2006年3月31日 ネギィ君からの手紙
『2号からの手紙'06春・秘密』 2004年1月のことだった。 ある男が、山口晶というミュージシャンのファースト・アルバムを聴いていた。タイトルは『夜の地図』。発売されたばかりだった。何度目かの『駅前オンステージ』という曲が流れていたときのことだった。男はふいに頬を伝うものを感じた。自分でもなぜだかその意味はわからなかったが、あとはもうどんな曲がかかっても止まることなく滴り落ちるばかりだった。歌詞の意味を噛みしめるでもなく、山口晶の音と声が入力されさえすれば自動的に出力がなされる回路が働いているかのようだった。どんな感情がわき起こったというのでもなかった。 一体どういうことなのか? 男はCDを聴き終えて落ち着くと、振り返って考えてみた。そういえば『振り返りもしないで』という曲に差し掛かったとき、こんなことを思っていた。「山口晶という人間は、なんとさびしい男なのだろう」と。違う、それは違う。他人は鏡だ。そう思ったからには、思った自分こそがさびしい男なのだ。男はそう気付いた。様々なことに合点がいった。 男はもう長いこと、「さびしい」という言葉を口にしたことはおろか、心に浮かんだことさえもなかった。幼い頃にはあったのだろうが、もう霧の向こうのことだ。いい大人が「さびしい」と言うことは理解出来なかった。自分は「さびしい」という感情を持たない人間なのだろうかと思っていた。 そうではなかった。男にもその感情はあったのだ。だが、そんな感情は意識に上せることすらもなく、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱に放り込んできたのだ。不必要だったし、何しろ彼は男だった。「さびしい」という言葉は他人に訴える言葉だから、口にしないのなら一人心中で思い抱え込んでも仕方ない。男はだから、その感情にいちいち「さびしい」と名付けることもしなかったのではないかと考えた。というより、その感情がいわゆる「さびしい」なのだと知らなかったというだけのことか。とにかく定義されていなかったから、さびしさの感情がわいてきたとしても、「さびしい」と思うことはなかったのだ。そしてゴミ箱の存在さえもいつの間にか忘れ去っていたのだ。 男はそれまで、山口晶の音楽を聴くといつも浮遊感を感じてきた。それはつまり、ゴミ箱のところへ飛ばされていたのだと思った。そして見えないその塊の周囲を「ここは何だ?」とぐるぐる回っていた。これが浮遊感の正体ではなかったか。 男にとって『夜の地図』は、「忘られたゴミ箱の街の地図」だった。男の頬を伝ったものは、その過去の遺物への手向けだったに違いない。これからは、ゴミ箱の中の「さびしんぼう」のことは意識の片隅に置かれることだろう。ただし関係性にはやはり何の変わりもないだろう。 男は思った。このことは他人には語れない。あまりにプライベートであり、男が口にすることではない。しかし、いつかは。ファンサイトにおいて山口晶ファンを標榜する身なれば、その音楽に引かれる理由の一つの核心たるこのことについて、ファンらしく表明すべきかもしれない、していいのかもしれない……。 その一年ほど後から、男は何度もあのことを記そうかと考えた。だがその都度先延ばしにして、また一年が過ぎたのだった。 とある山口晶ファンの話である。 |