あいつが、「海へ連れて行け」と言い出した。
はいはいと頷いて、バイクにエンジンをかける自分に苦笑する。いつものこととは言え、俺はこいつ甘すぎる。
でも、老若男女問わず、こいつを甘やかさずにいられる奴なんか知らない。誰にでも甘ったれるのに、誰からも憎まれない。
無邪気な笑顔でバイクのタンデムシートに飛び乗り、俺の背中にしがみつく。
相変わらず胸がない。なんてこと俺が思っているとは、想像もしていないんだろう。こいつが知ったらきっと烈火の如く怒り出すんだろうけど、しばらくすればころっと忘れて、またこのシートに飛び乗るような女だ。さすがに泳ぐにはもう寒すぎる風の中でカーブを曲がると、バイクが傾ぐのを面白がって口笛を吹いている。
女である前に、子供か小動物みたいな奴。こういうところが可愛い。妹がいたら、こんなもんだろうか。
短いツーリングを終えてバイクを降りると、ぴょこぴょことガードレールに向かって走っていく。俺はのんびり歩いて後を追う。お互い、「付いて来い」とも、「どこへ行く」とも言わない。その必要がないことに気付くのに、出会ってからほとんど時間はかからなかった。
身軽にひょいとガードレールを飛び越えて、堤防に腰掛けている。俺がガードレールをまたぐのを見て、足の長さをうらやましがった。女にしちゃ背のある奴だが、流石に俺よりは小さい。
俺も堤防に落ち着くと、二人して並んで海を眺める。
冷えた潮風の匂い、暗くなっていく空と海の境目、緩衝ブロックに砕ける波の音。美術館で美術鑑賞してもちっとも楽しいと思えないが、こうして景色を眺めるのは好きだ。今日みたいに海もいいが、夜景、山なみ、星空、気分によって選択肢はいくらでもある。一人で見るのも悪くないけれど、隣にこいつの色の淡い髪がなびいているのを感じながらだと、無性に楽しい。同性の友達でも、こんなに気の合う奴は知らない。とてつもなく頭の悪い奴で、その馬鹿さ加減にしばしば絶望させられる程だと言うのに、感性は驚くほど俺と近い。特に何か言葉を交わすわけでもないのに、お互いの気持ちがシンクロしているのが分かる。
ポケットからタバコを取り出して火をつけた。「吸っていいか」と訊いてこいつに「嫌だ」と言われたことが無いから、訊かなかった。一口たっぷり吸い込んで、ゆっくり肺までこもらせてから吐き出す。
と、俺の手からタバコが消えた。
横から奪いとられた事に気がついた時には、あいつが勢いよくフィルターを吸い上げていた。慌てて取り上げると、むっとそいつはむくれた。「もともと俺のだろ」ととがめると、「一本くらいいいじゃんか、ケチ」と来たもんだ。
「食べ物がまずくなる」という理由でタバコを止めた奴なんだが、時折こうしてタバコをねだる時がある。
俺は一つため息を付くと、「お前の場合は口寂しいだけだろ」と言って、眠気覚ましに携帯しているガムを一粒、その口に放り込んでやった。
むくれっ面のまま噛み砕き始め、すぐに眉間にシワを寄せる。「すっげークールミント。激辛」と、俺のジャケットのポケットに、やにわに手を突っ込んだ。
「何だ、ミント嫌いだったか?」「んにゃ、何てガムだろと思ってさ」
なるほど、俺が無造作にポケットに突っ込んだガムの包み紙を取り出して、商品名を確かめている。そのまま自分のポケットに包み紙を突っ込むと、大人しくガムを噛み続けた。どうやら気に入ったらしい。
ほっとして、俺は2本目のタバコに火をつけた。
こいつがタバコを欲しがる時は、多分何かあった時だろう。
でも、して欲しいことが有ればはっきり口にする奴だから、黙ってるこいつを問い詰めるようなことはしないことにしていた。ただ、こいつがタバコを吸っている姿だけは、何だか見るのが辛かった。笑ったり怒ったりといつもはにぎやかなこいつが、奇妙に無機質な顔をするものだから。そんなお前は見たくない。そんな顔より、退屈そうとか、寂しそうとか、もっと分かりやすい顔をしててくれと。それだけは俺のわがままを押し付けてる。
「ん、そろそろ、帰ろ」という言葉に、俺はタバコをもみ消した。ふと、ポケットから包み紙を出してガムを吐き出そうとしているのを見て、包み紙を横から奪い取った。「何だよ」と、不思議そうに俺を見上げてくる。
俺は、その色の淡い頭を引き寄せて、唇から直接、舌でガムを掬いとった。
「それ、もう味ないぞ?」と訊かれ、「いいんだ」と答えた。
帰りのタンデムでも、いつもどおりにしがみつく体。押し付けられた頬の感触が温かかった。
こうして、こいつがわがままを言って、俺がそれを聞いて。
そんな日々が、ずっと続けばいいと思った。 |