どこかで聞いたような怖い話
 タクシーものの怖い話というのは数多くありますが、これもまたその一つです。

 ある日、Aというタクシー運転手が空車で某駅を目指している最中のことです。
「次の角を右に」
 突然聴こえてきた声に驚いて、Aはバックミラーを見ました。すると、誰もいなかったはずの後部座席に人が座っていたのです。
 Aは人を乗せるために停車した覚えはありません。にもかかわらず、立てていたはずの空車札は倒れ、料金メーターはいつの間にか回り始めていました。そして、通いなれた某駅へ向かっていたタクシーは、見知らぬ住宅地を走行していたのです。
「右に曲がってください」
 うろたえているAに、ぼそぼそと低い声で『客』はもう一度道を指示しました。
 我に返ったAは、慌ててウィンカーを上げ、右折しました。
「しばらく直進です」
「はい」
 『客』の指示に従いながら、Aは考えました。タクシー業界ではよく囁かれる類の出来事に、自分は遭遇しているらしい。言うとおりにしていれば害は無いはずだと。
 その後、Aは『客』の言うとおりにタクシーを進め、指示された場所で停車しました。
 『客』はちゃんと現金を払い、見知らぬ住宅地に戸惑っているAに、
「この道を直進して、交差点を3度左折すればご存知の道に出ます」
と教えました。
 そして、乗り込んできたときとは違ってちゃんとドアを通ってタクシーから降り、路地へと消えていきました。
 Aは半信半疑ながらも他にあてがないので、『客』から教わったとおりに道を進みました。すると、またもやいつのまにか見慣れた某駅へ向かう道へと戻ることが出来ました。

 間もなく2人目・3人目の遭遇者が現われ、この『客』の話はあっという間に近隣のタクシー会社の間に広まりました。しかし皆『客』の指示通りにしていたため、何か具体的な被害を受けたという話はありませんでした。
 そんな中、Aの後輩のBという若い運転手がこう言い出しました。
「もし、その『客』の言うことに逆らったらどうなるんでしょうね?例えば…帰り方をまるきり無視するとか」
「やめとけやめとけ。似たような話はいくらもあるが、そういうことを言い出したヤツは決まってろくなことにならん」
 年老いた運転手にたしなめられはしたものの、Bは若い好奇心を抑えきれないようでした。
 そしてすぐに、Bは自分のタクシーごと行方不明になってしまいました。
 やがて例の『客』の話に、新たな情報が加わったのです。
 例の『客』を乗せた帰り道、3度目の交差点を左折する前に、Bのタクシーとすれ違うことがある。
 Bはこちらのタクシーに気づかず、青い顔で対向車線を走って消えていく、と。
「あの時言っていたとおり、『客』の言うことに逆らってしまったに違いない」
 運転手仲間は口々に言いました。
 そんな中、Aは沈んだように何かを考えていました。
 そしてその後、Aも行方不明になってしまったのです。

 例の『客』の話に、さらに新たな情報が加わりました。
 『客』を乗せている間に、Bのタクシーが路肩に停めてあるのを見かけることがある。
 そして『客』を降ろした後、必ずAのタクシーとすれ違う。
 運転席には笑顔で何事かを話しているAが、助手席には安心した顔でそれを聞いているBが乗っている、と。
山月のはんこ