Traffic Accident 2010.9.12
 2010年9月、生まれて初めて骨折を伴う事故に遭った。その経緯が面白くも勉強になったので記録しておきたい。


#1 発生

 9/12は日曜日。その週、試験を受ける予定があり、午前中より本を持ち出し、もみの木森林公園に向かった。片道1時間近くかかるが、家にいると今のようにPC開いて遊んでしまうのがオチ。緑の中での開放的な空間は意外に集中できる。標高の高い涼しい場所でもあり、避暑の目的もあった。
 通常なら夕方ぎりぎりまでいるが、この日は夜に友人と食事の予定があり、13時台に帰路に付いた。藤の木から山中の抜け道を通り、信号のある見通しの悪い交差点を左折し加速。このとき14時過ぎ。以下こちら目線から時系列で。

 信号のある交差点を左折。普段からよく通る片側一車線の県道。左折後はなだらかな左カーブで、左側は水田か畑の法面。高さは2mほどあり見通しは悪い。視界が開けたとき、予想できない状況が展開していた。
 道路左の駐車場敷地内からトラックが右折中であり、自分の車線を完全に塞ぐ。ライダー心理としてまずどこかに回避できるルートがないか探した。左はトラックの後部がまだ駐車場に残っている状態。左カーブ加速中からさらに左へきるのは不可能。トラックの前部はすでに反対車線の半分に達し、目の前はもう完 全な壁。選択肢は一つしかなく、フルブレーキングしながら右へ回避行動を取った。自分からみて右奥、反対車線の路肩側に通れる隙間はわずか。もし抜けられ たとしても次の対向車が待っていたら終わり。それ以前に、止まれそうにない。迫るトラック。

「このままではバイクごとぶつかる。」

 意図的に右へ転倒させた。バイクは滑走しトラックのバンパーへ突っ込む。人間は道路を転がる。起きようとすると右足に激痛が走ったが、ここはまだ公道上。本能的にゴロゴロしながら反対側の歩道へ逃げた。目の前には壊れたVWビートルが数台止まっている。
 退避した場所はクルマ屋さんの敷地内で、近くにいた二人がすぐに駆け寄ってきてくれた。肝心のトラックドライバーの記憶は薄い。真っ先に四肢の感覚を確認した。右足は痛いから大丈夫。左足OK。両手も動く。

「脊損なし!」

 ヘルメットを確認。表面に今ついたと思われる傷はない。目も見える。

「頭部外傷なし!」

 右半身の裂傷と右足の激しい痛み。右の腰背部が痛いのが気になる。腎臓に何かなければいいが。

「ヤバイなぁ・・・。」

 このころ、普段の生活を休むことは出来なかった。下手をすると無駄な一年を過ごすことになるかもしれない。道路はトラックと挟まったバイクで、完全に塞がれた状態。誰かが抜こうとするが、がっちり挟まって取れない。仕方なくそのまま下がっていく。

「ガリガリガリガリ。」

 バイクが挟まったまま目の前を引きずられていく。正直、自分の足より痛かった。(笑)


#2 アンビュランス

 ほどなく警察と救急車が到着。簡単な状況説明の後、救急車に乗せられた。血圧に急激な変動はない。どうやら腎破裂など臓器の大出血はなさそう。闇雲に動いては無駄になるので、受け入れ病院を確認してからのスタートとなる。市内の救急病院が可能との説明を受け、了承し走り出した。救急車に乗るのはこれで4 度目。
 生まれて初めて救急車に乗ったのは今からもう26年前、大学1年の春だった。アメリカンフットボールをやるため大学に入学。春季オープン戦の明治学院戦で、左足靭帯を損傷した。とりあえず搬送されたのが、大学グランド近くの脳神経外科。5日後、関東労災病院に転院した。なぜ脳外科だったのかいまだにわか らない。実際処置らしい処置はなかった。
 関東労災病院は、スポーツ整形外科を持つ怪我に強い病院で、同室6人部屋のうち4人がアメリカンフットボール選手というよくわからない環境。同じ時期、当時現役選手だったバレーの中田久美も入院していた。怪我の方は内視鏡検査で靭帯が断裂していないことが判明。すぐに退院した。このときの一番の思い出 は、ロッキー3のテーマ曲。

Survivor 「Eye of The Tiger

 手術は下半身麻酔。肛門も弛緩するので絶食後浣腸される。18才の屈辱のあと排便ガマン。少しでも長く耐えたものが病室の英雄となる。浣腸ですら優劣を競うとは、若さというのは本当に素晴らしい。(笑)そして、手術に送り出されるとき部屋のみんながかけてくれたのがこの曲だった。
 この2月1日、今日の一曲に選んだ。翌日の試験に験(げん)を担ぐため。見る者を奮い立たせるボクシング映画のテーマ曲であり、初めてのオペの不安を和 らげる忘れることの出来ない曲だった。なにかの壁に立ち向かうときいつも思い出す。それにしてもあれから26年とは、今日話をした多くの友人たちはまだ生まれていない。
※この4年後、試合中本当に左膝靭帯(前十字・内側)を断裂したが、救急車など呼ばず、自分の車(ジムニー・MT)を運転して関東労災病院に行った。
 2度目は3年生か4年生の時の練習中、身体中の緩んだ側すべての筋肉がつりはじめ、救急車で近くの聖マリアンナ医科大東横病院に運ばれ、電解質輸液を受けた。これはおそらく今でいう熱中症。
 3度目は91年頃のアルバイト帰り、目黒通りをモンキー走っていて、ウィンカーを出さず幅寄せしてきたトラックに押し出され、ガードレールに接触。「怪 我はないからいい。」というのに、強引に救急車に乗せられ、都立大学駅近くの本田病院に搬送された。もちろん異常なし。よく言われることだが、この4度すべてにおいて感じたこと。

「救急車の乗り心地はとても悪い!」

 話は9/12に戻る。
 まず家に電話。家族が驚くのは無理もないが、連絡しないわけにはいかない。どうしても手がいるときには連絡するので、待機するよう伝えた。次に夕飯を食べる予定だった友人に連絡。こちらもどうしようもなく無期延期。そうこうているうち病院に到着。当直医師に状況説明をして検査を受ける。

「折れてなければいいが・・・。」

 レントゲンを見たドクター開口一番。

「ボキボキやね。」

(コラッ!)

 患者の不安への配慮一切なし。ま、わかりやすいし、正直嫌いな表現ではない。翌日の入院とオペ調整を頼み、タクシーで一度帰宅した。
 帰って最初にしなければいけないのがバイクの回収。入院してしまえば困難になる上、損傷の程度を自分で見ることが出来なくなる。JAFに連絡し、すぐに再会することが出来たが・・・。

「フォークいっとる。」

 傷はともかく、チェンジペダルが飴のようにひん曲がってギヤ固定。クラッチを握ってエンジンを掛けてみたが、とりあえず問題ないよう。フレームは見た目では判別できない。何とかなりそうだが費用しだいか。
 次に病院の再検討。挙げた要素は。

・休みたくない(試験の連続)
・松葉杖で通える距離
・かかりつけ医
・母親の負担軽減
・移動交通費削減

 ACL(膝前十字靭帯再建術)をおこなったかかりつけの整形外科を検討してみた。(大学時代の靭帯断裂は7年間放置し、広島に帰ってからこの病院で再建した。)試験を受けるためには、救急搬送された病院からでは若干距離が伸びる。健康ならまだしも、松葉ではわずかな距離が大きな負担となる。かかりつけ医からなら歩いて(健康な場合)10分かからない。
 もっとも重要なのが母親の負担軽減。ただでさえ父を介護しているのに、2人もみさせるのは絶対に避けたい。自宅内での松葉杖は非常に障害物が多く、トイレ移動すら不自由。悩んだあげく、セカンドオピニオンとばかり夜遅くタクシーで行ってみるが、当然ごとく対応不可能。焦って無駄足を踏んでしまった。骨折 した足はパンパン。


#3 Patient Experience

 翌13日、朝からそのかかりつけ整形外科で再検査。まず、肩、肘、腰など、擦過傷や打撲があった部分は異常なし。問題の足は、右第3・4・5中足骨、距骨骨折と診断された。中足骨とはちょうど指に分かれる手前の部分で、距骨は足首を構成する骨の一つ。折れてるのは中足骨の遠位端3箇所。第3の中指と第4 の薬指は転位(ずれたり離れたりすること)はなかったが、第5の小指は数個に粉砕していた。第3と距骨は放置しても問題ないとのこと。第4と第5に経皮的 ピンニング術という手術が行われることになった。
 この手術は、骨の中心にいわば「芯」を入れることで強度を上げ、付くのを待つという方法。つまり手前の骨から金属棒を突き刺し、骨折した骨を貫通し、次の骨に固定するというある意味だんご3兄弟。素人考えではそれを2年後くらいに取り出すと想像したが、なんと6週間、指の裏から棒が出っ放しという。
 ドクターの説明を受け納得した。埋め込もうが出ていようが骨が付くまで荷重は掛けられない。埋め込んでしまうと、再度麻酔を伴う手術を要する。刺入部からの感染を防げば、6週間後抜くだけ。

「抜くだけって・・・。」

 まあ深く考えないことにしよう。
 木曜、絶対休めない試験を終え午後すぐに入院。金曜に手術が行われた。マイケル・ジャクソンを死に至らしめたプロポフォールで5秒以内に昇天。2時間だか3時間だかたって、無事現世に帰ってきた。腓骨神経麻痺も身を持って体験。
 今回の骨折のメカニズムを検証してみた。キーは距骨。足首に靭帯損傷がないため、こねた様子はない。距骨は足首を構成する中心的な骨であり、指以外でそこだけが折れているということは、指先から玉突き的な力が加わったのではないか?小指が粉砕しているのもそれで説明が付く。
 救いはFOXのオフロードブーツ。足首さえ動かせないガチガチのブーツで、本来ならスニーカーで出たいところだが、問題はオフロードバイクのステップにあった。剣山のような金属製で、ほとんどスタンディングで乗ってることもあり、普通の靴では土踏まずがあっという間にボロボロになる。もしこの日このブーツを履いていなかったなら、「ボキボキ」どころか、「ぐちゃぐちゃ」の開放骨折になっていたかもしれない。
 装備は上はTシャツ、長袖Tシャツのレイヤード、下はジーンズの軽装だった。排気量が小さいから安全という根拠はなく、もちろん反省すべき点ではあるが、この時期まだかなりの猛暑で、プロテクターガチガチのジャケットで出るのは無理だし、これからもそう。けっこうな擦過傷に反し、長袖Tシャツが擦り切 れた程度だった。ブーツ、ヘルメット、グローブ、その他の衣服もダメージなし。

 回避能力の効果は大きい。別に自慢ではないが、客観的な要素としてこれまで経験してきたスポーツが役に立っている。
 まず中学2年から高校1年までやった器械体操。宙に浮いている時間に落ち着いてものを考えることが出来る。競う相手は自分という、性格的にはとても向いている面白い競技だったが、高校では顧問の先生と折り合いが悪くなったのと、身長が大きくなり過ぎ続けることが出来なくなった。床運動では助走距離が足りないし、そもそも大きいものは回転効率が極端に落ちる。
 次に大学時代のすべて、アメリカンフットボール。一見事故とは何も関係がないように思えるが、これが大有り。当時うちの大学は低迷期にあったが、それでも全国ではトップリーグであり、チームメイトにもアスリートがそろっていた。ディフェンシブラインというポジションは、要はボールを持って走ってくる敵を倒せばいいというわかりやすいもの。ところがそう簡単にはいかない。100m11秒台がトップスピードで向かいあう。計算しやすく、仮に12秒フラットで時速に換算すると。

100m12秒−500m1分−60分30,000m=30km/h

 ラグビーを元に、持久力よりフレッシュな戦力を投入するアメリカンスポーツは選手交替自由。常に元気な時速30km以上の人間同士が正面衝突。

「これって事故やん。」

 実際には常時激突では身体が持たず、お互い芯を外してぶつかるが、キックオフリターンはスピードも乗っていてかなりの破壊力だった。何百回という「事故体験」で、衝撃を受け流す能力が身体に刻み込まれた。
 最後はやはりオフロードでの経験。ダートでは嫌というほど転倒している。フロントからのスリップダウン、リヤのスリップダウン、ハイサイドなど色々な ケースがあり、それぞれ挙動が異なる。自らバイクを転倒させたことによる結果はとてつもなく大きい。発見から衝突までおよそ3秒。もしまともにぶつかっていたら、左足にとんでもない怪我を負っていたことは、こちらのバイクと相手のバンパーの損傷具合が物語っている。

 結局、入院は1ヶ月半に及んだ。自分で判断し2度退院を決めたが、友人の助言により撤回延長した。前述のとおり、家族への負担軽減と移動距離短縮のメリットは大きく、本当にありがたいアドバイスだったと感謝している。また、車で送ってくれたり、情報を伝えて貰ったり、技術演習に付き合ってくれた友人たちにも感謝!
 談話室で、朝から晩まで本を開いていた。他にやることのない入院期間に、集中して得た知識はなにものにも変えがたい。大きな後遺症もなく、貴重な患者体験をした1ヵ月半は、なにかのプレゼントだったのかもしれない。

※ 棒刺入部を濡らさなければ大丈夫で毎日風呂に入れたが、患部付近のにおいと垢は尋常じゃない。何日かおきに消毒するのだが、実際には不潔極まりなく、人間は強いものだと妙に納得。
 この厚くて臭い垢を取るのがとても達成感がある。特に手の届かなかったところが厚さ1mm以上にもなり、剥がしているとき表皮剥離しているのではないかとビビッた。まさに脱皮した感じ。またこの臭さが快感になりつつあった。変?

 棒を抜くとき普通のラジオペンチが出てきたのにはドン引き。薬指はすぐ抜けたが小指は固着してかなり手こずった。痛みはそれほどでもないが、ビジュアルと身体の中が振動する感じはもちろん気持ちがいいものではない。7-8cmも刺さっているのに翌日には全部風呂に浸けていいという。なんとなく感染しそうで、もう一日あけた。刺さっていた棒を記念に一本貰おうとしたが、医療廃棄物で処理するという理由で却下された。

 たくさんの思い出が残る病室や談話室だったが、病棟の移転に伴い、この3月、駐車場になってしまった。


#4 Drive+Ride=Rehabilitation

 10/29薬指のピン抜去、11/5には粉砕していた小指のピン抜去、そして翌11/6、約50日ぶりに自宅に帰ってきた。(入院期間中どうしても必要な物を取りにタクシーで数回帰宅している。)
 まずは風呂。ドクターの指示では傷も浸けていいということだったが、昨日まで深さ7-8cmも穴が開いていただけに、大事を取って、入院中と同じく患部をビニールで覆ってシャワーのみ。
 退院した当日の11/6、計画していた旅があった。

「毎年恒例、佐賀バルーンフェスタ。」

 さすがにバイクは無理なので、午後から車でスタート。(実は松葉杖を背中にしょってバイクで行けないかと真剣に検討した。笑)
 足の状況はというと、ピン固定のためギプスは巻いておらず、術後すぐにリハビリを開始したため、患部以外の機能低下はほとんどない。さらに平日はほぼ毎日外出していたため体力も維持。それどころか、往復20分の両松葉杖歩行で、(ボディバランスは損なうが)ある意味筋力はアップしているかもしれない。退院時は両松葉だが全荷重の許可は出ており、転倒に注意しながら自己判断で単独歩行してよいとのこと。ただ、しばらくは装具継続で、歩きにくいうえ靴も履けない。
 佐賀では、毎年再会する友人や、マイナリストたちとも合流し、とても楽しい旅だった。
 11/12には宮島SA。これは以前からの気分転換方法で、10Rで高速を一区間だけ走り、サービスエリアで休憩するというもの。わずか34.5km、1時間弱の小さな旅は、嫌な出来事があっても簡単にリセットできる。
 そして問題の事故車。攻撃的厄落としは、事故発生時身に付けていた同じ装備で帰ってくること。曲がって動かないシフトペダルを取り外し、バイスに固定してぶったたく。若干波打ってはいるが、シフトチェンジに支障はない。フロントフォークは左右曲がっているが、こちらもなんとか自走可能レベル。
 起こってしまった災いとバイクや装備には何の因果関係もない。あの場所を同じ状態で安全にクリアすることですべての厄は払われる。現場直前の信号を左折し、加速した。

「なるほど・・・。もう一度同じ状況におかれても、避ける自信がない。」

 事故というものは、たくさんの偶然の積み重ねにより発生する。自分と相手側の判断、気象や時間、そして魔のタイミング。数秒早く通っていれば何事もなく通過していただろうし、数秒遅ければ停止してやり過ごしていた。もみの木を出る時間が少しでも違っていたら、夕方の予定時間が違っていたら、手前の信号が違っていたら・・・。ぶつかっていくあの瞬間から逆算すれば、それこそまるで映画のような、また他人事のような客観的不思議を感じる。

「それにしても・・・。」

 見慣れた景色のなんと新鮮なこと。何気ない風景が光り輝いている。最小限のダメージで済み、またこうして走ることが出来る幸せに感謝せずにはいられない。長年の経験が、どんな危険も回避できるという根拠のない驕りを生んでいた。骨折をもって一つのケーススタディを経験したが、得たものは一つではない。 ブラインドコーナーの先には悪魔が潜み、あらゆる死角から「おいでおいで」している。ビビリミッターではなく、安全に乗り続ける知識。
 前述のとおり、骨折部位以外大きな機能低下はなく、その後の通院は5回。リハビリはなく、レントゲンで骨の付き具合の確認が行われただけ。運転し、ライディングすることが最善のリハビリテーションだった。事故発生時の装備品で捨てたものは一つもない。むしろ元気に復帰できた守り神ですらある。
 以降第二幕、過失割合の攻防へ。


#5 実況見分

 実況見分については入院中警察から再三の連絡があり、退院後に日程を調整、11月下旬に行われることになった。事故後二ヶ月半もかかるのは異例とのこと。
 話は前後するが、入院中のお金の流れについて触れておきたい。
 まず相手方保険会社より国保を使って欲しいとの依頼があった。これについては若干の知識があり、裏を取って承諾した。自己負担は過失割合によって決定するが、全体が膨らめば負担も増えるのは当然。最小限に抑える必要があった。
 手術費、入院費や装具代には全て相手方に任せ、特殊な検査や外出するための文書料、タクシー代を一時負担。上記理由からなるべく使わないようにした。

 実況見分当日。事故以来初めて相手ドライバーと顔をあわせた。結論から書くと、この人の肉声を聞いた覚えがない。そして、顔をあわせたのも事故発生時とこの日の2回のみ。過失の交渉を前に謝罪は期待しないが、怪我の程度をうかがう言葉の一つさえなかった。これはその後の相手となる運送会社の経営者にも当てはまる。
 現場検証を仕切った警官はハズレ。こちらが相手を最初に視認した地点を確認する際、車視点、つまり中央線寄りの轍で見ようとする。
「バイクはコーナーのイン側(左コーナーのため路肩側)を走るので、気付くのはかなり遅れると思います。」
すると、
「わしもバイクに乗っとったからわかる。」
と言いつつ、結局中央線寄りでの計測。このことが不利な展開を招いた反面、意外な結果をもたらすことになった。
 次に8.8mのスリップ痕。これは時速約40kmの速度で急停止するときの長さ。ただしその後トラックと衝突していることから、停止ではなく40km~50kmのスピードが出ていたと判断された。
 そういえば、この検証ではすごい数のパトカーが来ていて驚いたが、すぐ先の交差点で事故が発生しており、別件とのこと。考慮材料だ。
 場所を変え、警察署での調書作成。窓口になってくれた若い警官は良心的で、「よく回避できましたね。」と言ってくれた。ただ反省として、リヤをロックさせてブラックマークをつくっているわけだし、もっとハードにフロントブレーキをコントロールできていたなら結果は違っていたかもしれない。
 最後にひと言。
「相手のドライバーに処罰を望みますか?」
と聞かれたので、
「望みません。」
と答えた。


#6 停滞

 2011年を迎え、事故からすでに3ヶ月以上が経過。これ以上放っておくとバイクが錆び付いてしまう。何気なくネットオークションを検索してみると、まったく同じ年式のフロントーフォークが出品されていた。同じものを純正パーツで揃えようとすると倍近くするうえ、車種的に出球が少なく、今後も出品される可能性は非常に低い。オークションでは初めてガチの勝負で競り落とした。とりあえずこれで乗れる。

 まだ寒いある日、広島の地方検察庁から電話が入った。内容は去年、実況見分の最後に聞かれたあの質問。
「もう一度確認ですが、相手に処罰を望まれますか?」
「望みません。警察でも同じように答えましたが・・・。なにか処罰の対象になっているんですか?」
 肯定こそしなかったが、何らかの処罰がなされるようだ。

 過失割合としてこちらの提示は2:8。判例集では1:9だが、現場の制限速度超過を差し引くと、客観的であり妥当。こちらの第一の主張は、交差点でもなんでもない一本道をただ走っていただけ。示談はすぐに成立するものと思われた。しかし予想に反し、事態は長期戦の様相を呈す。

 直接の連絡は自分が加入している保険代理店と行う。2-3週間おきに電話しても答えはいつも同じ。「相手側の見積もりと写真が出てこないんです。」
 そのうち、この代理店の担当者そのものに信頼感を失い、支店の事故処理係へ直接連絡を取った。この行動に対して、代理店担当者から何の連絡がなかったのにも驚く。

 5月下旬、やっとのことで相手方保険会社が見積もりを持ってきた。治療費はこの時点で相手方が全額負担しており、慰謝料や交通費を含めた総額に対して過失割合が適用され示談成立となる。お互いの車両に対しては、同じ過失割合に対して双方が残額を払い込むかたち。
 見積もり内容はともかく、提示された過失割合に驚きを隠せなかった。
「4:6」
 もちろん6が相手方だが、こちらのどこに4もの過失があるというのか?またその会話の中で出た内容に言葉を失った。
「バイクがカーブを膨らんできて転倒し、滑走して突っ込んできた。」
「アホか!お前がいなきゃ一本道を普通に通過だ。」
 客観的にみて仕方ない部分もあった。相手保険会社の直接のクライアントは、当事者のドライバーを雇用する経営者であり、展開される主張はいわゆる伝言ゲームとなる。それにしても。
 最も避けたかったのが、2:8と4:6の中を取って3:7というオチ。交渉のテクニックとはいえ、それでは何の根拠もなく大きく出た方が有利になる。そもそも、この攻防で発生する差額は2-3万程度。譲れないのは金額ではなく正当性の維持にあった。

 6月頃、現場となった相手方運送会社の駐車場が、引き払われたことを知る。まさか倒産したのではと驚いたが、存続はしている模様。

 9月。意図的か、何も考えてないのか、双方が一歩も譲らないまま1年が経過し、気持ちの消耗が目に見えてきた。
「早くケリをつけたい。」
 ゴネ得には納得がいかないが、涙をのんでこちらから3:7を提示すると。
「3:7も不可、3.5:6.5なら話に応じる。」
 まともな相手ではなかった。一個人を相手にその5分にどれほどのメリットがあるというのか?3:7自体こちら側の大幅な譲歩であり、大体、過失割合にコンマ5って?
 他の方法は?裁判なんて無理。こちらの保険担当より提案があった。
「交通事故紛争救済センター。」
 無料で継続できる最後の手段。弁護士が担当し裁定が下るが、結果に強制力はなく、相手が拒否すれば終わりという。しかしもう他の手立てはない。ブラフ的側面もあった。相手がビビるか、めんどくさがって合意するのでは?
 翌日相手から回答があった。
「受けて立ちましょう。」