咲かぬ樹
前の年、病気にかかったさくらの樹は、
花を咲かせることができなかった。
毎年みごとな景色をみせてくれる立派な樹だっただけに、
皆残念がっているようだった。
「老木だからねえ。限界がきちまったかねえ」
誰も、ぼくの前ではその話題にはふれなかったけれど。
そんな、ハレモノにさわるような風にしなくたってね。
「限界がきちまったかねえ」
遠くから聞こえた近所のおばさんの口調をまねてみるが、
なんの感慨も沸かなかった。
葉もまばらな樹をぼんやりと眺めながら、
縁側で呼吸だけしてぼくの夏はすぎた。
秋になって、数年ぶりに従兄弟のにいちゃんがきた。
ぼくにとっては小さい頃に遊んでもらった記憶しかない人だ。
定職にもつかずにその日暮らしをしているらしい。
そんなにいちゃんのことを、皆口をそろえて言う。
「胡散臭いことばかりして、仕方のないヤツだ」
でもその語尾は、苦いながらいつも笑いを含んでいる。
にいちゃんは、前触れもなくふらりと来るなり、
さくらの樹を見上げて言った。
「おう、今年は咲かなかったっつうからもしやと思ってな」
ぎくりと背筋がこおったことに、ぼくは自分でびっくりした。
でもにいちゃんは、硬直しているぼくに気付きもしなかったようだ。
「こりゃ運がいい。かなりあるぞ」
うきうきした声で言って、やにわにさくらの樹をのぼり始めたのだ。
いい歳した大人が一体何事なんだろう?
たった今金縛りにかかっていたことも忘れて、ぼくは目をみはった。
するすると樹をのぼったにいちゃんは、
枝に手を伸ばして何かをもぎ取りはじめた。
りんごか何かのように枝にぶら下がっている、こぶし大の丸いモノ。
なんだありゃ?
さくらの樹にあんな実がなるわけない。
花の咲かなかった樹に実がなるわけもない。
ぼくが混乱しているうちに、
にいちゃんはあっちへこっちへと手を伸ばし、
着ていた上着にその丸いモノをくるんで背負い、
またするすると樹から降りてきて、ぼくを手招いた。
「にいちゃん…何、それ」
思わず縁側から立ち上がり、
差し出された上着の中をのぞきこむぼくに、
にいちゃんはいたずら小僧の顔でいひひと笑った。
「何だと思う?」
「…錆のカタマリ」
…にしか見えなかった。
遠目からは丸く見えたが、近くで見るとひどくイビツなモノだった。
茶色いような黒いような色、ぼこぼことしていてツヤのない表面。
きっとその時ぼくの眉間には、盛大にシワがよっていただろう。
どう見ても大喜びするようなモノには見えなかった。
しかし、にいちゃんはそんなぼくの様子など意にも介さず、
ニヤニヤしている。
「樹に錆のカタマリができるわきゃない」
「じゃあなんなのさ。さくらの実なわけもないだろ」
「そのとおり、実なわけでもない」
もったいぶった言い回しにぼくがむっとふくれると、
「まぁまぁ、手ぇ出しな。ほれ」
二十ほどもあろうか、その中でも一際黒々とした一つを、
無造作にぼくの手に乗せた。
ずしりとした重み、ごつごつした手触り。
思わず受け取ってしまったが、あまり心地よいモノではない。
手の中で持て余しているうちに、
樹につながっていた茎らしき部分を見つけた。
こういうところは『実』っぽいけれど…。
「それ、今夜あたり熟すぞ」
「…『実じゃない』のに『熟す』わけ?
熟しすぎて干からびてるの間違いじゃないの」
「いんや、熟すと溶けちまうんだ」
イヤミも通じやしない。
ぼくは相槌を打つ気も失せてしまったと言うのに、
にいちゃんは話を続けた。
「観察してみな、面白いぞ。深い器に入れてな。
うっかり平皿に置いとくと、あふれてドロドロになる」
「げっ」
ウソかホントか知らないが、
手の中で溶けられてはたまらない。
ぼくが思わず放り出したそれを受け止めて、
にいちゃんがケタケタ笑う。そして、
「日が暮れるまでは大丈夫だ。遠慮すんな」
とぼくに押し戻した。
『何が遠慮するなだ』とばかりににらみ付けると、
にやけていたにいちゃんが、ふと真顔になった。
「これはな、病気になった樹に寄生するんだよ」
…また、ぎくりと硬直する。忘れかけていたのに。
思っていたより神経質になっている自分に気付く。
「…っと、寄生というより、共生かな。
病気の樹液が好物でな、養分をもらう代わりに、
無害になった水分を樹に戻す。
樹の病気は治り、こいつらは成長するって寸法だ」
病気が、治る?
その言葉に、ぼくは思わずさくらの樹を見上げる。
にいちゃんはそんなぼくを知ってか知らずか、
とうとうと説明を続けた。
「熟したこいつらは溶けて地面に落ちる。
で、液状になって鳥や獣に飲まれたり、
地面に染み込んで地下水脈に入り込んだりして、
他の病気の樹のもとへ運ばれてくわけ。
この熟す直前のが、いい値で売れるんだ」
ん??売る??
「ええと…植木の薬とか?」
途端に、一度は真顔になったはずのにいちゃんが、
また笑みくずれた。
「いんや。飲むのさ」
「飲む!?」
「そう。これがまたえらい美味でな」
ぼくはそれでようやく得心がいった。
「飲兵衛のおたからってわけ」
「そういうこと」
ようやく会話らしい会話になったと思ったら、
にいちゃんはぶつぶつとつぶやき始める。
半分は金にしてつまみを買い、
半分は来週あたりに仲間と飲んで…などと、
にいちゃんは幸せそうに持ち重りのする上着を抱えていた。
しかし、ふと残念そうな顔をして樹を見上げる。
「この時期だと3割くらいは落ちちまったろうなあ。
勿体ねえ。もうちょい早く気が付いてれば…」
そういえば…。
どうしてぼくはこの奇妙なものの存在に気がつかなかったのか。
毎日、毎日、この樹を眺めていたのに。
傾いて赤く染まった逆光のなか、
老木の枝振り、その陰影が細やかに目に映る。
「ま、その分来年どこかの樹に出来るだろ」
…やっぱりにいちゃんのペースはぼくとは合わないようだ。
改めて樹に見惚れているぼくとは正反対に、
にいちゃんはじつにあっさりと手を振った。
「さてと、じゃあ、またな。それ、味わって飲めよ」
上着にくるんだ荷物を担ぎ、飄々と去っていく後姿は、
現れた時と同様ふらりと小道へ消えた。
途端、ぼくはどっと疲れを感じて、
縁側へどさりと座り込んだ。
ああ。久しぶりだ。
怯えたり驚いたり呆れたり困惑したり、
こんなめまぐるしい感情を味わったのは。
手の中のカタマリを眺めてため息をつく。
『観察してみろ、面白いぞ』
楽しそうに笑うにいちゃんの顔が脳裏をよぎる。
「ふむ」
日没が近い。
灯りの下、器の中で、
カタマリはゆっくりと崩れ始めた。
小さな錆のダマがたくさんくっつきあったような表面の、
その隙間から、じわじわとしずくが溢れ出してくる。
ぼくはぎょっとした。
そのしずくは、銀色をしていたのだ。
水銀のようにとろみのあるしずくが、
灯りを照り返しながら錆色の表面を滑り落ちていく。
器の底に溜まった液面が鏡となって、
ぼくの顔を映し出す。
目を皿のようにしているぼくの顔に、
ほぐれた錆色のかけらがほろほろと崩れ落ちて、
それらのかけらも次々と溶けて銀のしずくとなる。
一度錆びて死んでしまった金属が、
息を吹き返していくようだ。
香りが強くなってくる。
ハチミツのような甘さと、刺激的な苦さが
複雑に絡み合った香り。
吸い込んだだけで頭の芯がくらくらしてくる。
器をゆっくり揺らすと
液面に残っていたわずかなかけらも消えてしまった。
表面のかけらが沈んでいるかと思えば、
それもない。
すべてが溶けきるまで、瞬く間に思えた。
だが、表を見れば、とっぷりと日が暮れて、
西に傾きかけた月が輝いている。
ぼくは器を抱えて、縁側へにじり出た。
ひんやりとした夜気と共に、
香りを胸いっぱいに吸い込む。
月は上弦。
にいちゃんが来週酒盛りをする頃には、満月だろう。
どんな人たちと飲むのか興味はあったが、
例え誘われても参加はしたくない。
にいちゃんみたいなペースの人ばかりに囲まれたら、
一口も飲まないうちに突っ伏してしまいそうだ。
苦笑しながら、器に口をつけた。
水銀のようなしずくなのに、
口に含むことにためらいをおぼえなかった。
香りだけでもう酔っていたのかもしれない。
強烈な熱が舌を焼いた。強い。
香りに反して、舌にまとわりつくような甘みはない。
むせ返らないよう慎重に息を詰め、
ゆっくりと鼻から抜ける香りを楽しむ。
二口目からは、一口目よりまろやかにのどを滑り降りた。
胃の腑が温かい。鎖骨の辺りに脈を感じる。
視界には、さくらの樹が月光をうけて浮かび上がっている。
毎日、眺めていたつもりだった。
でもちっとも見えてはいなかったんだ。
だからこの樹が生き返ろうする静かな呼吸を、
聞き逃していたのだ。
来年には、またさくらが咲くだろう。
この樹は生きているのだから。
限界なんて、限界が来てから知ればいい。
酔いに任せた幻影だったろうか。
その時ぼくの目には、
老木の枝に咲く花びらの一枚まで、
鮮やかに映っていた。
こめんと。……詰所には珍しく。
『 ぱくりだと いわれるまえに いっておく 』
はい、もともと『蟲師』の二次創作のつもりで思いついた話です。にいちゃんがギンコのはずでした。実みたいなブツが蟲。最初は化野のとこに土産として持っていく話だったのですが…頭の中でひねくり回しているうちに、原型が無くなってしまいました。ギンコはこんなちゃらんぽらんじゃないやいっ!!うわーん!!
まあ、二次創作もどきだとしても、久々に書ききった創作物ですし、黒い記念物としてアップして置きます。
ふ、たかだかこの程度のモンに、着想から完成まで正味4時間もかかるとは…。泣けてくるね。