例えば。

 口の中に、苦い唾液が沸く。
 暑いような、寒いような、気持ち悪い汗が出る。
 皮膚がびりびりしびれて、耳を変な金属音が突き刺す。
 視界の端から、赤と黒の虫が集団で、にじり寄ってくる。
 昨日の失敗なんぞ、どうでもいい。
 明日の話など、したくもない。
 現在に閉じ込められて、身動きが取れない。
 今、ここにある、自分の体だけに意識が集中して、
 周りなど何も見えない。
 うずくまって、ただこの苦痛が通り過ぎるのを、
 ひたすら願うだけだ。
 そんな瞬間が、この世には確かにある。
 例えば。
 足の小指をたんすの角にぶつけた時とか。

山月のはんこ