その日が来るまでは
もうすぐ公演の舞台「君の小鳥になりたい」の台本を顔に乗せたまま、ブランクはベッドの上で寝入っていた。
まだ日付も変わらない夜更けのタンタラスのアジトは、静かだ。
いつもならポーカーやらブラックジャックやらで、勝った負けたと騒いでいる時間帯だというのに、その夜のタンタラスのアジトは人気がない。その騒ぎの主のゼネロやシナ達が、たまには外で飲もうと皆酒場へ繰り出してしまったからである。
しいんとした部屋の中、ブランクの寝息だけが聞こえる。部屋の中で動くものは、時折揺れるランプの光と、壁に映し出された影たちだけ。
の、はずだった。
ふいに、ブランクの意識が引き戻される。何やら、腹の辺りにくすぐったいものを感じたためだ。
「ん…?」
たった今まで、確かに部屋の中に人の気配はなかったのに、仰向けになったブランクの腹の辺りに、何者かがのしかかっている。
内心ブランクは舌打ちした。眠り込んでいたとは言え、こんなに近寄られるまで気付かなかったなんて。殺気がないせいですっかり油断していた。殺気があったら、たとえ熟睡していても間合いに入った瞬間に斬りかかってやったのに。
しかし、殺気が無いとは言え、こんな近くまでブランクに悟られずに近寄れるとは。
――こんな事が出来るのは…。
ひとつの名前を思い浮かべて、ブランクは薄目をあけ、その人物に気付かれないように台本の下から腹の上を確認した。
毛布の隙間に金の髪の毛が見えた。その人物は、いつの間にかブランクが引っかぶっている毛布の中に入り込んで、猫のように腹の辺りになついていたらしい。毛布の向こうから、尻尾が一本、しぱたしぱたと揺れていた。
犯人が思ったとおりの人物である事を確認して、ブランクは密かにため息をつくと、
「人が寝てるとこに邪魔してんじゃねえっ!」
そう叫んでその人物を投げ飛ばした。
「ってー!」
今、がん!と鈍い音がしたのは、その人物の頭蓋が隣のベッドの角に命中したからか。相当な衝撃だったらしく、頭を抱えて転げ回っている。
その人物がしばし悶絶しているのを、ブランクはベッドの上から冷たい目で見物していた。
「ったく、フザけるのもほどほどにしろよ、ジタン」
それを聞いて、やがてなんとか痛みが収まったらしいその人物が、ベッドの間で転がったまま、猫なで声で応える。
「ひでえなあ、いきなり投げ飛ばす事ねえじゃん」
ジタンは、ぶつけた辺りをさすりながら、ブランクがあぐらを掻いているベッドによじ登った。
「人のベッドにあがんなっ」
押し戻そうとするブランクにするりと絡みついて、ジタンはその耳元にぼそっと囁いた。
「しようぜ、ブランク」
「はあ!?」
唐突なその言葉に、ブランクが盛大に顔を歪め、口をぽかんと開けて止まる。
そんなブランクに、ジタンが律儀にきっちり言いなおした。
「だからぁ、Hなこと、しようぜ」
「………寝る」
まるで何も聞かなかったようにジタンの腕から抜け出し、ブランクは背を向けてベッドにごろりと横になってしまった。
「そんなぁ〜、つれないぜブランク、オレとお前の仲でよぉ」
そんなブランクにのしかかって猫なで声を出すジタンを、ブランクは肘で突き戻しながら睨んだ。
「重い!ヤローにんな事言われて喜ぶ趣味はねえっ」
すると、今度はかわいらしくしなを作ってジタンが言う。
「そのヤローのアタシに最初にイケナイコト教えたの、アナタでしょお」
妙な作り声に鳥肌をたてて、ブランクはジタンを蹴飛ばす。
「あの時はお前が『体が変だ』って泣きべそかくから、ヌキ方教えてやっただけじゃねえか!」
言われた瞬間、蹴られて転がりかけたジタンが、赤くなって反論した。
「なっ、泣きべそなんかかいてねーぞ、オレは!」
そんなジタンに、寝っ転がったままのブランクは、呆れたように口の端だけで笑って言う。
「へっ、『オレ病気かもしれない』ってぐすぐす言ってたくせに」
恥ずかしい過去を突きつけられて、あぐっとジタンがつぶれた蛙のような声を出す。その珍妙な音にブランクがくくくっと笑っている。
しかし、そんなブランクの様子に、ジタンの目が剣呑な光を放った。
「…酒飲むと役立たずになっちまうような奴に言われたくねーよ」
瞬間、ぎくっとブランクが凍りつく。
「…この俺がそんな腰抜けなわけねえだろ」
寝転がったまま、顔だけこちらに向けて、ブランクが刺す様に睨む。
そのブランクの視線を、ジタンは笑いを含んだ視線でじろりと受け止めた。
「見栄はっちゃって。いざ本番って時になえちまって爆笑されたらしいじゃねえか」
引きつった笑いを顔に食い込ませ、ブランクがことさらゆっくり起きあがった。
「そのネタ…どこから仕入れやがった…?」
わなわな震えるブランクの声に、ジタンはニヤニヤと答える。
「安心しろよ、オレ以外の奴には話してないって本人は言ってたぜ」
『本人』と言う言葉に、ブランクがびきっとひきつる。
「この野郎、しばらくあの酒場に通ってたのはジェニー目当てだったのか!?」
「当ったりぃ」
やに下がるジタンの顔に、ブランクは頭を抱えた。この様子では他に何を聞き出していることかわからない。
「いや〜年上の女はいいねえ〜、イロイロ勉強させてもらったぜぇ」
しかし、ブランクにしてみれば、いつまでもジタンの優位にしておくわけにはいかない。楽しそうに言うジタンの言葉を捕らえて、ぼそりと言う。
「年下の女は容赦ねえからなあ。人前で面と向かって『早漏』はないよなあ、メグって言ったっけか、あの女」
途端、ジタンがばふっとベッドに沈没する。
「あっ、あれはあの時たまたま調子が悪かっただけで…!」
「そうだよなあ、それなのにあんなこと言われちゃ、一週間落ち込んでも無理ねえよなあ。最初に比べりゃ随分マシになったはずだったのになあ?」
今度はブランクがニヤニヤして、ベッドに突っ伏したジタンの後頭部を、ぽんぽんと叩いた。
「…〜っきしょぉ、さっきから卑怯だぞ、昔の事ばっかり持ち出しやがって!」
「今のはジェニーのネタよりか新しいじゃねえか」
ちきしょう、と、ジタンが布団に呟いたのが聞こえた。
そのままぴくりとも動かなくなってしまったジタンを、訝しく思ってブランクはちょいとつついた。
その途端、
「うお!?」
がばとジタンが跳ね起きて、ブランクにしがみついて押し倒した。
ブランクの目の前に、まじっと顔を近づけて一言。
「ムカつくから犯す」
そうのたまってボタンに手をかけるジタンを、ブランクは迷惑げに押し戻そうと起きあがった。かまわず脱がしにかかるジタンと、それを払いのけようとするブランクで、揉み合いになる。
「お前とはもうしねえって言ったじゃねえか」
「いやならオレが受けてやるって」
「それでも俺は女の方がいい!」
「オレもさ」
「なら他で相手を探せよ」
その言葉に、ジタンがむっつりした顔で一瞬沈黙した。
「…いやだ」
ぽつりと言ったきり、今度はブランクの胸の上に突っ伏してしまう。
「…おまえ、さっきからどうしたんだ?」
やけに絡むじゃねえか。そう訊くと、ジタンが突っ伏したままぼそぼそと呟く。
「別に。他で相手探すの面倒なだけさ」
とてもそれだけとは思えないが。思いながらブランクは、胸の上でくすぐったく動く頭をとんとんとつつく。
「悪いけどな。俺はそう言うのはもう卒業したんだ。とっとと退け」
すると、ちぇっと舌を鳴らし、ジタンがしぶしぶ起きあがる。俯いた金の髪の間から、浮かない顔が垣間見えた。
「おまえ、ルビィとステディになってからつれないよなあ」
「そうか?」
ブランクは、さっきジタンを蹴飛ばした際に落ちた毛布と台本をベッドの上に引きずり上げながら、気の無い返事を返した。
するとジタンは、そんなブランクの様子を見て、つまらなさそうに訊く。
「もしかして、ルビィに操たててんの?」
「さてね。どうだろうな」
さらに気の無い返事をすると、ジタンの顔がますます不機嫌になっていく。
「ちぇっ。そうやってみ〜んな身持ちが固くなっちまうんだ」
やっぱり何かあったな。思いながらブランクは、とんとベッドの背に背中を預けた。どうやら自分は八つ当たりされているらしい。
心当たりを考えてみて、ブランクはふと思い出した。
「…そういやおまえ、今日は久々にデイジーとデートとか言ってなかったか?」
そう訊いて来るブランクに、ジタンは内心やなタイミングで思い出しやがると舌打ちした。
「フラれた」
「何でフラれたんだ?」
むすっとしたジタンの短い答えに、ブランクが鋭く突っ込む。
すると、ジタンはてきめんに嫌そうな顔をして、
「んなことどうでもいいだろ」
と答え、さりげなくベッドから離れようとする。しかし、ブランクは逃がさなかった。何気なく立ちあがろうとする首根っこを捕まえ、ベッドに引き戻す。
「うおっ?」
「それが原因で俺は寝てるとこを邪魔されたんだろ?聞く権利があるな」
ほれ、言ってみろとばかりにじろりと覗き込む。
その目に、ジタンはジタンで首を捕まえられたまま、嫌そうに睨み返した。
そのまましばらく睨み合いが続いて。
しかし、この睨めっこで先に根を上げたのは、急所を押さえつけられているジタンの方だった。
忍び足で逃げるように目をそらし、ぼそっと呟く。
「…男にホレたんだと」
「ほぉ」
ブランクは白状した褒美に手を離し、短く頷いて先を促す。
「本気なんだってさ。だからもうあんたとは遊べないって」
肩を竦めて諦めきったように言うが、落胆は隠せていない。
――遊び、ね…。
そもそもジタンは、一方的に弄ばれるようなガラじゃない。ジタンが女に完全に入れ揚げたところなんか、ブランクは見たことも無い。お互い明るく楽しく潔く『遊んで』いたのだろうが。
いざ面と向かって言われてみたら、予想外に堪えたのだろう。
「そーやって皆所帯に入っちまうのかねえ、お前も、デイジーも」
そう言いながら、倒れ込むようにぱたりとベッドに転がって、うずくまってしまう。
ジタンのそんな様子を見ながら、ブランクは呆れたように肩を竦めた。
「おまえ、それでスネてたのか」
「別にスネてたわけじゃねーよ。せっかくのお楽しみがつぶれてゴキゲンななめだっただけさ」
「身軽だとか言ってた一人身の寂しさが、今更になって身に染みたんだろ」
「……」
うずくまったままのジタンの背中が沈黙した。
「だいたい、お前が本気じゃねえのに、相手が本気でホレてくれるわけねえだろ」
「……」
さぞかし『んなことは分かってる』と言い返したかっただろうが、その背中はむっつりと黙ったままだ。
「ったく、ガキのころからちっとも変わらねえよ、お前は」
ブランクは、その背中に自分の背中を押し当てるように転がった。
「ガキには添い寝で十分だ。一緒に寝てやるから眠っちまえ」
「ホントにガキ扱いだな」
ジタンは不満そうに言う。
しかし、ジタンはブランクと背中を合わせたまま目を閉じた。触れたブランクの背中がごそごそ動いて、肩の辺りに毛布の感触が乗る。
そのまま、互いの背中の暖かさに寄りかかりながら、沈黙する。油が切れたのか、ランプの明かりがふぅっと弱くなり、消えた。
背中が温かい。一時的な借り物の背中は、女の柔らかい体とは全く違う固さを持っていたが、それでも人肌にほっとした。
そう、人肌は心地よい。それが借り物であっても。
だから、別に本気の相手なんかいなくても生きていける。
今まで、ジタンはそう思っていたのだけれど。
本気でホレてるのと、女は幸せそうに言った。
初めて見るその顔は、自分の知らない女のようだった。
「本気の相手ってのは…どんなもんなんだろうな」
ジタンは、薄暗闇の中に問うとも無く呟いた。
すると、ブランクが低く答えた。
「いずれ分かるさ。焦るのは、みっともねえぜ」
その言葉に、ジタンは薄く目を開く。
「いつかおまえにも現れる。お前が本気になれるような、相手も本気になってくれるような奴がな。そしたら何もかも、分かる」
ジタンは頷きもせず、背中に伝わる振動を聞いていた。
「それまでは、現れた相手を精一杯大切にしてやれるよう、せいぜい自分をみがくこったな」
そう言った後、ややしてからブランクは付け加えた。
「実はボスの受け売りだ」
思わずジタンは吹き出す。
ブランクもくくっと笑っているのが、背中に伝わった。
笑いやんでから、ブランクが言った。
「…でもな、そう言われた後、ルビィが現れたんだぜ」
「……」
「お前にも早く良い奴が現れるよう、祈っててやるよ」
肩を竦める感触がして、言い終わったブランクは、『おやすみ』も言わずに寝息を立て出した。
それがややわざとらしかったのは、遠まわしながらものろけてしまったことに照れているせいなのかもしれない。
いつもルビィとはケンカばかりしているくせに、それでも幸せだと言うのだろう、この男は。
その余裕の態度が気に食わないのは、その幸せをうらやんでいる自分がどこかにいるせいだと、ジタンは何となく自覚していた。
自分が、「本気の相手」に出会う?そんな日が本当に、来るのだろうか。
そんな日が来たとして、どんな相手だろう?自分はその時どうなるのだろう?
…そんな相手と抱き合う事は、どんな心地がするものなのだろう?
ジタンには、想像もつかない。
けれど。その日がくれば、分かるというなら。
それまでは、この背中に甘える事にしよう。
そう思いながら、ジタンは眠りに落ちた。
その出会いの日が意外に近い事を知っているのは、毛布の上に投げ出された「君の小鳥になりたい」の台本だけだった。
こめんと
まず、ジタビビを期待してここへ来た方へ、ごめんなさい。いきなりジタンとブランクの過去話です。ジタビビを書くにあたってどうしても書いておきたかったもので。
どうしてこの話が裏にあるのかは、分かっていただけたと思います、あっはっは。途中、かなり品のない会話がありましたね。Y談、好きなんだよう、その人の本質が出るって言うか…。
山月の中でジタンとブランクはこんな関係。
でもってジタンは遊び人を気取ってたはずなんだけど…ってやつです。
この後ジタンが出会う「本気の相手」については、ここに来てる人には語る必要は無いでしょう(断言)。