 「今は特に」 「親御さんの、援助で?」 「ええ、まぁ」 「……写真家になりたいと?」 「はい」 ヤツカさんは厳しい目で僕を見つめていた。 「まずは独立するところからじゃないかしら?」 「は?」 「仮にわたしが助手を取れる身分だったとしても、君を選ぶことはしないと思うの」 「え?」 「……言い過ぎだったらごめんなさい。でもそんな甘い気持ちじゃ、何にもなれないと思うの」 一瞬、カッとなった。図星を指されたからだ。 そう、何にもなれない自分、どこにも行けない自分。そしてそんな状況を自分で変えるとでもなく、ただ甘んじている自分。こういうのは年の甲なのだろうか、ヤツカさんはそんな僕の甘さをいとも簡単に見抜いて、そして指摘した。正論だった。その通りだった。 だけどそんな自分がようやく見付けた進みたい道だった。順序は前後しているかもしれないけれど、僕はその意思を曲げなかった。それだけの若さが僕にはあった、いやそれしかなかった。 「でも僕は、あなたの元で働きたい」 ヤツカさんは呆れたようにため息をついた。何を言っても無駄だと思ったのか。 それからの行動力もまた、自分で驚かずにはいられないものだった。 僕は無理矢理ヤツカさんの「おしかけ助手」となった。写真スタジオに毎日顔を出し、ヤツカさんの周りをうろうろして、何か手伝えないかを探していた。ヤツカさんは思いっきり迷惑していた。怒鳴られた事も度々だった。それでも、僕がそこそこ助手として使えることに気づいたのか、忙しさも手伝ってなんとなく「助手」のような立場になることに成功した。思ったより根性のある奴、とヤツカさんの態度も段々軟化していった。 そんな様子を面白がって見ていたスタジオの所長が、僕を正式にアルバイトとして採用してくれた。そうなると、ヤツカさんの下でだけ仕事するわけには行かなくなったけれど、それすらも僕にはいい経験となった。貪欲に知識を吸収していった。学生時代に学んだ事の比では無かった。腑に落ちない事もあったし、僕のプライドを傷つける事もたくさんあった。何せ僕は社会人経験のない甘ったれだったから。だけどヤツカさんがそれとなくフォローしてくれていた。ヤツカさんとしては、妙な責任を感じていたのだろう。けれど、僕はそれが妙に嬉しくて仕方が無かった。 自分に出来る仕事がある。それがどれだけ大変か、そしてどれだけ甲斐のあることか。僕はようやくそんな事を知ったのだ。 ヤツカさんの仕事は主に人物の写真だった。雑誌の仕事が主で、ポートレイトを撮ることもあれば、座談会やイベントなどに呼ばれ、特定のターゲットを指定されない写真を撮ることもあった。 僕は写真を撮るヤツカさんを見ているのが好きだった。ファインダーをのぞくその横顔。その眼差しはいつだって優しく暖かい。そう、ヤツカさんの写真には常に暖かさがあった。甘やかすだけの暖かさではない。被写体にまっすぐ向かう潔さ。レンズ越しなのに、その垣根を感じさせない。写真を撮っている時のヤツカさんは、自分の全てを晒しているようでもあった、だから撮られる側も全てを晒してしまう、そんな撮り方だった。 一度、僕がモデルになってヤツカさんに写真を撮られた事があった。いつもとは違う距離感でヤツカさんと対面しているのが、妙に気恥ずかしかった。だけどその写真を撮られたとき、僕ははっきりとわかった。 僕はヤツカさんが好きなのだ。 もしかしたら、最初にあの写真を見たときから、写真を通り越してヤツカさんを好きになっていたのかもしれない。あの衝動は感動であると同時に「恋」だったのか。 「どうかした?」 ヤツカさんが聞いた。僕は黙っていた。黙っていたってヤツカさんには、いや、ファインダー越しのヤツカさんの視線にはきっとわかってしまう事なのだから。 ヤツカさんが親しい先輩と独立して、小さな事務所を構えると聞いたとき、僕は一も二も無くそれについていった。ついていったついでに、ちょうど借りていたアパートの契約期限が切れたのをいいことに、ヤツカさんが事務所の近くに借りた新居に転がり込んでしまった。我ながら、強引。下心が無かったと言えば嘘になる。だけどヤツカさんがそういう勢いに押される人でない事もわかっていた。ヤツカさんは「新しいアパートが見つかるまでだから」と、仕方なくそれを許していたけれど、結局忙しさにかまけて、そのまま僕は同居人の立場に居座ってしまった。……それでもヤツカさんは馴れ合いでけじめを忘れる人じゃなかった。だけど僕の気持ちは偽りきれない本当のものだった。僕はそれをちゃんと伝えた。ヤツカさんはそれをちゃんと断った。そしてちゃんと守るべき線は守られて。 ヤツカさんが僕の気持ちを受け入れて、僕を受け入れてくれたのは本当につい最近の事だった。 だけど本当に大変なのはそれからで。 「助手」としての僕、「恋人」としての僕。その頃の僕は写真家としてのヤツカさんにあこがれるだけではなく、同じ写真家として嫉妬すら覚えていた。そして男としての自負もあった。つまらない意地、そんなやり場のない想いをヤツカさんにぶつけることしか出来ない幼い僕。ヤツカさんは大人だった、そして僕は自分でもいやになるくらい子供だった。写真家として人間としても僕はヤツカさんに追いつかない、追いつけなくて。苛立つばかりの僕を辛抱強く見守ってくれているヤツカさん、そんな自分自身が情けなくもあって。 公私混同はできるだけしない事、だけど「公」も「私」も僕はヤツカさんに繋がっていたから。だから大変なのだ。 それでも僕はヤツカさんが好きだった。 いつかヤツカさんに追いつきたかった。ヤツカさんと同じ視点で見れるようになりたかった。公私ともに、ヤツカさんと対等になりたかった。それはとても先の事に思えたのだけれど、ヤツカさんはそれを待ってくれるような気がしていたのだ。 例の写真屋の主人、というかヤツカさんの先輩なのだが、こんな話を聞いたことがあった。 ヤツカさんは学生の頃は、風景を撮るのを専門にしていたのだという。 驚いた、だってあんなに魅力的な人物像を撮るのに。何でなんですかね?と聞いたら「それは俺も知りたいんだよね」と。 気になる。ヤツカさんの事はなんでも気になる。それは僕がやっぱり幼いからだろうか。 たまたま二人で飲みに行った時、その話を振ってみた。どうしてですか?と。 「なにー?なんでそんな事聞くのー?」 ちょっと酔っ払っている。いや、そこを狙って聞いたのだが。無理かなと思いつつ。 「そうね……人物を撮るのが怖いと思っていた時期があったの」 意外な事に、ヤツカさんがぽつりぽつりと話し出した。 「わたしね、学生の頃はモデルもやっていたの」 笑った。僕は笑わなかった。 「笑わないの?笑うところなんだけれど」 とんでもない。ヤツカさんは決して派手な顔ではないけれど、綺麗な人だったから「モデル」と聞いても驚かなかった、当然の事だと思っていた。ヤツカさんは、なんだ笑わないのか、と残念そうな顔をしていた。 「……」 「それで?」 僕が続きをうながした。ヤツカさんはそれに乗ってくれた。 「そう……人を撮るのは怖いの、本当は。その頃わたしを撮っていてくれた人がね。……うん、あれは天才って言っていいんだろうなぁ。ものすごい写真を撮る人だったの、被写体の全てを読んでしまうような、被写体の全てを晒してしまうような、無理矢理に、無邪気にね」 指先で、グラスから落ちた結露の水たまりをくるくる回していた。 「なんていうのかな、わたしはその人の腕を信頼して、尊敬して、その人の才能を認めてもいたんだけれど、撮られることがある日を境にとても怖くなってしまったの。だって、撮られた写真はどれもわたしじゃないのに、わたしだったの。わたしの知らないわたしがいつのまにか切り取られて、そこにいたの。無理矢理引き剥がされたみたいな……」 指先が止まった。 「わたしはそれが怖かったの。その人がむけるカメラが凶器だと思ったの。その人が狂気だと思ったの。……その頃は若かったから、そう思ったのかもしれないけれど、自意識過剰だったのかもしれないけれど、わたしは傷つけられたと思ったの。そしてわたしはそんな風に人を傷つける写真は撮りたくなかったの……」 いつになく饒舌だった。それは思い出を語るというより、僕に写真のなんたるかを諭しているかのようにも思えた。淡々と語っていた。 きっとそのヤツカさんはその人が好きだったのだろう。言わなくてもわかった、だからヤツカさんは傷ついたのだろう、写真を撮れなくなるほどに。 それじゃあ、どうしてそんな風に怖いと思っていた写真を撮るようになったのだろう? その質問をしようとしたとき、ヤツカさんはカウンターにつっぷして眠ってしまっていた。随分酔っていたんだ。確かに酔っていなければ、自分の事は余り話さない人だ。 大学卒業後、しばらくOLをしていて、某新聞社のコンクールをきっかけに留学して、帰国後にあの写真スタジオで写真家としてスタートして。そんな概要しか知らない。今のヤツカさんの事は良く知っているのに、そんな昔のヤツカさんは知らない。淡い嫉妬が生まれる。そんな嫉妬をしてしまうのも、僕が幼いからか、僕がヤツカさんに比べて子供だからか。 すっかり酔っ払ってしまったヤツカさんをおぶって家路につく。タクシーを拾うお金もなかったから、そして終電も終わっていたから、僕はそのまま歩いて帰ろうとした。途中でヤツカさんが目を醒ました。 「あ……ごめん」 慌てて降りようとするヤツカさんを、僕は下ろさなかった。だって、こんなのはちょっと嬉しい。僕に黙って身体を預けているヤツカさんなんて、滅多にないことだ。ヤツカさんはそんな僕の気持ちがわかっていたのか、それ以上はおとなしく僕の背中にしがみついていた。 突然、ヤツカさんが小さく笑った。 「どうしたんです?」 「思い出しちゃった」 「何を?」 答えは無かった。しばらくすると規則正しい鼓動が背中越しに伝わってきた。また眠ってしまったらしい。その言葉がちょっと気にはなったけれど、背中のヤツカさんの温もりが嬉しくて、そっちに気が取られてしまった。 今、ヤツカさんはどんな顔をして眠っているんだろうと思った。その寝顔を見ることは叶わないけれど、それを想像するだけでも僕の心は浮き立った。 久しぶりの休日。たまにはゆっくりしようかと、仕事のことを忘れて一日を引きこもって過ごそうとしていた。お昼近くに起きて、遅めの朝食を取っていたら、突然ヤツカさんの携帯が鳴った。その電話に応対する声が途中から変わったから、すぐに仕事の電話だとわかった。 電話は突然の仕事の依頼だった。元々は同じ事務所の先輩が引き受けていた仕事だったのだが、急に体調を悪くしてヤツカさんに代打を頼んできたのだ。 「ごめんね、せっかくのお休みだったのに、いい?」 そう聞いてくるヤツカさんの顔はもう仕事の顔になっていたから、いいも何もなかった。まあ、残念は残念だけれど、ヤツカさんと一緒にいることには代わりはない。僕は、僕の恋人としてのヤツカさんも、僕の言わば師匠としてのヤツカさんも好きだったから。いや、どちらも好きだから、色々厄介なんだよな、と思いながら僕は無言で仕事の準備をしていた。 「本当はこういう仕事は受けたくないんだけれどね」 タクシーの中でヤツカさんが言った。仕事はあるビジネス誌のインタビュー記事だという。誰を撮るのかは知らされていない。「人物」を撮る時、ヤツカさんはその被写体の人の事をちゃんと下調べしていく人だ。最低限のその人の事を知らないと、その人に近づいて写真を撮ってはいけない気がする、それはヤツカさんのポリシーでもあった。だからヤツカさんにはあんな写真が撮れるのかもしれない。被写体に優しい暖かい視線で近づいていく、でも決して踏み込みすぎることはなく、そっと手を差し伸べるような、そんな写真。僕はそんなヤツカさんを素直に凄いと思うのだ。今はヤツカさんと同じように撮りたいとは思わない、僕には僕に撮れる写真がきっとあるはずだから、それがまだ何か見えてはいないけれど。それでもやっぱり、嫉妬をしてしまう。 場所は某ホテルの一室だった。ロビーで雑誌社の人が待っていた。先方の都合をどうにかつけてもらったのだから、無駄にできる時間はないと、そのまま引きずられるようにある一室に連れて行かれた。慌しい、落ち着かない、ヤツカさんもきっと怒っているんじゃないかと思ってその顔色をうかがったけれど、その顔はいつもと変わらなかった。プロだなぁと思う、いや、感心している場合じゃない。僕は僕で、僕にすべきことがあるのだから。 ホテルの一室に通されると、そこには既にインタビューアの人と、今日の主役がいた。既にインタビューは始まっていたようだったが、それを中断して、とりあえず僕たちが紹介された。 雑誌社の人に紹介されて、ゆったりとその人が立ち上がって僕たちを見たとき、その時つぶやいた言葉は僕にははっきりと聞こえた。 「ヤツカ」 搾り出すような、小さな声。多分僕と、ヤツカさん以外には聞こえないぐらいの。僕は驚いた、その人は「陽色萌」の名ではなく、既に通称と化している愛称で呼んだのだ。 どういう事だ? 僕はとっさにヤツカさんの顔色を確認しようとしたのだが、その前に彼が紹介され、握手を求められたのでそれが出来なかった。 「涼です」 知っている。涼グループの総帥だ。若いながらに日本でも、いや世界に肩を並べる大企業を束ねる人として、テレビで何度か見たことがある。 その「涼さん」が何故、「ヤツカ」と。答えは簡単だ、二人は知り合いなのだ。だけどそこから先をどうしても考えたくなかったから、僕はその答えを出さないようにしていた。 「インタビュー中のお写真を撮らせていだきます、少しうるさいかも知れませんが、お気になさらずに」 ヤツカさんが言った。仕事の声、仕事の顔。そこからは何も読み取れない。 名前を呼ばれてはっとした。そう今は仕事中だ。ヤツカさんにシャッター音が小さくなるように設定したカメラを手渡した。 インタビューは順調に進んでいった。こういう仕事は結構あるから、インタビューされる人の話術とか、インタビューアの技術とか、そういうものが何となく判断できるようになっていた。インタビューアの人も手馴れていたが、涼さんが非常に頭の切れる人だと思った。常に柔和な微笑を浮かべながら、時に真面目に、時にわかりやすく言葉を紡いで行く姿。そしてそれをヤツカさんが撮ってゆく。今、ヤツカさんの目に彼はどんな風に映っているのだろうか、それは僕にはわからない、僕はまだそこにはたどり着いていないから。いや、ヤツカさんの目に映るものは、やっぱり僕には見えないのだろう。それはヤツカさんのものだからだ。……おそらく、考えないようにしていても浮かび上がってくる、ヤツカさんと涼さんの関係、これも嫉妬だった。なんだって僕はいつだってこうなのだろうか? ヤツカさんの横顔は、いつもと変わらないような気がした、変わっているような気がした。でも変わらないような気がした。 仕事中だ、僕は無理矢理その邪念をふりきった。 インタビューが一段楽して、少し時間が余ったようだ。一旦雑誌社の人とインタビューアが席を外した。部屋には僕ら三人だけ。涼さんはコーヒーを飲んで、リラックスしていた。 「もう少し、お写真いいですか?」 「どうぞ」 「あ、そのままで構いません」 ヤツカさんに指示されて、レンズを手渡した。ヤツカさんはそれを嵌めなおしながら 「涼さん、ご家族は?」 なんでそんな事を聞くのだ、と思ってから、それがいつものヤツカさんの写真を撮る時の手法だと気づく。そうやって被写体をほどいていく、いつもの方法だ。なのに過剰に反応してしまった僕。今日の僕は懐疑的だ。それは無意識に涼さんが自分では適わない人だと感じているからかもしれない。そしてそんな人がヤツカさんと……。 「妻と、子供が二人です。三歳と四歳の男の子で」 「今は、夏休みですか?」 「ええ、だから毎日煩くてかないません」 そう語る涼さんの目が驚くぐらい優しくなった。さっきまでの柔和な笑顔は、オフィシャルなものなのだ。ヤツカさんはいとも簡単にその人の本当の姿を引き寄せてしまった。決して傲慢な方法ではなく。 いや、そうではない、それは二人が知り合いだったからではないか、二人は……。だけど二人とも、そんなそぶりは見せなかった。あくまでも初対面のような態度。というよりこの場に二人の過去は不要だと、そう二人で判断しているようでもあった。微妙な空気、でも居心地が悪いわけではない、でも僕には入り込めないのをはっきりと感じていた。 他愛のない会話、淡々と切られるシャッター。 ふと僕は涼さんの手の甲に貼られたガーゼに気がついた。絆創膏では足りない傷でもあるのだろうか。僕が余りにも熱心に見つめていたら、涼さんが気づいて。 「ああ、これ?やけどしてしまいまして」 「やけど?」 「この間子供にせがまれて、うちの庭で花火をしたんですよ。子供用の花火セットを買ってやって。でも一つしか買わなかったら、その中に一つしか入っていない、一番大きな花火を取り合いになってしまって。火がついたまま振り回して喧嘩するものですから、止めに入ったらこの有様ですよ」 涼さんが笑った。僕の背後でヤツカさんが一瞬固まったのがわかった。だけどその緊張もすぐに溶けて 「あれはちゃんと、それぞれにひとつづつ買ってやらないと駄目ですねぇ」 しみじみと、反省の色をこめて、自分に言い聞かせるように涼さんが言うのがなんだかおかしかった。ヤツカさんも笑っていた。どんな顔で笑っているのか、確認するのは怖いような気がした。 帰り道。行きは急ぎでタクシーを使ったけれど、帰りは普通に電車で帰る。無駄な経費を使わないのもヤツカさんの方針だった。 二人きりになって、僕は無性に涼さんとヤツカさんの事を聞き出したくて仕方なかった。それはとても子供じみたことだとわかっていた。だって、あの二人がかつて、どういういきさつかは見当もつかないけれど、恋人同士だったことは、どんなに抵抗しても、明らかなことだった。これは嫉妬だ。僕はどうしてこう、彼女に対して嫉妬ばかりしているのだろう。そんな自分が情けなくもあるけれど、やっぱり我慢できずに聞いてしまった。 ヤツカさんの口からはあっさりと「昔つきあっていたの」と返事が返ってきた。あまりにもあっさりしていたので、それ以上は聞けなかった。 なんだかもやもやした気持ちを抱えたまま、僕はヤツカさんの隣を歩いていた。ふいにヤツカさんが言った。 「……よかった」 「え?」 「ずっと、わたしだけが、しあわせだったらどうしようと思ってた」 ヤツカさんが笑った。 それは独り言だった。僕に聞かせているのではない。だけど僕はその言葉に反応してしまった。 しあわせですか?ヤツカさんは今しあわせですか? ヤツカさんがしあわせなのは、今、しあわせなのは、その中に僕もいると思っていいんですか? 僕といるからしあわせなのだと……思い上がってもいいですか? 言葉にならないのが苦しい、その答えははっきりしないけれど、もしそうだったら嬉しい。 「……ねぇ?妬いた?」 ずるい。 そんな事を聞くなんて、なんてずるい人なんだ。 いたずらっぽくヤツカさんが僕の顔を見上げた。だけどその顔がとてもしあわせそうだったから、とてもしあわせそうに僕を見上げて笑ってくれたから。 だけどなんか悔しいから、ヤツカさんにキスしようとしたらあっさり腕の中を逃げられて。 ヤツカさん、僕のこと馬鹿にしてませんか? でもきっと今の僕の顔も、やっぱりしあわせで嬉しくて、きっとだらしなくにやけていることだろう。 「ヤツカさん」 「何?」 「好きです」 そう言うしかなかった。そう言いたかったから、言った。 ヤツカさんは今度は逃げなかった。そしてちょっとだけ恥ずかしそうに「私も」と答えてくれた。 「おなかすいちゃったね、ラーメンでも食べていこうか?」 「はい」 僕はヤツカさんに追いつきたくて、彼女と同じ高さからものを見たくて、そんな風にもがいている毎日だ。だけど、僕と一緒にいることがヤツカさんの幸せならば、ヤツカさんと一緒にいることが僕の幸せだから、そんなふうにもがく毎日だって、悪くないと思う。僕が追いつくその日まで、そして僕が追いついてからも、一緒にいたい。そう強く思いながら、少し先に歩いていってしまったヤツカさんの後を追いかけた。 |
無駄に伏線が長いのはいつもの事だしな!(開き直り) という訳で、シリーズ完結編。むっさんがヤツカを幸せにしないで終わらすわけ無いじゃないか!(笑)むしろ意地でも幸せにさせます。 この話は、前作のプロットに私が勝手に連想していったものです。当時どんなメールを小郷さんに送ったのか、この間の騒動で無くなってしまったので不明なのですが、メールでやりとりしていた時点では 「(雑誌取材ということで)それじゃあ、オフの写真も何枚か撮りましょうかという話になって、涼さんの趣味の世界『身体づくり』でミドルマッチョボディを撮らされるはめになり、ちょっとイヤになるヤツカでした(今日のわんこ風)」 というオチがついてました(つけるな)(つうか黙ってろよそういう事は)。 ここに出てくるヤツカの年下の彼は、どうぞお好きな方を配役してください(つうかイキナリ新キャラ(違)かよ)。 と、言いつつも私の中では満場一致(笑)であやかれい氏です。いや、ヤツカより下級生でカメラの似合いそうな小僧(小僧言うな)と考えたら彼しか思いつかなかったので。芸術家気取りの繊細さと世の中舐めている感じがピッタリかと。他に誰かいたら教えてください、楽しいので(私が)。 ちなみに小郷さんちの美波里の「市川市役所自転車対策課の紫くん」とは別人です(笑)。祭視点の、というか六実SS視点でのすずやつは、事業部視点とは全く別物です。というか余りにも引きこもりカプになりすぎて(大笑)、そっちから独立しちゃったという方が正しいですな。 また後で改めますが、最後までお付き合いありがとうございました。 戻る |