昔。

 昔。

 手の平の百円玉が、もっと大きくて、
 60円のラーメンがご馳走だった。

 登下校の道のりが、ちょっとした探検で、
 一人でバスに乗ることが、大旅行だった。

 カレーが大好物で、
 スパゲティはナポリタンのことだと思ってた。

 先生の言うことは皆正しいことで、
 お父さんとお母さんのケンカをこの世の終わりだと思った。

 道端の小石は宝石に見えることもあったし、
 月見草の咲く瞬間に息をのんだ。

 道端の正体不明の機械が妖怪で、
 夜の体育館は呼吸をしていた。

 1日は遊びきれないくらい長くて、
 大人になる日なんて知らない未来だった。

 とんぼはからくり仕掛けのおもちゃだったから、
 捕まえたとんぼの羽を平気でむしった。

 今。

 とんぼの羽がむしらなくなり、
 とんぼの羽をむしれなくなった。

 千円の買い物を、平気でするようになった。

 電車の中の1時間を、短いと思うようになった。

 好物が増えた。クリームスパゲティもその一つ。

 皆が「はい」と言うことでも、「いいえ」と思うことがある。

 でも。

 月見草を見る度にくぎ付けになる。

 道端に相変わらず妖怪はいて。

 お金を稼げるようになる日は来ても、
 大人になる日は永久に来ないような気がしている。

 どうやら、「昔」と言う奴は。
 今も私の中で、
 ちゃんと呼吸しているらしい。

山月のはんこ