イーファの樹にて
「ああ、馬鹿が来たよ」
イーファの樹の中であいつを見つけ出した瞬間に浴びせ掛けられたのは、そんな第一声だった。
「何だよ、ご挨拶だな」
オレは肩を竦めて言いながら、あいつの隣に座った。
イーファの樹の幹にあった、巨大なうろの中。飛び込んだ時に入り口は塞がれてしまったけど、イーファの樹の芯に近い場所である分、かえって暴走が届くのが遅いらしい。
静かだ。今も外ではイーファの触手が、大地と自分の身を削り取りながら暴れているだろうが、その音もはるか遠く聞こえるだけ。
当面は安全そうなことを確認してから、オレは手足を投げ出して力なく横たわるあいつを、無遠慮に眺め回した。
「えらい怪我だな」
思わず顔をしかめると、あいつはまるで他人事のように呟く。
「自分でやっておいてよく言うよ」
もっともな減らず口だが、その声さえ力ない。生気の無い目で、ぼんやりと空中を見つめている。なにしろ全身血まみれだ。火傷やら、切り傷やら、骨も内臓もやられてることは一目で分かった。吐血までしたらしくて、いつも以上に青白いあごの辺りが、べっとりと赤く染まっている。
服の裾に跳ねた泥さえそのままにしておけないあいつが、その自慢の顔を拭いすらしていなかった。
オレが傍らに座り込んでポーションを取りだし、怪我の手当てを始めようとすると、あいつはうるさそうにオレの手を振り払った。
「殺そうとしておいて、今度は助けるのかい?本当に馬鹿だな。とっととお仲間と逃げれば良かったじゃないか、こんな奴放ってさ」
皆にもそう言われた。
自分でも少しそう思う。
でもさ。
「助けられるかもしれないと思ったからな」
そう思ったら、我慢できなくなった。
そんな風になってしまったのは、いつからだったか。自分を見失わないために選んだ生き方が、いつの間にか体質になってしまった。
『生きるって、難しいね…』
そう呟きながらも、ビビは『いってらっしゃい』と、微笑んでくれた。
『行かなかったら、きっとジタン、後悔するもの』
そして今、オレはここにいる。
「それだけかい?」
訝しげな質問に、オレは胸を張って答えた。
「そうさ。その他に、誰かを助けるのに理由がいるかい?」
にっと笑うオレに、あいつは白けたような表情でそっぽを向いた。
「気が遠くなるほど馬鹿な話だよ」
「その馬鹿さ加減が、どうやらオレらしいって事みたいなんでね」
あいつの視線がそれた隙に、オレは勝手にあいつの傷を調べ始める。
するとあいつは明後日の方を向いたまま、不快そうにオレの手を押し戻そうとした。
「なんて身勝手な奴なんだ」
すかさずオレは言い返す。
「先にオレ達のことを助けておいて、よく言うよ。どうやったのかは知らないけど、ヒルダガルデもあんたの差し金だろ」
すると、あいつの手がぴたりと抵抗を止め、ぱたりとあいつの胸の上に落ちた。
「さあね」
だまされてやる気も起きないほどやる気の無いとぼけ方に、オレは聞こえなかったフリをした。
抵抗が止んだのをいいことに、あいつの体にポーションを振りかけながら、ずけずけと言ってやる。
「しかも、本当なら自力で逃げられたのに、オレら8人を安全なところまで転送したせいで力尽きたんだな?オレが馬鹿ならあんたは大馬鹿じゃないか。何でそんなことしたか、答えてみろよ」
おかげでビビもダガーも皆無事に逃げられたけれど。今は礼より言いたいことがあった。
ポーションが染みるのか、オレの口の聞き方が不快なのか。わずかに顔をしかめたあいつは、しばらく沈黙した末にぽつりと呟いた。
「…そんなの、僕の勝手じゃないか」
「そうさ、勝手さ。そのあんたの勝手を無視するのも、オレの勝手だ。お互い様って事さ」
まさしく身勝手なオレの言い分に、あいつはすっかり呆れたようにため息をついた。
そのため息が、やけに細く浅い。瀕死の怪我人のくせに、よく喋るところはあいつらしいなと思ったが、実際にはそんな悠長なことが言えるほど楽観的な怪我ではなかった。出血は、オレが辿りつく前に、もう止まっていたようだったけれど。
もう、流れ出る血も大して残っていないのかもしれない。そんなことが頭を掠めたが、オレは平然とした顔を崩さずに、あいつの手当てを続けた。
あいつを死なせる気は、毛頭無かったから。
しかし、もう何本もポーションの栓を抜いてはあいつの体に振りかけたのに、傷が上手くポーションを吸い込まない。はじき出されたポーションに血が溶けて、蝋を塗ったように白い肌を伝って落ちた。
さらにポーションを開け、青ざめた唇に向けると、あいつはそれから逃げるように顔をそむけた。
「やれやれ、最後の最後まで僕の思惑を叩き潰してくれる…今まで色々やってきたけど、結局何一つ思い通りにならないまま終わるとはね…」
むっとしたオレは、ポーションを突き付けたまま、呆れたように言った。
「オレらを散々きりきり舞させておいて言うことじゃないな。世の中、思い通りに事が運ぶことの方が少ないんだぜ。それこそ生まれた瞬間から死ぬまでそんなもんだろ」
すると、オレが突き付けたポーションから目をそらして、投げやりな調子で言い返す。
「は、そうだね。それこそ生まれ方すら選べなかったんだから。ならなおのこと死に方くらい、自分で選ばせてくれって言ってるのさ」
その台詞に、オレは片眉を上げた。
言葉だけ見るなら、あいつが言うにはいかにもふさわしい台詞だと思ったのだ。
生まれ方を選べないのは、生き物全ての運命。何もあいつに限ったことじゃない。ビビ達黒魔道士や、オレやミコトと言ったジェノム達だけのことでもない。けれどあいつは、
『この僕が、虫ほどの価値すらない、ただの人形だと!?』
『認めないよ……僕の存在を無視して世界が存在するなどと……』
多分そうやって、自分の預かり知らぬ事情で生みだされたということ、その理不尽さに対して、ずっと抗い続けてきたのだろう。
それが過酷な選択だったことは、想像に難くない。あいつの置かれていた状況はオレら以上に理不尽だらけで、耐えず戦い続けなきゃならなかったはずだから。いっそ、長いものに巻かれてしまった方が楽なくらいに。
それでもあいつは楽な方を選ばずに、抗い続けてきた奴なのだ。
けれど、だからこそ。その投げやりな言い方が癪に障った。
しかもあいつは、その投げやりな調子でさらにこう続けたのだ。
「…もう、どうだっていい。生きる価値も無いような僕なんか、助かったってなん…」
パシャ、と、顔面にポーションをぶっ掛けられて、あいつは言葉を止めた。
「生きる価値の無い命なんか、ない」
考えるより先に、断言していた。
普段のあいつなら、顔にポーションを浴びせ掛けられたら、激怒していたのかもしれない。そういう奴だとオレは思っていた。怒らせたって構わなかった。
けれど、あいつはただ目を軽く見開いて、ちらりとこちらを見ただけだった。
そんな腑抜けたような態度がさらに気に食わなくて、空になったポーションの瓶をその辺に叩きつけ、ことさら冷たい声で言い放った。
「んなこと考えてるなら、なおのこと死なせるわけには行かないな。自分の価値くらい自分で見つけ出してから死ね」
見開いた目をすうっと眇めてオレを見て、あいつは訝しげに言った。
「…僕のやってきたことを、君は許せないんじゃなかったのかい?」
オレはそんなあいつを睨みつけて、とうとうとまくし立てた。
「ああ、許せないさ。だが、あんたに価値がないなら、その価値のないあんたに傷つけられたたくさんの人達の…ビビや、ダガーや、襲撃された街の人達の苦しみはなんだったんだ。ただ無意味に苦しんだだけか。冗談じゃない!そこまでしてあんたは何がやりたかったんだ、それすら忘れちまったようなその言い様はなんだ!!」
一息に言いきって、オレはふんと息を吐き出し、あいつの答えを待った。返答次第じゃ、とどめにならない程度に横っ面張ってやろうとさえ考えた。
頭では、その怒りが自分のエゴだと言うことも気がついていた。だが、言いたいことを我慢する気はこれっぽちもなかった。あいつに、自分の意見を押し付けることに、罪悪感なんか沸かなかった。いっそ怒れば良いとさえ思った。
多分オレは、あいつを怒らせて、歯向かわせたかったのかもしれない。
そんなオレに対してあいつは、うるさそうに顔をしかめながら、一応の答えをよこした。
「僕のやりたかったこと?…そんなの、気に食わないものを全部捻じ伏せてやりたかっただけだよ。ガーランドも、テラも…」
まるで寝入りばなを邪魔されたかのような口調は物足りなかったが、横っ面張り飛ばすのは延期しておくことにした。
「なんだよ、自分がやりたかったことくらいは覚えてたか」
『気に食わないものを、捻じ伏せてやりたい』。
その気持ちから発生した行動は、確かに最大にはた迷惑なものだった。オレ達が、あいつをぶちのめしてでも止めなきゃならなかったほどに。
でも、その気持ち自体は、そんなに奇異なものでも、罪のあるものだとも、オレは思わなかった。だってあいつが『気に食わない』と評したものは、確かにあいつにとって理不尽なものだったはずだから。
理不尽なものに抗おうとするその気持ちは、
『あの時、こうしてる間にも戦争のために仲間がつくられてるって考えたら……ボク、何がどうあっても、そんなことはイヤだって思ったんだ』
『ああ、なってやろうじゃねえか!おまえらの死神にな!!』
そんな台詞を吐いたビビやオレと、どのくらい違うって言うんだろう?
なのにあいつときたら、考えることすら億劫なように首を振り、
「でも、それがなんだって言うんだい?結局何も、成し遂げられなかったじゃないか」
と呟いた。
あまりの勘の悪さに呆れつつも、真上からその顔を覗きこんで言ってやる。
「…あんたなあ。成し遂げるだけが価値じゃないんだ。じゃあ、それまでそうやって生きてきて、何だって最後の最後にオレに『生きろ』なんて言ってくれる気になったんだよ?」
すると、あいつはしばらく自分の頭の中を見渡すように、視線で空中をさまよった。
「…別に、理由なんかない。君らに負けて、失うものが何にも無くなって、空っぽになった頭で、君らがあがいてるのが目に入った時…ふと、思ったんだ。このまま君らが潰されてしまうのは、気に入らないと…それだけだ」
それだけだあ!?それが一番重要なんだろう!?
その疲れ切ったような口調に、オレは思わず、見えない天を仰いだ。
ふと思った?あがいてるオレらを見ていたら?
そりゃ、オレらが理不尽な話に抗ってたからだろ?あんたがそれまでそうしてきたように。だから、それを黙って見てられなかったんだろ?
そんな気持ちが、空っぽの頭に思い浮かんでくるくらい、抗い続けようとする気持ちは、あんたの骨の髄まで染み込んでいたんじゃないのか。例えばオレが『誰かを助けること』を生き方として選び、いつの間にかそれが体質になっちまったように。
しかもそれは、あんたの置かれた状況では、一番辛い選択だったはずなのにだ。やり方はまずかったけどさ、やろうと思ったって、出来ることじゃないんだぞ!
なあ。それってすごく価値のあることなんじゃないのか?
なのに、今のこいつはそのことを見失ってる!
思わず『寝ぼけるな』と頭をはたいてやりたくなった。そうすれば、理不尽な扱いに腹を立てて、何か思い出すんじゃないかと思った。
…だけど。ため息をついて、考え直す。
それも無理の無い話なのかもしれない。『自分のことが、一番見えない』と言うくらいだ。このナルシストでさえ、いや、ナルシストだからこそ、自分の価値を見出すことは、難しいのだろう。
けれど、こいつを素直に誉めてやるのも、あっさり回答を教えてやるのも癪に障った。
だから、むっつりと、
「それがあんたらしいって事なんじゃないのか?」
とだけ、言った。
「僕らしい…?」
あいつが、驚いたように目を見開いた。
「そうだ。それが何かは、自力で思い出せ。それまでは絶対死なせてやらない」
オレはそう言って、新しく栓を抜いたポーションを、あいつの口に突き付けた。
あいつは、まだそれに口をつけようとはしなかったが、目を背けようとはしなかった。オレを見上げ、心底不思議そうに訊いた。
「君はまるで、僕の価値を僕よりも分かっているようなことを言うね。君は僕を蛇蝎のように嫌ってるはずなのに」
オレはちょっと返事に困った。ポーションを引き戻し、しばらく考え込む。
こいつの価値をすんなり分かっちまう理由について、オレは自覚があった。けれど、それをこいつに教えてやることに、ちょっと躊躇いがあったのだ。
沈黙するオレに、あいつは『まさかと思うけど』と前置きして言った。
「もしかして君、実はそんなに僕のことが嫌いじゃなかったりするのかい?」
図星だ。オレは思わずポーションを落としそうになって、慌てて瓶に両手を添えた。『しまった!』と思った時にはもうおそい。その反応は、そのまま肯定の意思表示になってしまったようだ。
あいつは、そんなオレを『信じられない』と言った顔で見つめた。正直オレ自身も、あんまり認めたくない。
怪訝そうな顔をして、あいつが尋ねた。
「僕は人に嫌われるようなことしかしてこなかった自覚があるんだが…何故だい?」
その答えは、素直に言うのはちょっと照れくさいものがあった。
ごまかすために、ポーションをあいつに押し付けた。
「んなことどうだっていいだろ。早く飲め」
すると、それから逃げるようにしてあいつが言う。
「良くないね、飲んで欲しかったら教えてくれよ」
「んな暇あるかよ、ここだっていつまでも安全なわけじゃないんだ」
「は、散々おしゃべりしといて今更。まだ話す暇くらいある」
「いい加減にしないと口移しで飲ますぞ」
「冗談!君から口移しされたら馬鹿が感染るじゃないか」
なんだってそんなことを知りたがるのか。まるで説明を渋る大人に『赤ちゃんはどうやって生まれるの』と訊くガキみたいだ。いつも飄々として、こんな些細なこと馬鹿馬鹿しくて気にしていられないとでも言いそうな奴が、どういうわけかどこまでも食い下がる。
段々威勢が良くなってくる口調に、あんた死にかけてるんじゃなかったのか?と訊きたくなってきた時だった。
あいつは、オレのことをじいっと睨んで宣言した。
「教えてくれないと、君は僕に一目ぼれしたんだとみなすよ」
全身の血が下がると同時に、どっと力が抜けた。
正直、頼むから止めてくれと叫びたくなった。考えるだけで怖気がさすような話だ。だが、下らない。実に下らない。『だからどうした』で済む話じゃないか。まるきり子供のケンカだ。無視してもいいはずの脅迫だったが、そのあまりの下らなさに対してオレは白旗を揚げることにした。
どうしても隠さなきゃならないことでもない。そんなことを思われるよりはまだマシだ。オレは照れ隠しに、不機嫌な顔を作ってぼそぼそと言った。
「…おまえがいなきゃ、ビビは生まれなかったからさ」
あいつが、言葉の意味を捉えかねたように聞き返した。
「……ビビ?」
「そうさ。ビビがいてくれたおかげで、今のオレがあるんだ」
…『だから、感謝してる』とまでは、やっぱり言えなかった。
でも。それが、あいつにとって世界を捻じ伏せるための手段だったんだとしても、オレはビビを生み出してくれたと言う一点において、確かにあいつに…感謝、していたのだ。
それが、きっかけだった。あのビビを生み出してくれた奴が、ただの最低最悪の悪人だと思いたくなかった。どこかに、いいところもあるんじゃないかと無意識の内に探していた。
あいつをぶちのめすために追っていたはずが、段々その考えは否定できないものになっていった。そして。
『あの人と、ボクと…どれほど違いがあったんだろう…?』
テラから戻った時、ビビのそんな呟きを聞きながら、オレは結局あいつのことを憎みきることが出来ないらしいと言う結論に辿りついた。
その思いは、多分ビビも同じだろう。
「…まるで、恋人のことでも語る時のような顔をするね」
あいつのそんな言葉を聞いた瞬間、オレは何を今更と思った。
「ようなも何もまんま恋人…え?」
言いかけてから、話がどこか食い違っていることに気がつく。
まさか…。おそるおそる見ると、あいつはおよそ見せたことも無いような、ぽかんとした顔をしている。
「恋人、だって?…ビビが、君の?」
全く寝耳に水といった顔に、オレの顔は引きつった。
と、言うことは、つまり…。
「…………」
「…………」
お互い完全に事態を飲み込むまで、数秒の沈黙が降りて。
オレ達は、ほぼ同時に悲鳴を上げた。
「おまえ…知らなかったのか!?」
「僕が何でも知ってると思わないでくれ!」
何だって『知らない』などと素直に認めそうに無いあいつが、えらくらしからぬ台詞だった。
オレはオレで、『あっちゃ〜』とばかりに頭を抱え込む。考えてみれば、あいつがいちいちオレらの人間関係まで、チェックする理由はないのだ。せいぜい、人質として利用できるレベルかどうかさえ、把握しとけばいいんだから。
知られたって構わないことなのだが、あいつがあまりに驚愕しているので、ひどく気まずい気分になった。
「ああ、そうか…おかげで、腑に落ちなかったことが、いくつか飲み込めたよ…」
寝転がったまま、真上を向いて、あいつがため息と共に呟く。
「君とビビが、恋人ねえ……」
ふと、あいつが呆然と表情から、久々にものを考えている顔へと変わった。
一体何を考えているんだろう?今この時になって、こんなことを知って、こいつがどういう感想を持ったのかなんて、オレには分かりようも無かった。
『恋心なんて、馬鹿馬鹿しい』とでも思っているのだろうか?『そんな理由で感謝されているなんて、馬鹿馬鹿しくて有難くもなんとも無い』なんて、いかにもあいつの言いそうな台詞だよなあ。
そんなことを思っていたから、あいつがしばらくしてくすくす笑い出しても、オレは驚きはしなかった。
あいつに馬鹿にされようとどう思われようと構いはしないのだが、面と向かって嘲笑されるのは流石に気分が悪い。
「おい、笑ってんじゃねえよ」
言ったところで笑い止んではくれないだろうなと思いつつ、一応そう言っておいた。
しかし、あいつはそんなオレの言葉すら聞こえていない様子で笑っている。
何か様子が変だった。最初はくすくすとしたものだった笑い声が、段々大きくなっていく。どうも、本人も堪え兼ねているらしい。
「おい?何がおかしいんだよ?」
やっとオレは様子がおかしいことに気がついて、あいつを覗きこんで尋ねた。だが、そんなオレのことが、全く目に入っていないらしい。
あいつは笑っていた。頭のねじが一本飛んだんじゃないかと思うような勢いで、全身を痙攣させながら身をよじって腹を抱え、自慢の顔が奇妙にゆがんで涙が出るほどに笑い続けている。
あいつが顔を崩すほど笑うのなんて初めて見た。
人を嘲笑する時のあいつは、いかに人を馬鹿にした表情を作るかを意識していることが、明らかに伺えた。なのに、今はそれがない。
その笑い声も、以前聞かせられたことのある笑い声とは、全く違っていた。以前のあいつは、いつ声がひっくり返るか、いつ喉が破れて血が出るかと不安になるような、ヒステリックな甲高い笑い方をしていた。それを聞くたびに、ぶん殴ってでも笑うのを止めさせたい気がしたものだ。けれど今の、腹の底から溜まっていたものを思いきり吐き出すような笑い声は、聞いていてもあまり腹が立たなかった。
しかし、あいつをこんな風に笑わせているのは、一体何なんだろう。
オレが首を捻っていると、やがてあいつは疲れきって笑い止み、息も絶え絶えで涙を拭いながらこう言った。
「は、は、は、…あ、危なかった、いくらなんでも笑い死にはしたくない…」
「…で?すんでのとこでとどめになるほど何がおかしかったんだ?」
笑い止むのを待ち構えていたように尋ねると、あいつはふ、と自嘲に近い笑みを浮かべた。
「いやあ、自分のやってきたことが一体なんだったのかと思うと、おかしくてね」
さっぱり意味が分からなくて、眉間にしわを寄せたオレに、あいつは話し始めた。
「…あのさ。君をインビンシブルからガイアに向けて放り出したのが、僕だってことは、知ってたかい?」
「インビンシブルからってのは初耳だけど、あんたがってのは知ってる」
それがどうかしたんだろうか、と思っていると、あいつは話を続けた。
「でも、これは知らないだろう。その時と同じように、カーゴシップからビビを海に向かって放り捨てたのも、僕なんだ」
オレが何か言おうとするのを横目で見ながらも、それを制するようにあいつは話を続けた。
「いずれ僕の地位を奪う君。不良品の黒魔道士のビビ。どちらも僕にとって気に食わない、要らないものだったから、同じように放り投げたのさ」
話しながら、あいつはまたくすくすと笑い始める。
「だから、ブルメシアで僕は天地がひっくり返るかと思うほど驚いた!何しろ、僕が不要とみなして放り捨てた奴らが、2人揃って目の前に現れたんだから!ということはひょっとして、君らの出会いにも、多分間接的に僕の存在が関わっていたりするんじゃないのかい?」
その言葉に、オレはビビとの出会いを思い返してみた。もしあいつが妙な暗躍をしていなかったら、タンタラスがガーネット姫を誘拐なんてしなかっただろうから…。
「…そう言うことになるな」
なんてことだ。
過去を呪うのは、元々主義じゃない。呪ったところで起こってしまった事は、覆らない。だが、これではそれこそあいつを否定出来やしないってことだ。
何を言いたいのかをやっと理解した様子のオレを見て、あいつはハッと息を吐き出した。
「全く、これは喜劇だよ。僕の人生は、君達と言う恋人同士を作り出すためにあったようなものじゃないか。とんだ道化だ!これを笑わずにいられるもんか!?」
嘲るような言葉だったが、オレの目にはあいつが面白がっているように見えた。判明した事実に対しては複雑な気分がしたが、その考え方は起こりもしなかった「もしも」を立て並べるより、ずっと前向きなんじゃないだろうか。
「あんたがあんたらしく行動した結果がそれなら、悪くないんじゃないか、それも」
するとあいつは、不意に笑いを静め、目を細めて言った。
「そう、かもしれない」
けれど、次の瞬間その顔に、厳しい表情が浮かぶ。
「でも…だとしたら、僕の作り出した恋人達は、随分と悲劇的な結末を迎えることになりそうだよ」
言いたいことはすぐに分かった。さっきから悠長におしゃべりなどしているが、実際には閉じ込められているのだ。うろから見上げれば、複雑に絡み合った死んだ幹の隙間から、微かに光が覗けるだけ。耳を澄ませば、イーファの樹が大地を突き崩す音が、小さくではあるがひっきりなしに聞こえてくる。
「片や宿敵と一緒に御陀仏で、片や帰らぬ恋人を待ちながら寿命を迎える…救いのない話だ」
確かに、今のままだとその可能性もある。
でも、ここへ向かう時、ダガーに言われたのだ。
『「いってらっしゃい」なんて言ったビビの気持ちが分かるなら、帰ってきなさい。必ず!』
分かってる。だから、オレはきっぱりと答えた。
「オレは死ぬ気はない。ビビも死なせる気はない」
あいつが、じっとオレを見上げて問う。
「どうやって?」
「ビビの延命の方法を見つけ出す。必ずだ」
「君に見つけられるかな。宝捜しとはワケが違うよ」
「知ってる。ミコトに協力を取り付けてある」
「君のサル頭じゃそれが賢明だな。それでも保証はないけどね。僕は黒魔道士の短命の原因を知ってるけど、後天的に治療する方法なんて思いつかな…」
「それでも」
オレは最後まで聞かずに遮った。
「見つけてみせる」
するとあいつは軽く目を伏せて、
「そうかい」
と、短く言った。
「で。何気なくごまかしてるつもりだろうけど、ここからの脱出方法について答えないと言うことは、そっちも考え中なんだね?」
思わず答えに詰まるオレを見て、あいつは深いため息をついた。
「…馬鹿の極みだね…」
「う、うるせえっ」
「耳元で騒がないでくれ。さ、そのポーションを寄越したまえ」
言いながらあいつは、握り締めていたオレ自身存在を忘れかけていたポーションを、自らもぎ取った。
「飲む気に、なったのか?」
「笑い死にも嫌だけど、馬に蹴られて死ぬのはもっとお断りだからね。とりあえず、聞き分けておくことにするよ。僕がもうちょっとまともに動けるようにならないと、君も身動きが取れないだろ?」
そう言ってあいつは一息にポーションを飲み干す。
そしてすぐに、ゆっくりと上半身を起こしたものだから、オレは目を剥いた。顔色の白さは相変わらずだけど、傷はいつの間にか塞がっていた。
「あんた、いつの間に…」
「君が散々振りかけたポーションのせいに決まってるだろ」
あいつは平然と答えたが、一瞬動きがぎこちなかったのを、オレは見逃さなかった。…無理をしていることを、隠しきるつもりなのだ。
それを指摘しようとしたけれど、止めた。
あいつが、顔を濡らしたポーションと血液を、そでで拭っているのが目に入ったからだ。
拭い終わると、あいつはにっと笑って、オレを見た。
その顔がたたえた笑みは、自分の容姿を知り尽くしたあいつが、もっとも様になるように周到に計算した、毒気と覇気をたっぷり含んだ笑みだった。
「さて、逃げる算段をつけようか」
その時だった。頭上で、バキバキっと、何かが炸裂する音がした。
反射的に見上げると、うろの周囲に張り巡らされていた幹の壁を食い破って、イーファの蔦が襲いかかってくるのが目に入った。
「危ない!」
慌ててオレはあいつごと蔦をよけて倒れ込む。
しかし、その避けた方からも別の蔦が襲いかかってきた。
オレは胴を、あいつは腕をあっという間に絡め取られる。
「ああ、悠長におしゃべりしてるからこんなことになるんじゃないか」
あいつが、この事態にしては妙に緊迫感のない台詞を吐く。
「仕方ないだろ、誰かさんがらしくなく腑抜けたことばっかぬかすから、調子が狂ったんだ!」
言い返しながら、短剣を抜き、あいつの肘を掴んで蔦を切り払おうとした。
ところが、掴んだあいつの腕が、がしっとオレの腕を掴み返した。
「もう遅い、見ろ」
あいつの目配せにしたがって見て、オレはぞっと全身の毛が逆立った。あいつの腕が、蔦に絡めとられた部分から、石化し始めているのが見えたのだ。
「畜生!」
慌てて蔦へ短剣を突き刺そうとするのを、あいつが引きとめる。
「間に合う訳ないだろ!そんなことより、力を貸せ!」
「力!?」
間に合わないというあいつの言葉は正しい。聞き返しているうちに、別の蔦がどんどんオレ達の全身へ絡みついて、動きを封じていく。
では、あいつはどうしようと言うのか。
「そうさ、今の僕にはろくに魔力は残ってない。だが、君の中から魔力を取り出せば…」
喋る内に、あいつの体がどんどん石化していく。オレの体も、胴の部分から石化が始まって、新たに絡めとられた腕も、片や短剣を握り締めたまま、片やあいつとしっかりつかみ合ったままで固まっている。
その、石化して既に感覚がなくなっている、握り合った腕の部分が、段々と光り始めていた。同時に、体から何かが抜き取られていくような気がした。この光の色は、覚えがある。
「転送か!?」
「ああ。ただ、石化しながら魔法を使うなんて芸当は経験がないから、多分魔力を上手く溜めて置けな…」
そこで、あいつの言葉が途切れた。もう口の部分まで石化が進んでしまったからだ。
あいつを呼んだつもりだったが、オレももう喋れなくなっていた。あいつの銀の髪まで石化が進行したのを最後の光景に、視界も閉ざされていく。
五感を閉ざされ、静寂の暗闇の中へと放り出される。
一瞬、もう駄目かもしれないと言う考えが、脳裏を過った。途端に、動かない体であがこうとする気力が、信じられないほど簡単に抜け落ちていく。異常な眠気が襲ってくる。その眠気は、苦痛を全く伴わないがゆえに、絶対的に抗いがたかった。
急激に鈍くなっていく危機感。混乱している間に、引き摺り下ろされるようにして、眠りに墜落しそうになった瞬間。
『しっかりしろ!意識まで石化を受け入れれば、魔力を取り出すどころか、元に戻ることすら出来なくなるぞ!』
頭の中へと直接送りこまれてきた怒鳴りつけるような「声」に、オレははっと鈍くなりかけた思考を取り戻した。
『僕は魔法の方に集中するから、もう声をかけてはやれない。多分普通に魔法を使うよりはるかに時間がかかるだろう。どれくらいかかるかは分からないが、その間は自分で何とかするんだ』
その言葉に、オレは意識にのしかかる重みを押し返しながら、了解と問い返しの意思を送る。
『僕?はっ、僕がこんなものに負けるものか。無用な心配だ。それより君はなるべく僕が魔力を取り出しやすいように意識をこちらへ向けておいてくれ』
さっきまでとは比べ物にならないような威勢の良い言葉に、オレは苦笑しながら、意識だけで頷いた。
しかし、そんなやり取りをしている間に、その思考を邪魔しようとする何物かの黒い手の感触がまとわりつき始める。
それを必死にはね返し始めたオレの思考へ、あいつは最後にこう呼びかけた。
『いいかい、愛しいビビの元へ帰りたかったら、抗いきれ!何が何でもだ!!』
その『声』は、この状況にもかかわらず、妙に楽しそうなものだった。
オレが、その後の無言の戦いを乗り切ったのは、多分、その言葉のおかげだったような気がする。
そして。
目を覚ますと、最初にうつったのは、薄紫に染まった空。
意識にまで迫ってくる石化を押し返し続ける戦いが、どのくらいの時間続いたのか、検討もつかなかった。数時間か、数日か、数週間か。何にしろ、長い長い時間の格闘に疲れきった意識に、その光はひどく優しかった。
石化が解けたばかりでぎしぎしと悲鳴を上げる関節を伸ばしながら、起きあがって周囲を見渡すと、そこはイーファの樹の外れの、丘の上だった。
見ると、イーファの樹は、あの暴走がまるで嘘だったかのように静まり返っている。しかし、あの出来事が嘘ではなかった証拠に、周囲の地形がかなり変わり果てていた。
東の空が白んでいる。もうすぐ朝日が昇るらしい。
ぼんやりした意識で、そこまで確認して、はっと我に返る。
あいつが周りにいなかった。
「おい!?どこ行った!?」
まさかあいつ…。
思い当たったことにぎくりとして、オレは再びイーファの樹へ向けて走り出しかけた。
けれど。そんなオレの上を追い越した黒い影に、思わずぎくりと立ち止まった。
「…銀竜!?全滅したはずなのに!?」
だが、見間違いようもなかった。翼を持ち、首の長い、銀色の巨大な生き物。オレ達が神竜を倒した瞬間に、全て消滅したはずの、銀竜。
それが一匹、ゆっくりと空を横切って、イーファの樹へと近づいていくのだ。
オレは目を剥いて、その光景をじっと見詰めていた。
銀竜は、まるで楽しむようにゆっくりと空を渡り、イーファの樹へと近づいていく。人間の3倍以上の大きさのある銀竜さえも、巨大なイーファの樹に近づくとまるで小鳥のように小さかったが、それでもその動きははっきりと見て取ることが出来た。
銀竜は、踊るようにイーファの樹の周囲で旋回を始める。
何度も同じところを往復して、何かを探しているようでもあったし…その姿を見せつけようとしているようでもあった。
やがて、イーファの樹の裏側へ飛んでいき、その姿が見えなくなる。
しかし、オレは銀竜の姿が死角に入っても、じっと銀竜のいなくなった辺りを凝視し続けた。
ややの時間の経過があって。
「…来た!」
再び、銀竜が視界に戻ってくる。
再び現れた銀竜は、イーファの樹をゆっくり半周すると、まっすぐに海へと向かい始めた。
ますます、小さくなっていく銀竜の姿。オレは、その背に目を凝らした。
「……!」
一瞬。銀の髪がその背にたなびくのを、捉えられた気がした。
気のせいかもしれない。銀色の竜だ、見分けなんかつかない。
それでも。
にっと笑って目配せした様子が、見えた気がした。
オレは、銀竜の姿が見えなくなるより先に、くるりときびすを返した。
ここにはもう、オレがすべきことは何も残っていないから。
疲れきった体を引きずるようにして、オレは、オレが帰るべき、そして、今オレが一番すべきことがある場所へと向かい始めた。
『抗いきれ!何が何でもだ!!』
そう言ったあいつの言葉に、応えるためにも。
こめんと
…なんつー話だ。なんでこんなことになったんだろう。しかも私、多分『あいつ』が死ぬとこは書く気がないらしい。ええっとちなみに、これは「夜が明ける前に」の、<下り坂(☆)>バージョンだと思っていただくとよろしいかも。「ビビを放り投げたのは僕」と言うのは、<上り坂>の「発端」参照でごぜーます。つまり、あの話は(☆)とも共通の話なんです、実は。
この話、何が何でも『あいつ』が主人公です。『オレ』じゃございませんので、『ジタビビ』は、この話にとって味付けでしかありません。
しっかし…なんなんでしょうね。どうも私、『あいつ』とは相性が悪いみたいです。嫌いってことじゃないです。<上り坂>の「夜があける前に」の後編は死ぬほど難航するし、「発端」は書いてる最中にデータ半分飛ぶし、今回悩んだわけでもないのにどう言うわけか無駄に死ぬほど時間を食いました。おかげで異聞が書けず終い(死)呪われてるとしか思えませんなあ。
でもどーしても『あいつ』を嫌いになりきれない辺りが、特に呪いだと思います。
生き物と言うのは、生まれただけで生きる資格も権利も義務も持ってます。生きただけで、それは意味だし価値だと思います。それは、その人が悪人か善人かとは、基本的に関係がありません。例えば、「シンドラーのリスト」という映画がございました。映画の中のシンドラーの価値は、救った人間の数じゃなくて、救おうとしたその心です。彼のように映画にならなくても、一人でも人を救おうと思った人がいれば、彼と同じ価値を持っていると言うことです。シンドラーの場合は、『あいつ』とは全く逆のパターンな訳ですが、そこにある理屈は全く同じなのです。
と、言う風に私は思ってるわけですよ。ええ。