見知らぬ場所で
「もしもし。こんにちは。私の意志は、届いていますか?」
そんな言葉に起こされた。
私は、むき出しになった岩肌に横になっていた。
体がほとんど言うことを聞かない。首だけを巡らせて目を凝らした。
岩肌の向こうでは、赤紫の水面のようなものが波打っていた。さらに向こうには、青紫の巨大なぜんまいのようなものが群れている。
空が一面緑色だった。
「ココハ、ドコダ」
唖然として呟いた私の声は、聞き覚えのない響き方をした。
「ナンダ、私ノコエハドウナッタ」
「落ち着いてください。音を出さなくても意思は通じます」
通じると言われても、声を出さずにはいられない。
「デモ、ワタシハコンナコエジャナカッタハズダ、ミミ、ミミハドウナッテル?」
「それは、あなたの記憶とは空気が違うからです。あなたの発音器官にも聴力にも異常はありません。聞きなれないなら音を出さない方がいいと思います。私達は音ではなくて脳波で意思の疎通します。不自由はないはずです」
冷静で親切な言葉が、私を落ち着けた。しかし身に染み付いた習慣だ、声を出さずに意思を伝えるなど急に出来るはずもない。
深呼吸を繰り返し、何度試しても聞き覚えのある声には戻らないことを確認した末に、ようやく異常にしか聴こえない無視して、質問を発することが出来た。
「ここは、どこですか?」
「答えるのは困難ですね。国名にしろ、大陸名にしろ、あなたがご存知の固有名詞はないでしょう」
私は初めて、自分に話しかけている存在の方を目にした。
毛玉しかない。巨大な黒い毛の塊しか。
「毛むくじゃらですか。私から見るとあなたはつるつるで、くねくねした運動器官がついています」
驚愕のあまり、声を出さなくても通じてしまったようだ。何がどうなって会話出来ているのか解らないが、確かに私に話しかけて いたのはその毛玉だったのだ。
「お気になさらず。あなた方は皆一様の反応をなさるので慣れていますよ。さあ、そろそろ起き上がれるはずです」
言われたとおり、ゆっくりと右手を挙げてみる。さっきは鉛のように重かったのが嘘のようだ。
仰向けだった身体をゆっくり横に転がし、両腕で上半身を支えて起き上がった。
改めて目をこらす。私が寝ていた場所は、赤紫の水面から浮島のように突き出ている岩肌だった。テニスコートほどの広さしかないが、風水による侵食から削り残された台地だろうか。馴染み深い灰や黄色や黒の濁ったような、ごつごつした質感の岩だった。
しかしその周囲はまったく見慣れない。岩肌の下に波打つ赤紫は粘液状をしていた。不規則な波を観察するうちに、赤紫のそれが自ら身をうねらせていることに気が付いた。
途端、改めて恐怖感が私を襲った。
「大丈夫。あれはただの草原です」
「草原?あんな赤紫のネバネバが?」
「そう。あなたの知っているものとは生態が少し違うだけの、草原です。私のこれまでの経験から言いますと、ここがどこか知るには、自分の目で確かめるのが一番です。ご案内しましょう」
そういうと、巨大な毛玉は動き出した。まん丸だった身体を少し平たくして、もそもそと転がっていく。そして、赤紫の波打ち際から、粘液の上に身体を乗り上げた。
そこで毛玉は止まった。私を見ている気配がした。
何も言わないが、私がついてくるのを待っている。
意を決して、私は波打ち際へと向かった。
「気をつけてください。あなた方の身体の構造だと、草に沈みます。でもいきなり身体が4分の1以上沈むことはありませんから安心してください」
なるほど。赤紫の上で毛玉が平べったくなっているのは、重量を分散させて沈まずに進むためか。
二本の足に全体重がかかる私ではその技を使えない。
そっと片足を赤紫の上に乗せると、言われたとおりずぶずぶと沈んだ。草原と言うが、どう見ても粘液状だ。しかし、くるぶしのあたりまで沈んだところで足の裏に岩肌の感触がした。底なし沼ではないことを確かめて、心から安心する。踏み込んだ足を持ち上げてみると、不思議なことに何の抵抗もなくするりと抜け、足には粘液の一滴も残っていなかった。
「草ですから、大地に根付いているのです。種を移動させる以外の目的で、生き物の身体にまとわりつくことはありません」
「なるほど」
二歩、三歩と進んでみると、沼どころか水中よりも抵抗が少ない。脛のあたりまで沈んだところで、それ以上深くなることも無かった。
「でも、ちゃんと私の後ろをついてきてくださいね。場所によっては少し深いところもあります。柔らかいのであまり怪我はしないと思いますけど、姿勢が崩れるとびっくりするでしょうから」
つくづく、親切な案内役だった。自身は身体の構造上転びようがなさそうだが、こちらの体の構造を配慮してくれる。
案内役についていくと、青紫の巨大なぜんまいの群れへと向かっているようだった。
「ここが草原ということは、あれは森?」
「そうです。あれも植物。ああ、雲が出てきましたね。夜には雨になるそうですから」
案内役は見回さなくても周りの様子が分かるようだが私はそうもいかない。明るい方へ首をめぐらして、太陽のまぶしさに思わず目を眇めた。私の知っている太陽より大きい。右手の方が曇りはじめていた。
緑の空なのに、太陽のまぶしさと雲の白さ、その陰の薄暗さは、なじみのある光景そのままだった。
「雲はやっぱり、水蒸気の塊なのか…」
「ええ」
赤紫の草原は、だんだん浅くなっていた。それと共に、足の裏に感じる地面の感触が、硬い岩肌から柔らかいものへ変わりつつあった。森のそばでは、地面が真っ赤な色に変わっている。
案内人は赤い地面のところで、ひらべったくしていた身体に少し丸みを取り戻した。
私は地面の色の変わり目に差し掛かっても、歩調を緩めなかった。予想通りに、赤い地面の上では、赤紫の草原の底と同じ柔らかい感触が、私の足を受け止めた。
「この赤いのは、土…?」
「正解。植物達の成れの果て、つまり腐葉土です」
土といっても粒子ではない。表面を撫でてみると、スポンジ状をしていた。
「ちぎっても大丈夫ですよ」
そう言われたが、私の興味はすでに別へ移っていた。スポンジ状の腐葉土から生えた、青紫の柱。遠くから見るとぜんまいに見えたが、ここまで近づくと巨大すぎて変な色の電柱にしか見えない。
はるか頭上でくるくると渦を巻いている先端部をぼんやりと見上げていると、柱からひらひらと細長い紙のようなものが翻っているのが見えた。それはするすると長くなりながら私の視界に迫ってくる。
「うわ?」
「あらら」
翻る細長いひらひらが顔面に降ってきて、私はしりもちをついた。
「大丈夫ですか」
案内役が慌てる。
「何ともありません。ここ柔らかいから。それよりこれ、なんです?」
青紫の細長いひらひらを摘み上げて、私はしげしげと眺めた。
「樹皮ですよ。もう脱皮が始まる時期ですか、早いものです」
樹皮は、あっという間に変色を始めた。見る間に赤みが強くなっていく。
「土に還るんですね」
「ええ」
私が樹皮を見守っていると、案内役がコップを差し出した。その隣には、透明な球体を持っている。
「どうぞ。水です」
案内人は毛の数本でコップを支え、透明な球体に穴を開けて、中の液体をコップに注いだ。
「それはどこから?」
「そこです。私のテントです」
一本の毛が指し示したのは、青紫の樹の陰にある、青紫の半球体だった。
「ありがとうございます」
歪な形のコップを受け取ると、咽喉の渇きが急に気になってきた。流し込むと、冷たくて清い味がした。
案内役は、中身の減った球体を丸ごと毛むくじゃらの身体の中に取り込んでいる。
…身体の中に容器をしまった、ようには見えない。
「…丸呑みですか?」
「そういう構造なんです」
案内役にとって不要なコップは、作りなれないのでこんな歪なのだろうか。
日が傾いていた。ここの夕焼けは、青かった。
暮れるに連れて、空は青緑色に濃く暗くなっていく。
スポンジ状の土に座り込み、夜がくるまで私は今日見たものをゆっくりと咀嚼していた。案内役は、黙ってそんな私の側にたたずんでいた。
やがて、月がかかった。私の知っている月よりずっと小さかったけれど、やはり月ではうさぎが杵を振り上げていた。
「…ここは、地球なんですね」
ぽつりと、私は呟いた。
「はい」
「あんまり様変わりしてしまっていて、分かりませんでしたよ」
「でしょうね」
「何が起こったんでしょう?」
「私達も、何が起こったのか調査中なんです。そんな中、たびたびあなたのような人に出会ってきました。幸い意思疎通が出来ますから、ご案内したりしている次第です」
「その…何で意思の疎通が出来ているんでしょう?」
「外見はまったく違いますが、脳の基本構造がほとんど同じだからのようです」
「ああ…そういうことなのですね」
毛むくじゃらの案内役を見慣れるうちに、親しみをおぼえつつあった理由は、そのあたりにあるのだろうか。
けれど、この世界に適応した案内役と、そうでない私の姿はあまりにもかけ離れていた。
「何が起こったのか、…それとも起こしたのか、覚えている人はいましたか?」
「いいえ。一人も」
「…そうですか」
私は、沈黙した。
星は見えない。見えても多分、私の知っている星座は見えない。月が翳り、ぽつぽつと雨が降り出した。
「テントの中へどうぞ。この雨はあなたにとって毒ですから」
私は無言のまま、シャボンのような膜を突き抜けて、白い発光体が照らす半球体の部屋に入った。
白い灯りは、暖かだった。
テントには、雨水を集める器具がついていた。
「あの雨は、私達の養分なんですよ」
案内役がそう答えたので私は慌てた。
「あ、すみません、私に構わずお食事してきてください」
すると、案内役は毛を一本ぴこぴこと左右に振った。
「いえ、昨日済ませたばかりなので大丈夫」
「そ、そうですか」
案内役の食事間隔は一体何時間置きなのだろう。
「…地球は、まったく新しい生態系に生まれ変わったんですね」
「ええ。そして、生き続けています。さて、明日に備えて今日は眠りましょうか」
「はい」
こんな様変わりしても、やはり夜は眠くなるらしい。
不思議な世界に放り出されたのに、私の眠りは深く深く、疑いようも無く明日のためのものだった。
こめんと。
何があってもどうにか生きようとするもの。現実がどんなに望みとかけ離れていても。多分ね。