意識していない時にしか見えない。
意識していない場所にしか見えない。
そういうものがある。
視界の端を掠めたものを、
ふと振り返って確認する。
よくあることだ。
ある日公園のブランコの傍に、
大人くらいの大きさの黒い塊がうごめくのを見かけ、
思わず振り返った。
その正体は、ただのゴミ袋だった。
ブランコを囲う柵に引っかかり、軽く風をはらんで靡いていた。
今時まだ黒いゴミ袋があったのかなどと思いつつ、
そのゴミ袋が再び風にさらわれることがないよう、
念入りに丸めて公園のゴミ箱に押し込んだ。
大概はそんな他愛も無いものが正体なのだが、
たまに正体が確認できないことがある。
何かが視界の端を掠めたと思ったのに、
そちらに注意を向けると何も無い。なんてことが。
ノラ猫やカラスが、確認する前に物陰に隠れただけかもしれない。
見えたような気がしただけかもしれない。
けれど、同じ場所で、同じ状況で、繰り返しそんなことがあると、
やっぱり何かあるような気がしてくる。
他に注意を向けている時だけ見えるのに、
注目されると姿を消してしまう何か、が。
場所は、ゴミ袋を見かけた公園だ。
ジャングルジムの中に、子供くらいの青いものを見かけた。
今度はブルーシートかなどと思いながら振り返ると、ない。
なんだ、見間違いかと最初は通り過ぎた。
翌日は、滑り台の階段あたりで青色を見かけた。
振り返ると、またもや何もない。首をひねった。
犬猫の色ではない。子供だとして、振り返るまでの一瞬で隠れられる場所がない。
ブルーシートのようなものだとして、一瞬で視界から消えるような突風はなかった。
この公園で青い色が使われているのは、あさっての場所にある登り棒だけだ。
しばらくゲーム漬けだったので、目が疲れているのか。
その後しばらくは、無視することにした。
公園前を通ると必ず見る、というわけでもなかったからだ。
この公園を通る時間帯はばらばらだったためだろうか。
朝方バイトから帰り、午前の講義を終えてアパートで昼飯を食い、
午後の講義のためまた大学へなどという生活だったからだ。
しかし、やがて気が付いた。通る時間はばらばらなのに、
帰りに青いものを見かけたことは一度もない。見かけるのは必ず行きのときだ。
行きは右手に公園が見えるから、右目だけ悪くなったのだろうか。
しかし、眼鏡の度は合っている。視力は変わっていない。
さすがに気になって、その公園をうろついてみたが、
子供を迎えに来た親に不審気な目を向けられただけで、大した収穫はなかった。
その後大学へ行き、学食で夕食にしていると、
「なんだお前、金欠か?えらく小食だな」
と友人に声をかけられた。盆を眺めなおすと、並盛りの白米と味噌汁とひじきの煮物しかない。
普段は必ず肉か魚の主菜をとるし、白米なんて大して高くもないので大盛りを頼む。
だが、その日は食欲がわかなくて肉・魚にも大盛りの白米にも手が伸びなかったのだ。
そういえば寒気がするような気がする。
風邪でも引いたかもしれないと思い、図書館でレポートを書く予定だったのを止め、
早々にアパートへ帰った。
翌朝の目覚めは悪くなかった。とっとと寝て正解だったかと思いつつ、
燃やせるごみを出して、二度寝のために部屋へ戻ろうとした時だった。
部屋のドアを開いて中へ入ろうとした瞬間、左側に見える蝶番の隙間から青色が覗いた。
振り返ると、注意を引いたはずの青いものはなかった。
ドアの影を確認したが、やはり何もない。
それからは、公園で青いものを見かけることは無くなった。
代わりに、自分のアパートに入る瞬間に見かけるようになったのだ。
今度は左右関係ない。多いのは蝶番の隙間だったが、レジ袋を提げた右手のあたりだったり、
時には頭上だったりもした。
ただし、入る時限定。
これはもう気のせいでは済まなくなった。
いるのだ、注意を向けられると姿を消す何かが。
オカルトに傾倒しまくっていた当時の自分は、もう見える程度では驚かなくなっていた。
なっていたはずだった。そしてその何かは、ちらと見えるだけだった。
しかし、自分に正体不明のものが付きまとっている。それだけでもう落ち着いてなどいられなくなった。
これはいつ何をされるかわかったモンじゃないと、サークルの先輩に連絡を取ろうとした。
その先輩とは、尊敬と侮蔑をない交ぜにして師匠と呼んでいる、正体不明のオカルト好きだった。
だが間の悪いことにこんなときに限って捕まらない。いや、捕まらないことは多々ある人だが、
せめてこんな時くらいは簡単に捕まって欲しいなどと、自分勝手なことを思った。
自分は師匠の姿を求めてサークル棟と師匠のアパートとを何度も往復し、
植樹がアスファルトにぼこぼこと根を伸ばしている歩道で5度ほどけつまづいた。
ようやくアパートで師匠の姿を見つけたときには、
思わず玄関でそのままがっくりと膝をついてしまった。
そんな自分の様子を見て、師匠は低く篭った含み笑いをした。
「僕のこと探してたんだって?」
「知ってたんなら連絡くださいよ…」
抗議の声に、師匠はけろりと答えた。
「携帯、圏外か電源入ってないってなってたよ。サークル棟行ったらすれ違いでいなくなってるし。こりゃ無駄だなと思った」
「無駄って…どういう意味ですか」
圏外になるような場所へ行った覚えが無い。さてはバッテリー切れかと確認したが、それも違った。
「あんなもんくっつけてるからだよ。でも、会えたってことはいなくなったんだな」
「俺に何かくっついてたの、知ってたんですか!?」
「先週だっけか、夕方にお前が学食から出てくとこ見てたんだよ。捕まえようと思ったら、逆に僕が歩くに捕まってな。お前はねぐらにまっしぐらだったし」
歩くとは、先輩の彼女のことだ。
先週、学食から出て行くところというと、食欲が無くてアパートへ帰ったその日に間違いなかった。
「そのとき会えてれば…」
足を棒にせずに済んだ、という言葉は、もう声にもならなかった。
「無理だ、僕は『あれ』に徹底的に嫌われてるから。惜しいことしたよなあ」
「き、嫌われてるって師匠、あれに何したんすか!?」
驚きのあまり、俺は玄関から土足のまま師匠に這い寄った。
「あ〜、とりあえず靴を脱げよ。僕が先月、ゼミで仏像実見の旅行に行ってる時のことなんだけど」
「はあ」
靴を脱ぎながら相槌を打つ。
「お前コンビニで立ち読みしようとしたろ」
「はぁ!?」
なんでそこでそんな話になるのか。
「俺の立ち読みが、何に関係あるんです」
「その時一度手に取った雑誌を、読まないで棚に戻したろ。多分、お目当ての連載が休みだったんじゃないか?」
そういえば、そんなことがあった。習慣でつい雑誌を手にとってから、先週その作者にしては珍しく休載のお知らせがあったのを思い出したのだ。そのとき、確かに師匠は旅行中だった。
「で、その後ペットボトルとガムだかなんだかレジ脇にあるやつ買って店出たろ」
話が詳細すぎる。そんな些細なことをいちいち覚えておく人間などいるだろうか。
「…それ、もしかして」
「あの青いのが見てた。もっともお前はたまたまその場にいて『あれ』の視野に入っただけだけど」
「ちょ…そ、その他にも俺のこと見てなかったでしょうね!?」
「何度も見てるらしいがたいしたもんは見当たらなかった、つまらんヤツだな。『あれ』はずっとこの辺にいるから、ウチの大学の学生やらこの辺の住人やらはほぼ全員『あれ』の視野に入ったことがあるらしい」
つまらなくていい、充分だ。俺は胸をなでおろした。
「しっかし、良い趣味だよ。お前を見かけたとき、『あれ』はOLの万引き現場に夢中になってた。自分自身は見られることを死ぬほど嫌がってるくせに、そんなことばっかしてんだよ」
「の、…のぞき趣味ですか!?」
「ああ。痴漢・盗撮・スリ・万引き。アイツの見たものが証拠になるならここは前科者だらけの町になるな。それが面白くてもっとあいつをいじくろうとしたら今のザマだ」
師匠を探し回ってかいた汗が、引きかけた途端に冷汗へと変わる。
自分も既にある意味で道を踏み外しているが、さらにその外へ踏み外すことはすまいと思った。
覗く方にも、覗かれる方にも、覗くモノに嫌われるようなことをした師匠の方にも。
いや、しようとしても、できまい。
自分が意識を向けていない視界の隅に、いつ、自分を見ているものがいるかもわからない。
それだけで背筋がミシミシ言うほど強張っておびえているようなヤツにはできない。
したくないこととできないことがイコールなのは安堵すべきことだろうか。しかし無性に情けなさも沸いてくる。
師匠の方は、そんな俺の様子など、お構い無しに話を続けていた。
「自力じゃたいして動けんくせに、覗きと逃げ回ることだけはやたら巧いヤツだ。他に芸がないから特化してんのかね。おまえにくっついたからしめたと思ったんだが…どこでどうやって離れたんだろうな?」
俺は翌日、その疑問の答えをぼんやりと知ることになる。
植樹の根が張っている歩道。俺が5度も躓いた場所。
師匠がそこへ近寄れるようになるまで、俺はその道を避け続けた。 |