2022
12.31 "Never Surrender"
 12月30日深夜。12月末まで契約の賃貸駐車場に退避していた自転車を回収。寒風吹きすさぶ真っ暗な河川敷を自走する。これですべての仮住まい転居が完了。
 行政は、「2月末までに上下水道とガスの配管の位置を決めろ」、「舗装後の掘り返しは自腹」と、ろくでもない要求をつきつけてきている。仮住まいはまだ段ボールの山。開く時間もなく、まだ何のつてもない新居の配管位置をあと2か月で決めないといけない。「ではいつ舗装?」と聞くと、「まだ決まってない」との返答。30年越しの区画整理がそんな成り行きで進んでいるのか。造成後の家の裏に車一台ほどの区画が余っているので買わないかと。減歩で狭くなった土地から駐車場のなくせば床面積を増やせるので魅力はある。「価格は?」に「まだ言えない」。バカなのか。おそらく過労とストレスの中で身体を壊させ、意のままにしようと思っているのだろう。
 建設交渉の若いのはその象徴。記憶だけで良い大学に入り公務員に。相手の気持ちを慮るなど微塵もないコミュニケーション能力の欠如。立ち向かおうにも、自分が払っている税金を後ろ盾に万全の対応策が準備されている。とにかく健康第一。それだけが唯一対抗できる力。

12.23 "Tonight's Sky"

12.22 06:47:33 "Winter Solstice"

12.7
"Moon Phases 2023"
Northern Hemisphere
Southern Hemisphere

12.1 "Tonight's Sky"

11.2 "Into the Sky"
 3年ぶり13回目のバルーンへ。開催されなかった去年おととしも訪ねたので思い入れは15回目。0:00目覚ましも起きだしたのは0:40。手早く空気圧とチェーンメンテをしてやつらに少し多めの食事をやって2:39廿日市ICイン。トラックが多すぎてなかなか距離を伸ばせない。古賀SAで給油ストップ。グローブを付け空を見上げた瞬間、火球クラスの流星が流れた。
 5:55佐賀大和ICアウト。6:30会場入り。ちょうど放送塔の下を通りかかった時メインMCのランドリーさんと目が合って挨拶。
 いつもの場所に。当たり前が当たり前じゃなくなったこの2年。志村けんを思い出す。コロナではないが、ここでものすごい歌を聴かせてくれていた葛城ユキも今年亡くなった。やはり当たり前ではないことを実感。
 7:00一斉離陸。何度見ても素晴らしい。珍しい彩雲を見た。会場でもアナウンスされたがその時にはもう消えていた。
 河川敷の土手に寝転んで深夜走行の帳尻を合わす。視界には佐賀平野の広い空だけ。宇宙は漆黒なのになぜ空は青いのだろう。会場のBGMとバルーンファンタジアのバーナーの音の中、12:00まで最高ランクの眠り。多くの人が行きかうこの場所で、5時間近く寝ていられるのは自分くらいだろう。
 起きだしてこちらもルーティーン旧千代雀酒造に。山王神社の古い社が取り壊され新しいのが建築中。吉岡秀隆と後藤久美子がいた場所が思い出に変わってしまった。
 そらりでランチとパフェ。そのまま行橋地蔵に寄ろうと思ったが、母のことを思い出し小月に変更。大正7年八月十二日、五十で亡くなった母方ひいばあさんリヱの墓参り。母がまだしっかりしていたころ、親族の情報を集めて探し出した。母は40歳も年上、こちらも追い抜いてしまった。孫が九十で逝ったことを報告。123便墜落事故と同じ日なのに気が付いた。
 帰宅すると、あさがおタワーが跡形もなく刈り取られていた。やつらが「腹減った」と詰め寄ってきた。当たり前がもっとも大切であることを再認識した一日。そんなこと書き残しているともう4:35。昨日の今頃は北九州辺りを走っていた。2時間半もすれば今日の競技が始まるのでネットライブで観戦。眠れない日が続きそう。

10.27 "Tonight's Sky"
 片付け、引っ越し、解体準備で忙殺される中、市との戦い始まる。

9.30 "Epitaph"
 生まれてからずっと、父の代からは80年以上住んでいる自宅がなくなるまであと少し。膨大な家財の選別、廃棄、仮住まいへの搬入に明け暮れる日々が続く。12月28日までに解体して更地にして受け渡すことになっているが、いまだ先が見えず。
 今日は家具の上にある箱の整理。多くが贈答品の布団や毛布。時代は変わり、寝具をもらうこともなくなって久しい。ある箱からまだきれいな大量の毛糸の玉が出てきた。幼いころ、母の手編みの服を着ていたのは、記憶というより写真によるところが大きい。
 ある映画がよみがえってきた。横溝正史「女王蜂」の中で、共犯の岸恵子が編み物の符号を暗号にして毛糸の玉の中の手紙を金田一に見つけさせるという印象的なシーン。同じように何か入っている気がして中心の巻き始めを探ってみる。多くが毛糸のタグだったが、中には紙屑を丸めて芯にしたものもあった。そういえば・・・。
 この玉のどれかに自分も関わっているでは。長い毛糸を両手に巻き交互に差し出す。それを母がピサの斜塔のような毛糸玉巻き機で巻き取る。ゴミ袋いっぱいになった毛糸をあらためて眺めた。どこかの編み物教室に託すことはできないか公民館にあたってみよう。来週の資源ごみへは一旦保留。もちろん捨てるのがいちばん楽なのはわかっている。こんなことをしているから作業は進まない。
 ひときわ目立つ行李(竹で編んだ衣装ケース)があった。珍しい蝶の家紋。調べてみると平家由来らしい。おそらく60年前の母の嫁入り道具の一つと思われ、当然物心ついたときからタンスの上にあった。開けたことがないとは言わないが、何が入っているのか見当もつかなかった。分厚いほこりを掃除機で吸い取り開いたその中は半世紀前。
「あー!」
 カラフルな毛糸のベスト。サイズはうちのネコ彦っちに合うくらい。アルバムを取り出した。昭和43年始めの写真には、その小さなベストが膝まである自分がハイハイしている。もちろん覚えはあるはずもなく写真で残っている記憶。おそらく母も捨てられなかったのだろう。母と話したくてしょうがない。
 行李はまだ衣装ケースとして使える。ベストは手洗いしてリビングにでも掛けてみよう。いつか自分がいなくなり、遺品整理で捨てられるまで。こんなことをしているから作業はいっこうに進まない。

9.29 "Tonight's Sky"

8.29 "懐かしい未来 ~longing future~"
 CT125の走行距離を西暦に見立て、過ぎ去った日々を楽しんでいた。自分の誕生から学生時代、全国を駆け巡った放浪旅、歴史的な出来事。約6km/日を一年に置き換えると、ちょうど犬が歳をとっていくスピード。信号待ちでは思いを巡らせる一方、見ることもなく過ぎていった年もある。そして今日、"今"に追いついた。
 驚いたのは、乗り始めてからぴったり1年だったということ。
 これからは未来への旅。いつまで一緒に走り続けることができるだろう。

8.20 "Tonight's Sky"

8.15 "Merry Christmas, Mr Lawrence"
 先日の長崎への旅。市内で沖縄ナンバーのクルマと出会ったとき、感じるものがあった。初めて端島(軍艦島)に上陸して今年で22年。この22年という歳月は、自分にとって特別な意味を持つ。
 自分が生まれたとき、戦争ははるか過去のものだった。「戦争を知らない子供たち」という歌も流行っていて、子どもだった自分にとってもどこか別世界の出来事。ベトナム、朝鮮戦争は物心ついていないし、フォークランドは地球の裏側。初めて身近に意識したのはパパブッシュの湾岸戦争か。当時運送屋のアルバイトをしていて海外からのコンテナを扱うことがあり、木枠にフセインを蔑視する落書きが書いてあった。そして今、ウクライナや東シナ海はもはや生活にまで影響が及んでいる。
 そこで22年。終戦から自分が生まれれるまでの年月。22年、たった22年。Y2Kが話題となったミレニアムの年。端島上陸を含む日本を縦断した年。はるか昔どころか、つい昨日のような記憶も少なくない。自分が生まれるたった22年前、たくさんの日本人が命を失い、ここ広島は70年草木も生えないと言われた。
 仏壇にある手紙を読み返してみた。日付は記載されていない。憲兵として満州にいた伯父から弟である父に宛てた手紙。海軍志願して落ちた父を慰め、父母を気にかけ、志願を思いとどまるよう書いてある。検閲の印もあり、憲兵である伯父がそのような内容の手紙を送れるのはまだ開戦直後だろうか。若すぎた父の志願が通らなかったのもつじつまが合う。戦局の悪化ととも十代の兵士が命を落としていったのは歴史が示す通り。実際父は19歳の兵士として終戦を迎えた。
 夫婦岩から端島を望み、あっという間の22年を想う。新型コロナウイルスは、自然を汚染し尽くし、数年おきに戦争を繰り返す人類を淘汰するための地球の意志ではないか。しかし亡くなっていく多くが高齢者では納得がいかない。世界は命を救おうとしているのに、ウクライナでは健康な人を殺す。安全な場所にいる一部の人間の命令で。
 野生動物は捕食と防衛のためだけに殺す。顔すら見えない不特定多数を殺す人類はもはや動物以下。小惑星衝突でも起こって一旦地球上の生物リセットもありかも。
 義夫伯父さん。明治大学時代下宿先の人妻と良い仲になって、戦後その相手が家に訪ねてきたことがあるらしい。母方の武助高祖父同様、話がしてみたいが叶わぬ願い。終戦の日。いろんな意味で、今を大切にしないといけない今日この頃。

8.2 "The Journey/It's Easy"
 鍵を受け取り仮住まいへ。ベストと思われる右折、信号の少ないルートを選択。慣れればルートを変え未知の帰宅の旅へ。これはこれで新鮮。広島海苔でとりあえずご近所さん挨拶済み。

7.29 "FOREVER"
 2005年7月、4度目の端島上陸の帰りに立ち寄った坂本国際墓地。トーマス・グラバーの墓の近くにあった小さな墓石に目が留まった。
"SYDNEY JOHN POWELL"
BORN JULY 28,1922
DIED JULY 31,1922
 4日間の命と出会って17年。今年生誕没後100年、満99歳。運よく一日休みが取れ、3:54廿日市ICのゲートを通過した。
 足はSWIFT SP。直前までバイクと迷ったが、ここ2か月背中の痛みに悩まされ、天気予報は真っ赤なギラギラマーク。台風の接近も不確定要素。これまでなら車の選択肢すらなかったが、還暦も意識する歳となり受け入れ良好。
 前日は夜勤。高速深夜割引き活用のためとりあえず4:00までに乗り、仮眠を取りながらこの100年に思いをはせる。以前調べた1922年を再確認。
 1922年 大正11年。父が生まれる4年前。シドニーの同級生は、水木しげる、山下清、小野田寛郎、千石規子、瀬戸内寂聴、ペギー・リー、クリストファー・リー、丹波哲郎、石井好子、内海桂子、別所毅彦、月丘夢路、加藤治子、そしてフグ田サザエ。そうそうたるメンバー。小野田寛郎は偶然にもつい数日前、映画「ONODA」を観たばかり。瀬戸内寂聴などは去年まで存命だったし、もちろんサザエさんは永遠の23歳。
 9:23長崎多良見ICアウト。最初の目的地に坂本の生花店を設定した。長崎は第二の地元の一つ。浦上あたりから、かつて歩いて散策した見覚えのある街並みが続く。長崎大学病院前のいわみ生花店で、シドニーに供える花を買った。
 17年ぶりの再会。今日7月29日は彼が生まれて2日目。誕生の喜びに包まれていたのか、何らかの先天性疾患から時を待つだけだったのか、もう知るすべはない。よく見ると、墓石の上部が台座になっている。建てられたころには十字架があったのだろう。
 17年前と同じくあたりの墓碑を読み歩く。シドニーの隣りにはトンプソン先生。FANNY LOUISE THOMPSON、1874年ボストン生まれ、1940年大牟田で没。おそらくアメリカ人と思われるファニー・ルイーズ。どんな先生だったのだろう。グラバーの墓の隣りにある長男倉場富三郎の墓。帰宅して調べると、ハーフが故の苦悩とともに生き、終戦直後縊死。壮絶な人生に引き込まれた。
 国籍は多種多様。イギリス、フランス、オランダ、ドイツ。フィンランドやスウェーデンもある。まったく読めない言語の区画もあった。夫婦が一緒に記されていたり、並んで建っているものもある。異国の地に葬られた人々はその多くが1800年代から1900年代にかけて。子孫を探したい衝動に駆られる。先日知った自分の母方のルーツにもリンクする。文字にできない不思議な感覚。時空がゆがみ、約200年が凝縮されたような浮遊感。
 蚊の襲撃と、うるさすぎるセミと、それこそうだるような暑さに現代に引き戻された。車にたどり着いた時点で、バイクはあり得ないことを確信。たぶん焼け死ぬ。
 旅の目的は達成。かつてマイナリストたちと駆け回ったこともあったが、自分自身の捉え方はソリスト。縁もゆかりもない赤ちゃんの墓を目指して400kmも走ってくるなど誰とも共有できない。
 まだお昼前。久しぶりに端島を見るため野母崎方面に走り出した。

 端島。通称軍艦島。初めて意識したのは公共広告機構のコマーシャル。体育館でボールが揺れるシーンは脳内再生できる。学生の頃、雜賀雄二さんの「月の道」をみて必ず行こうと思った。被写体としてあまりにも強烈な個性を放つ端島。撮影者は自分の色を出そうともがくが、釈迦の手のひらの孫悟空のごとく撮らされる。「月の道」は違った。雜賀さんの目を通してしか見ることのできない世界。手に入れたくなった時にはすでに絶版となっており、後年中古本を購入できた。雜賀さんとは01年ころのメールをきっかけに、細く長く交流させていただいている。
 2000年4月、念願の初上陸。堤防を越えた瞬間目に飛び込んできた端島小中学校。鳥肌が立った感覚を今も覚えている。翌年大学の同期カワダと2度目の上陸。この2回で、星の数ほどある部屋を行ける範囲でほぼすべて回った。03年には「軍艦島を世界遺産にする会」主催によるフォーラムに参加。相互リンクしていた坂本さんを中心とするNPOは、島を本当に世界遺産にしてしまった。05年7月16~17日、翌週23~24日と2週連続して上陸し、 帰りに寄った坂本国際墓地でシドニーの墓と出会った。もう島内で動き回ることはせず、最高所の職員住宅屋上でぼーっと海を眺めた。翌06年が最後となる5回目の上陸。この頃には堤防に立つなとか、滞在時間1時間で帰って来いとかで制限が厳しくなっていた。
 島のことを書く時、「軍艦島」や「廃墟」というワードを使わないよう意識している。自分の中でどこかネガティブな印象があるから。仕事場であり生活の場であった端島。ただただ日常があった。時間が止まったとか、自然に帰っていくとかも違和感あり。時間は確実に人工物を破壊する一方、少なくとも人類が存在しているうちには元の岩礁に戻ることはないだろう。
 今回シドニーの墓を訪ねるにあたり、野母崎からの遠望ですらもう10年経っていることに驚いた。毎年のように訪ねていた長崎からそんなに遠ざかっていたとは。R499を南下、岳路の峠を過ぎたころ端島が見え始める。この眺めが肉眼で見る最初の端島。すでに圧倒的存在感。
 夫婦岩にクルマを止め島を眺めた。初めて自分の目で見たあの日から22年。とても長い時間が経ってしまった。「資源とともに、島は死んだ」いやいや、生死の概念はなく人がいるかいないか、ただそれだけ。
 そのつもりはなかったが、軍艦島資料館の案内に誘われクルマを走らせた。ここも19年前フォーラムで訪れた場所。
 資料館を出た時点でまだ6時間の余裕あり。佐世保にある知人の墓参りに。こちらも10年ぶり。駅前にあるバスターミナルの九州銘菓で福砂屋のカステラ購入。あえて長崎市内で買わなかったのは、思い出の場所の一つだから。お店から坂を登った途中で、やせているが精悍なハチワレと出会う。ちょっとした一期一会。
 結局日帰りで930km。久々によく走った。

7.26 "Tonight's Sky"

7.16 ""
 母の銀行口座を閉じるため、母の誕生から婚姻までの戸籍が必要とのこと。島しょ部のため小為替を使った郵便請求。枚数不明のため余裕をもって3枚750円、なんと一枚ずつ200円の手数料がかかり驚く。どう考えても現金書留の方が安い。
 数日後、役所から電話、枚数が多いので小為替をさらに2枚1500円送れと。1回目と合わせて3750円と手数料1000円+2回の往復送料。もう診断書なみで開いた口がふさがらない。まさか知らない相続人がいるとか。送料不足の請求とともに届いた分厚い封書を開いた。

「・・・」

 そこには、5000円が惜しくないつながりが記載されていた。

高祖父母
武助 1837年(天保8年 大塩平八郎の乱)11月8日生
コメ

曾祖父母
弥一(武助二男)
1873年(明治6年)8月24日生(武助36歳)〜1945年(昭和20年)9月5日亡
タキヨ
1880年(明治9年)3月3日生 男7人女3人産む 父 空田清兵衛

祖父母
千代蔵
1897年(明治30年)4月1日生(弥一24歳)〜1937年(昭和12年)6月6日亡
タミヨ
1899年(明治32年)12月23日生〜1982年(昭和57年)7月31日亡

松村徳松(タミヨ父)
能美に墓。2000年代母と初めて参る。母も子どものころ行ったきりと。
田村リヱ(タミヨ母)
50歳亡。下関に墓があり2000年代に母と探して今も近くを通れば立ち寄る。


1932年(昭和7年)4月12日生(千代蔵35歳)〜2022年(令和4年)4月21日亡
広島市寺町で生まれていたことを知る。

 今生で出会ったのは祖母タミヨただ一人。ずっと民代だと思っていたが、戸籍上タミヨだった。20歳のころ、下関と釜山を結ぶ関釜連絡船で看護婦をしていたらしい。
 たくさんの情報が読み取れる。代々晩婚。いや、晩婚かはわからないが、当時としては歳を取ってからの子ども。高祖父母と玄孫がこの世で出会える家もあるが、武助はなんと天保生まれ、もう日本史の世界。幕末から維新を生きた。日清日露戦争のころにはもう60を過ぎており、1800年代に亡くなっている可能性もある。墓の刻印はもう風化して判読できない。
 曾祖父弥一の話は母から何度も聞いた。写真も残っていて毎年墓にも参る。妻タキヨとの間に10人の子をもうけたが、息子のほとんどを大戦で失い、現存する墓をたくさん建てた可哀そうな人。維新から終戦まで激動の時代を生き、72で亡くなっている。二男で家を継いでいるため、長男には何かあったのだろう。その妻タキヨの父、空田清兵衛は初めて聞く名前。どこの出の人なのだろう。
 祖父千代蔵は母がまだ6歳、41の若さで亡くなった。今は更地となった蔵には、蓄音機とたくさんのレコードがあり、ハイカラで経済的な余裕があったことがうかがえる。亡くなったのが昭和12年でかすりもしないどころか、母ですら記憶が薄い。分厚い戸籍謄本は、千代蔵世代の兄弟が重複記載されているためだった。現代と違って手書きの書類をスキャンしたもので、読み取れない部分もあった。
 もう一つ初めて知る情報は、母が生まれ育った島しょ部でなく市内寺町で生まれていたこと。番地も記載されているため、現在地を調べてみたい。13歳のとき、島で下級生を引率中キノコ雲を見ている。そのまま寺町にいたらドームからわずか500m。母は霧散したはず。
 高祖父母世代は、父方母方合わせて16人。出会いの中で何か一つタイミングが違っていれば、自分は存在せず別の誰かに。その不思議さに脳内は無限ループする。
 そしてもっとも興味深かったのが、高祖父の名前に自分の名前を見つけたこと。母はそれを知っていて付けたのだろうか。母が亡くなった今、もうそれを知るすべはない。
「武助さん、還暦もそう遠くないやしゃごが話をしたいんだが」

7.7 "YOU RAISE ME UP"
 自宅の庭最後のあさがおが発育中。いちばんの株は花壇外、こぼれ種から。天まで届け!

6.30 "Tonight's Sky"

6.28 "ボヘミアン"
葛城 ユキ 昭和24年5月25日~令和4年6月27日
 学生時代、交流のあった関西大学と定期戦があり、隔年でそれぞれの地元を訪ねホームステイしていた。その時泊めてくれた選手がカラオケで歌っていた姿が今も目に焼き付いている。
 時は流れ佐賀。毎年バルーンの特設ステージに立っていた。コロナ前にも観る機会があり、その圧倒的なパワーもさることながら、とても70とは思えないスタイルに驚いた。岡山、川上の出身と知り、さらに親近感が沸いた。歌いだしで誰かわかる、唯一無二の声。

6.25
 昨日よりバイク置き場に移動しているハナブチ親子。ムービーのあと23:00ころ、庭で鳴いているうちの1匹を確保。ちょうど左手のみ革手ありひっかき避けで使用。うちの箱入り織彦に病気を持ち込まないため右手は手袋。目が開かないほど固まっている目ヤニを除去。左耳黒、背中右下がりブチ、ボブテイル、オス。チャンスがあれば残り3匹も。
 0:00前2匹目確保、同様の処置。鼻ほくろ、背中左下がりブチ、ボブテイル、オス。この2匹が好奇心旺盛でアクティブ。もう目はキトゥンブルーではなくなっている。未処置は、頭茶、背中白、まっすぐテイルと、黒多め、ハナブチ。残りがメスかも。

6.23

6.21 18:13:18 "Summer Solstice"

6.20

6.16
 夕方、織彦ではない鳴き声に外に。ジュニアのうち2匹がついに隠れ家の外に出ている。好奇心の強い元気な2匹だがそれだけ危険も増える。とりあえずつかんでハナブチのもとに返した直後のムービー。さすがに威嚇のシャー。
 生まれてそろそろ3週間は離乳の時期。さて、どうやって育てていくのだろう。プランターには今年のカマキリが活動を開始している。蜂にしてもハナブチにしても、命のバトンをつなぐ何気ない日常の1ページに感動。

6.16
 蜂が新たな巣を建設中。もちろん大きくなれば排除するが、どういうふうに出来ていくか興味あり。それにしてもこの造形。すごい。ムービーはもう完全に威嚇。

6.15
 ハナブチジュニアたちの目を何とかしてやりたいが。

6.14 "State Of Slow Decay"
 ハナブチジュニアの黒多めの一匹。ブチというより汚れに近い鼻模様に頬がゆるむ。間違いなくハナブチの子。

6.12 "Playing God"
 バイク小屋に出来ていたハチの巣三つ駆除。翌日になっても数匹が家を探して飛び回っている。少しかわいそうな気もするが、これもある意味自然の掟。他でやってね。

 夕方CRFオイル交換。ふと思い立って鬼ヶ城へ。ちょうど去年の今頃新車購入。わずか100kmそこそこでクランクケースカバーにヒビを入れた場所。1年たってもまだ鉄塔新設の工事が継続中。
 繁殖期に生まれた小鹿とたくさん出会う。ほとんどがこちらに気付いて逃げていくが、この一頭だけ対峙し様子をうかがっている。肝の据わった個体。桐原のタチアオイが咲き誇っていた。そうそう、最近気づいた宮島の弥山付近に強い光を発する建物。昼間だけなら屋根の反射が考えられるが、暗くなっても輝いているので電気か。

6.11

6.8 "Why Are You Calling Me Now?"
 免許更新。6年ぶり3度目のゴールド復帰。7年前の事故の時、反則金はないが何らかの減点がされたようで、それが誕生日直後。タイミング悪く6年を要す。

 ハナブチと子どもたちは今日も元気。お母さんのシャーはご愛嬌。その後は怒ることなく観察させてくれる。ただグレー頭の1匹が目ヤニがひどくまだ目が開いてない。
 やはり鼻にブチがある黒ベースを見ていると、織彦の後輩にしたい衝動が押さえられない。冷静に考える。室内飼いで20年生きるならこちらが先に逝き看取れない可能性あり。我慢。
 一方で大きな疑問が生じてきた。織彦を見つけた2017年10月23日。前日まで同じ場所に気配はなく、そこで生まれたものと思っていた。しかし今回ハナブチ親子は隣家で生まれ、安全確保と雨を避け家へ。つまり織彦たちも同様にもっと前に生まれ、移動してきた可能性が高い。裏付けるのは発見時の大きさ。ハナブチの出産は間違いなく5月22日。その日の4匹は、織彦発見時の180/150gと比べると明らかに小さく100g程度。あれから約2週間経過した今日、まだ織彦たちの大きさに達していない。そうなると、織彦たちの母親も子どもたちを守るために発見場所に連れてきたのかも。当時周囲に母親の気配はなく、育児放棄されたのかと思っていたが、今回ハナブチも子どもにべったりではなく、離れて近所をうろついている時間も少なくない。となると、母親のいない時間に子どもを奪ってしまったことになる。
 今となっては神のみぞ知るだが、お隣さん情報によると、織彦の母親は血だらけの姿でいなくなったらしく、その時に命尽きたと思われる。この秋織彦5歳。野良猫ならそろそろ寿命。毎日ロイヤルカナンを何の心配もなく食べられる環境を幸せと思っているだろうか。ハナブチにも分けてやりたいが、自然界への介入も我慢。

6.7

6.5
 雨が降った先月26日から姿が見えなくなっていたハナブチジュニア4匹。ハナブチは普段通りその辺をうろついているため、雨を避けどこかに移動したと思っていた。月変わり1日、お隣さんから驚きの情報が。なんと家にいると。言われた通り、何年も使用せず放置している自転車の裏、劣化してビリビリになっているカバーをめくってみると、ハナブチのお腹が出てきた。4匹も一緒にいる。介入は最小限にして観察中。

5.27
Raymond Allen Liotta
Dec 18 1954~May 26 2022
 大好きなアクターだった。

5.26 "CARPE DIEM"
 新たな命を身ごもっていたハナブチ。22日昼過ぎまで大きなお腹をしていたが、夕方お隣さんが庭でうろうろ、生まれたとのこと。黒多めの白黒、ホルスタイン柄2匹、グレーの入った1匹。父親はここのところ見かける白グレー。みな元気そう。
 暮れには近所一帯が更地になる。心配はあるが、野良なので適応していくだろうし、4匹すべてが元気に育っていくとも思えない。お隣さんはハナブチたち兄妹の去勢避妊に動いていた。申請すれば行政の補助があり、捕獲用具も貸与してくれるらしいが、町内会の承認が得られず流れたと。近くの町内会では実施された地域もあるとのこと。ただし野良猫が町内会の境界を認識するわけもなく、広域で足並みをそろえないと難しい。流産後死んだハナブチの姉妹、黒猫キキも4匹生んだ。もし健在だったなら、ほぼ同時期に8匹の子ねこがお隣さんのエリアに。これはこれで問題。生命の素晴らしさを実感する子ねこたちを駆除するのは不可能。親世代の生殖能力をコントロールしていくのが重要だが、野良猫の寿命と生き残っていく子ねこの数を考えると、自然界のバランスが機能しているのかも。立派に育った長毛アゴブチは、自分のテリトリーに旅立ったか、誰かに拾われたか、見かけなくなった。甘えん坊キキは胎児4匹と天国へ。子ねこたちは観察に留め、必要以上の介入が避けた方がいい。
 一瞬だけ、織彦たちの後輩も考えたが、3匹は無理。

5.25 "Tonight's Sky"

5.8 "Hana"
 5月に入り、近所の人たちが焼香したいと訪ねてきた。母が施設に入って4年、母屋は物置と化し、とても人に見せられる状態ではない。当然仏間も。立ち退き解体のカウントダウンは始まっているが、忙しさに追われつつ、それでも日々困るわけでもなく、時間はあれよあれよという間に過ぎていく。
「片付けろという強制力か」
 数日かけ何とか人を呼べる状態に。声を掛けると8日の午前中に4人が来てくれることになった。偶然にも母の日。母の誕生日から1か月と経たないため、これまであまり重要視していなかった。そうか、生まれて初めて母のいない母の日。朝、庭を掃除していて息をのんだ。
 数年前切った赤い椿。形が悪かったのと、他の花の日陰になるため何も考えず切った。さらに根こそぎ取ろうとかなり掘り起こしたが、予想以上に根を張っていてびくともしない。結局切り株状態で残すことになった。
 いつの頃か脇芽が復活しているのに気が付いた。抜くためにかなり根も切ったのに、すごい復活力。しかし、立ち退きまで時間はない。花がつくことはないと思っていた。それが。
 たった一輪だけ、葉の陰に隠れ、真っ赤な花が開いている。涙が止まらなかった。椿の開花時期は冬から春先にかけて。こんな時期外れに、それも母の日の朝。
 母が書いた一枚のメモがある。朝、こちらの出がけに縫い針がなくなったと。早く出ないといけないし、そのまま出ると目の悪い母の足に刺さってはいけないし、焦って母を激しく怒鳴り散らした。帰宅後。
「針は針山にさしてありました。心配ばかりかけてごめんなさい」
 当時も後悔してこのメモを残した。すでに認知機能が低下していた母に対し、なぜあんなひどい言い方をしたのか。「帰ったら探すから気を付けて」で済むことなのに。この2年、確かにコロナで面会できなかったが、それを理由にして足が遠のいていた。もっと何かできることがあったんじゃないか。
 母の日に咲いた一輪の赤い花。元来の客観的視点に加え、宇宙に傾倒してその見方はより強くなった。切って枯れなかったのも偶然、時期外れに咲いたのも偶然、母の日の朝に咲いたのもただの偶然。すべてはたまたま。しかし。
「お母さん、息子への『ありがとう』という解釈でいいのだろうか」
 母のいない母の日、母はまだ庭にいた。

5.15
 一枚ずつ花びらが散るので椿ではなくハルサザンカのよう。どちらにしても時期外れ。植木屋に頼んで移設を検討。メモの破壊力はネガティブなので普段はしまっておこう。

4.30 "Tonight's Sky"

4.21 "Mademoiselle de Paris"
15:27
母の施設事務長より第一報の留守電。夜勤中休み就寝中で気付かず。
16:39
救急病院からの留守電の応答メッセージで目が覚める。すぐコールバック。医師より総胆管結石、胆管炎から敗血症の診断。KT39.9、BP70台、HR140台SpO2=42%で酸素全開。すでにノルアド開始とのこと。もう難しいことを確信。おそらくDNRの判断をせまられる。織彦のご飯、一応夜勤勤務の準備。
17:34
職場連絡。
18:17
自宅発。
18:34
救急病院より急いで来院するよう連絡あり。
18:36
救急病院着、施設事務長と合流。昨日より熱があったが昼食時はいつも通りとのこと。酸素10L100%、HR140台、BP60台切る。
21:15
家族待合室待機。
21:20
買ったコーヒーを飲み終わらないうちすぐ呼ばれる。HR70台。
21:30
SpO2拾わず、収縮期血圧50台切る。チェーンストークス呼吸。
21:40
呼吸停止、HR20〜30台。

心停止。時計は21:45。

21:47
死亡診断。
23:07
救急病院発。
23:20
斎場着。

 6歳で父を亡くし、家に来てからは姑小姑との関係に苦労し、ほぼ1馬力で二人の息子を大学に出した。しんどかったはず。しかし定年後65歳からがすごかった。シャンソンをはじめ公民館で複数のカルチャースクールに。高校の同級生と車でアメリカ3,000kmを走り回り、国内はもとより、カッパドキア、フィヨルド、「ムンクの叫び」を観た。そして、息子の「フランスに行ったことがなくてシャンソン歌えるんか」という言葉に、念願の「パリのお嬢さん」となった。
 火葬後、左足に焼け残った人工骨頭。コロナ前の19年冬に骨折入院。内容はかみ合わないが、普通に話ができた最後の記憶。熱くて持てないチタン製の母の一部をタオルにくるんで持ち帰った。葬儀翌日、頭蓋骨の小さな骨片を砕き、島しょ部にある母の生家と墓所二か所に散骨した。
 たった6時間の入院で息子の負担を軽減し、なにより、この秋で立ち退き解体となる自宅に戻ってきた。コロナで戻る予定もなかった千葉の弟家族をこれ以上ないタイミングで呼んだ。つい先週90歳卒寿。70で同じ誕生日に生まれた孫は二十歳を迎えた。なにもかも段取り屋の母らしい。遺影がどや顔に見える。

4.16 "The World Of You And I"

4.15 "pARTs"
 曇天にひときわ目立つ平和公園のハナミズキ。ドイツの各都市からの寄付とのこと。幹のは枯れて花がついていないけど、ロボット兵が小鳥を肩に乗せ歩くおだやかなラピュタを思い出した。

4.7 "六番目の駅"
 津山城鶴山公園~びーとん~真庭醍醐桜~岩井畝の大桜~姫新線富原駅~刑部駅~丹治部駅~岩山駅~新見駅
 14:17五日市ICイン。新見あたりから雨がパラパラ。tenki.jpの地域情報は晴れ。先の雲があまりにも怪しく大佐SAでレインウェアを着た途端土砂降りに。最近のtenki.jpは全く信用できない。
 16:46津山ICアウト。雨はなんとかやみそうだが、通り過ぎてきた雨が追い付いてきそうな予感。津山城鶴山公園の桜は散り始め。大好きな映画「秒速5センチメートル」は、桜の花びらが落ちる速度だという。
 18:00近くのびーとんという中華そば屋に。開店と同時に入ったが15分もしないうちに満席。早々に退散。バイクまで地元の商店街を歩く。まだ18:30にもなっていないのに開いているお店はほとんどない。異世界に迷い込んだような昭和レトロ。
 19:21院庄ICイン〜19:35落合アウト。県道84に入ったところで逃げようと頑張っている車を面白がって追いかけていると、間違えて月田まで出てしまった。帰って調べると月田駅が近くに。行っておけばよかった。
 20:20醍醐桜着。12:00の渋滞情報は2時間だったがこの時間は問題なし。第二駐車場から降りていくとき最初に遠望できる瞬間がわくわくする。この木の前に立つと、時間の進み方が変わる。自分が生まれる前から咲き、いつの日かいなくなった後も咲くのだろう。
 醍醐桜がケンシロウなら、岩井畝の大桜はトキ。まだ三分咲き。ひんやりとした空気の中、誰一人いないこちらの雰囲気の方が好き。ライトアップの21:00を過ぎ真っ暗だったが、たもとに咲く水仙が立派過ぎる。
 北房まで戻るのはもったいないので、姫新線ローカル駅を経由して帰ることに。富原駅のつばめ、刑部駅では誰も乗っていない最終列車を見送った。あの列車は、ほんとうに富原駅に着いただろうか。千とカオナシを乗せて、銭婆のところへ向かったのでは。丹治部駅〜岩山駅でティータイム。最後は新見駅のロータリーを回って終了。
 23:08新見IC〜00:51西風新都ICアウト。結局津山以降雨は降らなかった。また来年。

4.7 "Combat"
「人の生死が単なる情報に」
 こんな戦争がこの世に起こるとは思わなかった。

4.4 "Dreams"
 何年も通っている上勝成山山頂桜が開花。観光客はまったくいない。まだ肌寒い山頂で1時間半も何をして遊んでいるか。その一つが飛行機ウォッチング。アプリで特定できるので、どこからきてどこへ行くのかわかっただけでわくわくする。たった数十分後には福岡や長崎に。優雅に舞うトンビも。時間を忘れる。

4.3 "Make Up"
 オステオランド開園。

3.30 "花ぐるま"

3.30 "Tonight's Sky"

3.29 "Easy To Smile"
 天体観測に行く上勝成山山頂にある桜。折られた形跡もあり年々弱っている様子。それでも天空の花見。残念ながらすべてつぼみ、まだ早かった。
 山頂で1時間ほど。何をするかと言えば、上空のトンビに声掛けたり、通り過ぎる航空機の行き先をアプリで調べたり、近くの藪の中でガサガサいう音に聞き耳を立てたり。野生動物にとっても春は待ちに待った新芽の季節。やわらかいごちそうにありつけたのでは。ここも戦闘機の通り道。二機のファイターが轟音を上げ飛んで行った。訓練だけに使用されることを祈る。
 ふもとのずっと気になってきた木はあんずっぽい。一つの木に紅白+マーブルの花。
 ちょっと前に聴いた、鈴木愛理と緑黄色社会の長屋晴子の対談番組がとても面白かった。大好きだった「Suntory Saturday Waiting Bar『AVANTI』」を意識した構成。歌が上手な二人、通じるものがあるんだろうね。キャスティングした番組も素晴らしい。
※ネット上にあった。
"TOKYO SPEAK EASY 2022 2.23"

3.28
「ドライブ・マイ・カー」アカデミー賞 国際長編映画賞を受賞
 2回観たけど正直難解な映画だった。ただ、霧島れいかは2〜3年前からインスタグラムフォロー、岡田将生は「天然コケッコー」つながりで好きな俳優。なにより広島がロケ地。
 ちなみに西島演じる家福悠介が広島での滞在に選んだのが大崎下島の御手洗(みたらい)。映画の中で最初にサーブを乗り入れた駐車場が、10年6月マイナリストたちとバイクをとめた場所。この日はあいにくの雨で写真一枚もなし。12年前ですか・・・。
 お店変わった?前はうどんなどリーズナブルなメニュー。
2010
6.12 めにまる、OhIke、タケジー、かおりん 打梨~鱒留~土居駅~わん茶房'S~加計駅~吉水園~温井~オークガーデン~掛頭山
6.13 OhIke、タケジー、かおりん 広島刑務所〜広島拘置所〜潜水艦〜ナガタニ展望台〜観音崎〜御手洗散策

3.27
 地元、神原しだれ桜。大木はまだ数輪。そばの小さい木はけっこう。

3.26 "Can't Live Without Your Love"
"Dear Kiki"
 3.22夕方、庭に出ていたお隣さんにハナブチがまとわりついている。そこで予期しない悲しい知らせ。
「クロネコのキキが死んだ」
 お隣さんの話によると、前日3.21、最初に死産の子ねこを出産、その後続けてやはり3匹死産。夕方には庭ですでに硬直していて穴を掘って埋葬したとのこと。話しだけ聞くと産科系のトラブル。つい2~3日前、いつものように塀の上でくつろいでいたのに。その時にはお腹が大きいのには気付かなかった。子ねこはまだ胎児だったらしく、流産の際の多量出血が原因か。
 ねこは生後6か月で繁殖能力あり。去年春3きょうだいが生まれたとき、お隣さんが公費助成での去勢、避妊を検討していたが、町内会の承認が得られずお流れに。「飼い猫」というわけでもないので、妊娠してしまうのは仕方のないところ。
 家でもハナブチが変な鳴き声で鳴いているのはおかしいとは思っていた。周囲を探しているような素振り。死んでいた場所の匂いを嗅いだりもしてたよう。あの二匹はいつも一緒だったから。
 もちろんただの野良だし、強い繁殖力を考えて家では餌付けはしなかった。野良猫の寿命は4~5年。子ねこもそのほとんどが授乳期に死ぬ。家でも庭に糞をしていく天敵だったが、織と彦が来てからは話が違う。庭の糞は織彦のと一緒に庭の有機肥料に。下痢や血が混ざっていたりすると心配したりもした。自然の摂理ではあるが。
 オスのもふもふアゴブチも2~3週間前から姿を見せない。近親交配を避けるための本能。今日もハナブチが一匹でいる。

 ベランダブランチ。一年育てたオステオスペルマムのいちばん花をめでつつ、黒ねこキキを偲ぶ。

 肥薩線秘境駅。数年来計画している。大畑、矢岳、真幸の秘境駅。災害による廃線危機も、復旧に向けた動きあり。休日のたびに検討中。4月入るまでは持たないかな。

3.21 "明日への手紙"
「いにしえの海道へ続く道」
 2000年代後半、たくさんの島を旅した。橋でつながるのは便利だが、船でしか行けない島には間違いなく特別な何かがあった。
 3.21の目的地は蒲刈の大浦にあるCafeななくに。10:00開店ということで11:00を目指したのが当たった。12:00からは予約でいっぱい。女性一人で切り盛りしているため、かかってくる電話はすべて断られていた。メニューは限られているが、ワンプレート、いやワンディッシュのランチは彩り豊か。作り置きの付け合わせと日替わりメインの組み合わせは、たった一人での接客、効率と料理を出すスピードのバランスが絶妙に考えられている。きっと「できる」オーナーさんなのだろう。
 2008年、開通直前の豊島大橋を見上げながら、蒲刈〜豊島間のフェリーに乗った。その時強く印象に残っているのが港で食べたうどん。走行可能な軽1BOXを改造した屋台で、おばちゃん一人でやっていた。駐輪場の手に届くところにつばめの巣があり、近寄って見ていると親が威嚇してきた思い出も。何の気なしに口に出た。
「まだフェリーがあったころ、港に軽1BOXのうどんがあったでしょ」
「まだやってるよ」
「え?」
「県民の浜の手前にのぼりがたくさん立ってるところがあったでしょう」
「私の姉だけど」
「えー!!!」

 久しぶりの十文字山展望台。記録をさかのぼると前回は8年前。ぐるぐると1周できる展望台からは、瀬戸内の絶景が360度見渡せる。08年の同じころ、ここでカラスと戦ったことを思い出した。確か夏に音楽フェスも開催されたはず。離合すらできない道と頂上の狭さから今となっては信じられない。
 帰宅後その頃の旅が気になって、写真とマップを開いて記憶と記録、今をすり合わせる。

2008年7月8日
 14:00スタート。05年3月以来の蒲刈。今回の目的は11月に完成する豊島大橋。実は朝早く出てフェリーで豊島に渡り、大崎下島の御手洗まで足を伸ばそうと考えていたが、結局いつものごとく遅いスタートになってしまった。
 安芸灘大橋料金所。バイクにしては高い通行料金に往復割引はないかと聞いてみたところ、おばちゃんが面白いパンフを出してくれた。上蒲刈の三之瀬にはこの島の見所が集中していて、今まで二度訪れた事があるにもかかわらず、そのどれにも入った事がなかった。パンフは、松濤園と他の指定文化施設を合わせて三つ以上回ると帰りの通行回数券がもらえるという物。これに乗らない手はない。
〜中略 三之瀬散策〜 
 17:00を過ぎ、上蒲刈へ渡り、大浦港へ向かった。今日は時間的に無理だが、ここから豊島に渡り、大崎下島、平羅島、中ノ島、そして岡村島へ橋づたいに渡りたい。大浦港でチケット売り場のおばちゃんがパンフをくれた。
「TOYOSHIMA SOUL FAMILIAR 2008」
 8月10日、豊島の高所「十文字展望台」にて開催される夏フェス。聞いた事のない参加アーティスト達で、恐らく興味のないジャンルの音だろうが、夏フェスの雰囲気、そして行こうと思っていた「十文字展望台」が重なった。検討してみる価値は大いにある。二人のおばちゃんから聞いた話がどこかつながっている様な気がした。
 バス停のベンチにてルーティーンワーク、地図への書き込みと帰り道検索。ふと、まわりの騒がしさに上を見上げた。手を伸ばせば届くところにあるツバメの巣。くちばしを真一文字に結んで親を待っている5羽を写真におさめようとかなりの距離近づいたその時!親が攻撃して来た!100%威嚇行動。一直線にこちらに飛んできて、最も近づいたとき聞いた事のない声を発する。明らかに怒っている。それを旋回しながら何度も繰り返した。ぶつかって来やしないだろうが、よける必要があるくらい突っ込んで来る。
(ごめんごめん、悪かったよ。)
 子を守る親心を見た。その後は少し離れたベンチに座り観察。
 豊島大橋(仮称)は11月に完成予定。これにより東の岡村島まで陸続きになる。先述のとおり、開通後はフェリーが廃止されるらしい。特に思い入れのある航路ではないが、間近になくなると聞けば一度は乗っておきたい。架橋はほぼ完成していて、最終段階に入っているように見えた。
 帰りの料金所。行きと同じおばちゃんがいて、貰った回数券を渡すと素直に喜んでいた。後続の車が来るまでの短い間世間話。料金所ブースでこういう事も珍しい。

2008年9月4日
 豊島・十文字展望台。日も傾き、帰路につこうと下り始めた時、谷側、右の木の枝に、おびただしい数のカラスがたむろしているのに気付いた。一度はそのまま通り過ぎたが、絵になる光景に写真を撮ろうと再び引き返す。
 やつらは気配を敏感に感じ取る。最初通り過ぎたときには動じなかったが、反転して止まった途端、一斉に飛び立った。しばらく眺めていたが、そのうち。
「ダッ!オラッ!」
 大声を上げると「ビクッ」と反応するのが面白く、さらに手をたたいたりして遊んでいると。
(何?)
 唖然。タンクバッグからメーターパネルまで、赤い何かが飛び散った。一瞬、状況がわからず茫然としたが、すぐに分析を開始。ブツは赤く噛み砕いたもの。内容物から判断して糞では無い。時期的に考えるとイチジクかもしれない。軌跡はヘルメットの右後方に当たり、拡散した子爆弾がタンクバッグに飛散、さらに跳ね返った残りがパネル付近に飛び散った。
(こいつら・・・)
 憎たらしさと同時に笑いがこみ上げてきた。それは感嘆すら含む笑いだ。死角である後方から近づいてきた敵機は、ターゲットである人間にヒットさせた後、さらに子爆弾を飛散させ、マシンにこれでもかというダメージを与える。糞が投下爆弾と考えるなら、吐瀉物はまさにミサイルか機銃掃射。それも一発で複数のターゲットを破壊。恐ろしい正確さで。
(明らかに意図的だ)
 ティッシュで被害を拭き取りながら、気持ちは徐々に「感嘆のみ」に移行していた。思えば、春には鳶、夏にはツバメの攻撃を受けているが、こちらは「威嚇」。それに対し今回は完全なる「反撃」だ。進化レベルにおいて、哺乳類は鳥類より上だと教えられてきた。しかし、それは人間が勝手に作った独断と偏見による思い込みだと認めざるを得ない。それどころか、数の優位性と制空権を支配されたこの場所では、むしろこちらが弱者に当たる。そもそも、先制攻撃を仕掛け、彼らの日常をかき乱したのはこちらだった。
「今日は負けだ。」また機会があるとしたら、作業皮手といがぐりで「地対空迎撃」といきたい。
(また遊んでね)
以上当時の記録

 なるほど、つばめとカラスとうどんがすべて同じときと思っていたが、実は2か月ほどずれている。旧蒲刈〜豊島航路の詳細はネット上でもなかなかヒットしなかったが、自分の写真と記録、当時のツーリングマップルを見て断定できた。書き残している素晴らしさをあらためて感じる。
 あの軽のうどん屋さんは口コミでもかなり人気。何気ない会話から生まれた出会い。次回、14年前の港へタイムスリップ、上蒲刈「うどんの原」を目指す。

3.20 "Glory To The World"
 日帰りで災害運休中の肥薩線秘境駅に行こうと思っていたが、天気は今一つ。このまま廃線になってしまうことも危惧していたが、めちゃくちゃタイムリーに復旧検討のニュース。悪天候で1,000km走りたくないので今回は先送りに。
 近場はもう雪は解けただろうし、石ヶ谷〜天上山林道は抜けられた時点で満足。毎年「山頂までたどり着けたら春」みたいな掛頭山へ。午前中に出ようと思っていたが、空模様を見ているうち結局いつも通りの15:00スタート。それにしても「tenki.jp」。日中晴れマークだから待っていたのに、12:00発表でいきなりぜんぶ曇りに。それ反則。
 さすが北広島。標高が上がるにしたがって徐々に路肩に雪が増えてきた。それでも路面はクリアで問題なく登山林道へアプローチ。こちらも登るに従って吹き溜まりの雪が増えてくる。深いところはまだ40~50cmあって、2速でもなかなか進まない。真冬なら雪が深くなった時点で即撤退するが、この時期はそこさえクリアすれば少しずつ先へすすめるはず。空へ向け陰部をさらけ出す「公然わいせつの木」も元気。
 雪に突き刺さったフロントタイヤの荷重を抜くため腕はパンパン。現れては消える雪渓をラッセル。そして、ついに頂上台地が近づいてきた。まだ冬毛のキツネが一頭。30年愛用しているMXアパレルはFOX。親近感あり。
 掛頭山山頂、休業中の芸北国際スキー場おおひらコース最上部はいつ来ても絶景。やはり林道に行っていたという神奈川のヒロとメール。コーヒータイム後、久しぶりにゲレンデを下ろうとコースに出るが、いきなり厚い雪に阻まれる。すでに辺りは暗くなり始めているため、雪の下に隠れているコブやギャップが確認できない。下まで降りるには時間がかかり過ぎるので撤退。来た道を戻る。さあ、桜が待っているぞ。

3.12 "人と人"
「お元気でしょうか」
 先週、母宛てに届いた一枚のはがき。ご祝儀袋などに使われる水引を使った作品の母娘二人展。母に関わりを聞きたいが、この2年間の面会禁止であっという間にわからなくなり、その機会は永遠に失われてしまった。作家について調べてみると、お母さんの出身が母と同じ広島の島しょ部。これまでにも広島市内で展覧会が開催されていたらしい。二つの推測をした。
 数年前まで近所の公民館で複数のカルチャー教室を掛け持ちしていた母。その中で水引と関わりがあったのではないか。もう一つは生まれた島で同級生だった可能性。ただ今年九十になる母より少し下の世代のよう。まあ行けば何かわかるさ。春探しも兼ね走り出した。
 13:56五日市ICイン〜14:30瑞穂ICアウト。春を探す必要はまったくなかった。先週までの雪遊びから一転、あたたかな陽射し。流れていく紅白の梅と清流江の川。春の真っただ中を駆け抜けていく。
 15:00過ぎ、江津今井美術館は、その名も桜江町にある小さな美術館。立地と時間から作家在廊はあり得ない。受付ではがきについてそれとなく聞いてみるが、役に立つ情報は得られなかった。
 水引。ご祝儀袋、それこそ香典袋についているイメージしかないが、展示されている作品はほとんどが立体的。中には屏風大の大作も。作品の解説にあった「結」という一文字の意味に妙に納得した。2階ではペットの写真展も開催中。以前なら興味も持てなかったと思うが、織と彦が浮かんでとても面白く観させてもらった。
 当たり前のように、旧三江線川戸駅に寄る。ベンチで缶コーヒー片手に作家を検索。フェイスブックがヒットした。明日メールしてみよう。耳元の窓の向こうで、ソーラー首振り人形がカタカタと踊っている。カラスや鳥が帰る準備を始めている。遠くからはピアノの音が聞こえてくる。
「なるほど、これに”結”ばれたね」
 水引と、春と、母へと続くこころ旅。かれこれ40分ほど、ぼーっと田舎町の夕暮れを楽しんだ。
 帰り道にレトロ自販機コインレストランかわもと。ラーメン、かしわうどん同時に大人食い。店内に飾ってあるシンビジウムは圧巻。手がかかっているのがわかる。

 無事夜勤を勤め上げた翌日、作家の娘さんの方にメールしてみた。1時間ほどして返信あり。はがきは、以前市内で開催された展覧会の芳名帳記載者へ出されたとのこと。ただ、伯母さんが九十歳で、もしかしたら友達だったかもしれないとも。
 30分ほどして、またメールが来た。お母さんが伯母さんに連絡すると、うちの母の旧姓を覚えており、高校の同級生であると。三越で展覧会のあった2016年ころ、偶然道端で出会い、見に行ったらしい。そのころ、すでに認知機能の低下が始まっていたが、まだまだしっかりしていたことがうかがえる。
「なんとか元気です」
 突然届いた一枚のはがきは、小さな旅とあの頃の母を”結”んでくれた。面会ができるようになったらはがきを見せて伝えてみよう。「水引を見に行った」と。

3.11 "エンデュアランス号発見"
 エンデュアランス号発見のニュースに声を出して驚いた。極地に近いことを考えると、タイタニック発見よりすごい。

 大事故で入院中の2015.10.30に自分のサイトに書いたテキスト。
 1959年アルフレッド・ランシング著「エンデュアランス号漂流」の話をしよう。この本は、2008年にかなり入れ込んだノンフィクション。1914年、ナイトの称号を持つイギリスの探検家、サー・アーネスト・シャクルトンは、蒸気船「エンデュアランス号」に乗り犬ぞりでの南極大陸横断を計画する。しかし、船は陸地にたどり着く前に厚い氷に閉じ込められ漂流。ついにはその圧迫により破壊され沈んでしまう。極地の極寒の中、乗組員たちの生存を賭けた苦難の物語である。再読にもかかわらず感涙のエンディング。しばらくして気が付いた。
「1914~1916」
 エンデュアランス号が漂流していた期間。慌ててページをめくった。
「1915年9月30日・・・。」
 船は氷に圧迫されながらもまだ存在していた。そう、ちょうど100年前のこの日!墓に持って入りたい一冊「無人島に生きる十六人」もそうだったが、この時代の船乗りのサバイバル能力には舌を巻く。個人の能力を最大限に活かし、組織し、生き残るために一丸となる。圧倒的な自然の脅威の中でも希望を失わない。さらに、「無人島〜」が裸でも過ごせる暖かい場所だったのに対し、南極という極限の世界。
 数日後、自宅に訓練外泊した際、真っ先にグーグルマップを開いた。
「サウスジョージア島」
 エンデュアランス号が南極に向かう前に立ち寄った最後の陸地であり、遭難後小船ジェイムズ・ケアード号で目指したはるか彼方の島だ。シャクルトンたち6人が漂着したのはサウスジョージア島南岸のKing Haakon Bay。そのほぼ真東、人がいる北岸の港までは直線距離でも30kmを超える山脈と氷河が続く。生き残るためには、何の装備も持たずに乗り越えなければならなかった。当時ストロームネス港にはノルウェーの捕鯨基地があった。
「あ〜、なんという光景!」
 錆び付き、赤茶けたタンクが立ち並ぶゴーストタウン。周辺には同じように廃墟となったリース、ユスヴィック、グリトビケンの港があった。グーグルマップにはそれぞれの港に何枚かの写真があがっていて、まるでウサギや鹿のようにアザラシやペンギンがいるのに笑ってしまう。さらに驚いたのはグリトビケンにストリートビューがあること。撮影は2013年。港には大きな客船が停泊し、赤いジャケットを着た集団が辺りを散策している。港の南の丘にはこの地で亡くなった船乗りの墓が並んでいた。その中の一つがなんと!
「サー・アーネスト・シャクルトンの墓」
 シャクルトンは、エンデュアランス号漂流から生還した8年後、再び南極探検のためこの島を訪れ、心臓発作で急死したという。
 残りの22人が救助を待ったエレファント島はサウスジョージア島の1,500km南西、ほぼ南極、完全な氷の世界。
「この環境で人間は生き延びられるのか?」
 何度読み返しても信じがたい。ちなみに1915年10月27日には氷に押しつぶされたエンデュアランス号を放棄。
「十月三十日はどんよりと曇った天候で、時折みぞれが降った。気温は華氏15度(摂氏-9.44度)と不快に高く、氷の表面がゆるくなっていた。」とあり、犬ぞりで氷上を移動し始めた日。来年まで「100年前の今日」が追体験できる"タイムリー"な一冊。

 3000mもの深海にあるちっぽけな船をどうやって見つけるのだろう。

3.10 "Ayrton Senna 1989"
 ★★★の間のテキストは、先日Suzukiの新しいツアラー発売の記事を読んで思った書きかけ文。昨日放浪旅人たちとLINEをして掘り起こしてみた。出会ったとき20代後半だった彼らももう40代後半に。
★★★
GSX-S1000GT
https://www1.suzuki.co.jp/motor/lineup/gsxs1000trqm2/
 ウケる。すべてが間違った方向に進んでいる。もちろんそういうコンセプトのバイクということはわかるが、あまりにもずれているので珍しく批判的なことを書いてしまった。
「ライダーがクラッチやスロットル操作をせずにシフトアップ/ダウンが可能。」
→1Lのビッグスクーター?
「シフトアップ時、滑らかでスピーディなシフトアップが可能となり、ほぼ連続的な加速を得ることができる。」
→6速リターンであろうが、4速ロータリーであろうが、それを技術で行うことこそが2輪の楽しみでは。「ATのような加減速をMTでやる」これこそマニュアルトランスミッションを操作する醍醐味。
「シフトダウン時は、スロットルのブリッピングやクラッチ操作をすることなく、スピーディかつスムーズなシフトダウンを行うことができる。」
→大型ツアラーの通常のシフトダウンにブリッピングなんて不要。攻めても高めのギヤでトラクションを稼ぐ。
「ギヤシフトを繰り返す状況でのクラッチレバーの操作回数を削減し、ライダーの疲労を大きく軽減することで、ライディングにより集中できる。システムをオフにすることも可能。」
→1秒以下ミリ単位のクラッチ操作そんなに疲労する?ツアラー乗っていてライディングに集中するな。流れていく景色に集中しろ。
★★★

 そしてこの鈴鹿。1989年セナのタイムが1'38.041。今現在鈴鹿のコースレコードが、ちょうど30年後の2019年F1予選、フェラーリ セバスチャン・ベッテルの1'27.064。その差なんと11秒。単純比較8周で周回遅れ。モータースポーツが好きならこの11秒がどういう意味を持つか瞬間的にわかる。もうレースは成立せず、カテゴリー違い。しかし。
 この30年で得た11秒で、F1はなんの面白味もないゲーム放送となってしまった。まるでプレイステーションのような映像。人対人ではなく、マシン対マシンの対決。
 友人は言う。
「技術を向上する楽しみを奪う。大体の人は技術向上なんて考えても居ないのだろうね。最近登山友達と過ごす時間が多いのだがみんな運転嫌い。ほぼ同世代、俺の回り運転好きな人が多かったから世間一般的な考えの人を生で見た気がする。」
 なるほど。そうなると、このクソ面白くない電子制御ツアラーは市場が求めたものなんだろう。遊びの究極とも言える新型スカイラインの自動運転と同じく。
 家からバイクで走り出すとき、今でもやっていること。後ろに他車がいないのを確認してハードブレーキング。その日の路面状況と、タイヤがロックする限界を見極める。速度を一定に保ったままギヤを上げ下げし、マシンを乗り換えたときの微妙な感覚を補正する。1速で150km/hを超えるH2。たまに引っ張ってスーパーチャージャーの音を楽しむ。高めのギヤで6速全開にして遊ぶ。これって、多分後ろにタンデムでもしない限り誰にもわからないルーティーン。
 市場の流れに逆らって走り出そう。セナのV10NAの咆哮を脳内再生し、ギヤをガチャガチャしながらヘルメットの中でほくそ笑む。

3.3 "Break Down The Wall"
 家から30分程度でスノートレックを楽しめる石ケ谷林道。4日暖かい日が続き、引き返したその先へ進むべくリトライ。
 誰かの作った雪だるまはただの塊に、立派なつららは破片を残し消え去っていた。
 前回撤退ポイントで作った雪だるまライダーは健在。先へ進むには手前の橋が難関。まだ40cm以上の厚みがある。雪が解けた先の道が見えるのに引き返すわけにもいかずラッセル。しかし一筋縄ではいかない。砕氷船「しらせ」が行うラミング(氷に阻まれた時一旦後退し、勢いをつけて前進し氷を割る)を行って数十センチずつ進む。真冬装備でこれをやるとすぐに汗だくに。根気よく繰り返して何とか攻略。しかしまた、進めないほどの雪に阻まれる。
「まだ遊べる」
 さて、次回はどこまで進めるだろう。
 ちなみに帰り、ついに21CRFで1ゴケ。辺りはすでに暗くなり、もう雪のない舗装区間。尖った石と太めの倒木を発見するのが遅れた。ラインどりを一瞬迷ってフロントを切ったらあっという間にスリップダウン。雪の下で熟成された落ち葉と苔は、ある意味雪面より滑る。単なる不注意で残念なミス。

2.27 "CHE.R.RY"
 ここのところの陽気で近所の雪は解けているはず。R488をもみの木に抜けられれば、さらに匹見方面に進んでみようと走り出した。湯来で石ケ谷峡の標識が目に留まり入ってみる。20年くらい前によく雪中アタックに来ていた。調べてみると、もう11年も立ち入ってない。
 林道に入ってすぐ日陰の雪が目立ち始めた。
「これは意外に抜けられないかも」
 高度が上がるにしたがって雪の厚みが増す。春の陽射しに輝く雪面は、美し過ぎて言葉にできない。立派なつららに出会い、写真を撮りまくる。天上山林道への合流までまだ5kmある地点でもう積雪40cm以上。この先の急登はもう無理。埋まったリヤタイヤにマシンはサイドスタンドなく自立。放置して雪遊び。
 それにしても今年、まれにみる雪中アタック当たり年。ひとえに21 CRF MD47のおかげ。膝が曲がるほどの足つき性、クロスミッションは絶妙のギヤ比で以前なら登れなかった勾配も難なく登る。
(ドサッ!)
 音に振り返ると、エンジンの熱で雪が解け、立っていたマシンが倒れていた。それでもキャブ車のようにオーバーフローするとか、キャップからガソリンが漏れてくるとかはなし。この積雪ではマシンへのダメージは皆無。放置したまま雪遊び継続。
 家からわずか30分ほどで積雪撤退とはうれしい誤算。まだまだ雪遊びは楽しめそう。

 雪山から一旦帰宅、遅い昼ごはんを食べたあと今度はH2に乗り換え高速に。
「小積の河津桜」
 ここのところ白い世界ばかりだったので、「色」が見たくなった。こちらも5年ぶり。
 玖珂で降りてR437を快走、家から1時間20分ほどで小積(おつみ)に到着。5分咲きというところ。青い空と海、オレンジのガードレールとピンクの桜。ここで最高のプレゼントが。桜を花の間を飛び回るメジロ。なんと風流な。一日のうちに雪山の白と二本立ては贅沢過ぎる。
 ここの桜。大島の知人と関わりがありこころざしを奮発。ずっときれいな花を咲かせてくれますように。
 帰路、浮島航路の看板に惹かれ日前港に。大島周辺の離島も行ってみたい。カヤックという手もあるし。

2.26 "Tonight's Sky"

2.25 "Back To You"
 西平次林道。5日前に自分がつけたタイヤ跡に面白い出来事が。何十メートルにも渡って溝をトレースするタヌキらしき足跡。ダート区間では自転車の来訪者が、こちらがつけたタイヤの溝を使って押しながら歩いている。雪があるからこその不思議な連帯感。彼らに会ってみたくなる。これまで実際に出会った動物を思い出してみると。
リス、キジ、鹿、ウサギ、エゾシカ、猪、キツネ、キタキツネ、イタチ、テン、ハクビシン、ニホンカモシカ、ニホンザル、ツキノワグマ、牛、人。
 トカラの口之島には野生牛がいて、林道を走っていると道端に普通に現れるから笑う。ニホンカモシカは、山形は新高湯温泉の駐車場で。キジと猿と犬に同じ日に出会ったことも3回くらいあって、キビ団子携帯も真剣に考えた。
 そして今日、気温は低いが陽射しは春。近場の雪は終わるけど、県北で標高を上げればまだまだ。春を迎えつつ、冬を追いかけるのも面白い。

 CT125が乗り出しジャスト6か月のまさに6か月点検で、オイル交換も998km。帰路1,000kmを超えた。
 ショップで懐かしい再会。去年春、ラジエーターをつぶして手放した16 CRF MD38が修理され、中古で売りに出されていた。

2.20 "SKATERS' WALTZ"
 数あるライディングシチュエーションの中で最も楽しいのが雪中アタック。特別な目的地は不要。走り慣れた道がアドベンチャーフィールドに変わる。雪さえあれば、まるでバイクに乗り始めたころのように、ただ走っているだけで至福の時。新雪にトレールタイヤのシュプールを描く。先日友人に伝えたことをまとめてみた。
 まず自宅にも積もっているようなら即却下。近所の峠すら登れないし、都市部の交通量では間違いなく圧雪になっていて危険すぎる。事前のリサーチも重要。降雪予報にわくわくしながら、気象サイトや道路情報サイトのライブカメラをチェックしてリアルタイムの積雪状況を目で見て確認。標高の高い地域では、一晩で状況が一変する。
 避けては通れないハードルが目的地までのアクセス。平日ならスタート時にはすでに圧雪路になっており、交通量も多い。評価基準は、必ず通らないといけない近所の峠。そこが凍っていたなら、その後はもっと厳しい路面状況が待っており、楽しい走りはできない。
 ルーティング。基本的に交通量の多い幹線道路を極力避ける。後続車に迷惑をかけるだけでなく、自分の安全が保障されない。
 勾配と積雪量。まったくの平地なら新雪30cmまでは進める。ただ求めるのは誰も走っていない新雪。そうなると標高を上げざるを得ず、登り勾配は必然。ほんのわずかな傾斜でも、新雪20cm積もれば一度止まるともうトラクションしない。昔はそこから汗だくになって押し上げたりもしたが、疲れるばかり。今はそこが目的地。
 雪のない探検では、「登れない傾斜は降りない」が鉄則。登りはいくらでもトライできるし、下りはバイクを落としてでも降りられる。しかし、先を知らない道を不用意に降りると、登れなくなった場合置いて帰るしかなくなる。雪道では全く逆。登れても下れないと思ったらあきらめる。止まれない下りを長時間走るのは危険すぎる。特に登る時点で雪がちらついていたりすると、帰りの状況が悪化する可能性が高い。そもそもそんな場所はすでに脇道が雪道なので、遊び場はいたるところにある。
 圧雪路の下りが最も危険。常に後ろを気にしていて、後続車をミラーに確認した時点で路肩に寄せ行かせる。想像力に欠けるドライバーは、前の二輪車が転倒したら自分が轢いてしまうとか、急ブレーキかけても止まれないという予測ができない。どちらかというとほとんどの車がそうで、前に車がいてもびったりつけてくる。こちらも前との車間を取るのでいらいらするのだろう。もちろんそういう道をバイクが走っているということ自体が迷惑行為とも考える。
 早めに安全な場所をみつけて行かせる。轢かれないためにはこれを何度でも繰り返す。基本的に轍は使わない。もっとも滑りやすいし、北側や日陰ではブラックアイスバーンの可能性も高い。夜間は昼間見える部分もブラックに見えとても危険。ラインはほぼ路肩付近、下手したら路肩を使う。新雪の方がトラクションを得られるし、時間が経ったガリガリ君でも同様。ただしガリガリ君はフロントタイヤを取られることがあるので慎重に。林道に入ると、谷側の路肩は雪庇になって危険なので必ず山側を使う。特に山側は樹木が傘になって雪が少ないことが多い。ハイカーの足跡や車の轍、バイクタイヤ痕を観察。引き返した場所や行ったり来たりした場所がわかる。普段は気配を察知できない動物の足跡がありとても楽しい。
 ブレーキング。操作は限りなく繊細に。特にフロントはロックした瞬間転倒する。リヤはエンブレで減速するが、シフトダウンがラフだとすぐロックしてスライドする。あと、ABSが雪道では使えない。μが低い路面では作動をコントロールするのは不可能。また作動するときのガクガクがマシンにあり得ない挙動変化を引き起こす。リヤはキャンセルできるがフロントもそうして欲しかった。
 ライディングポジション。マシンは絶対寝かさない。コーナーでもリーンインで常に直立に。バイクの特性にもよるが、ギヤは2〜3速。登りの1速はホイルスピンして使えない。下りは1〜3速。安全が保障された自分が走った轍のそばをトレースする。スタンディングでは、急にフロントが滑った時足を出すタイミングが遅れる。基本シッティングだが、傾斜、雪の深さによりシート荷重、ステップ荷重を使い分ける。登りがきつくなったり、雪が深くなるとどうしてもリヤが暴れるため足を出さざるを得ない。平地でしっかり進めているならステップ荷重のシッティング。つまりスクワットの足を曲げた状態で、帰りに足がつることも。
 プロテクション。転倒することを前提に準備。傷がついてもいいヘルメット、破れてもいい装備。肩、肘、膝は必ず守る。ただ雪が深いと転倒してもダメージは少ない。雪中トレックで転倒したことはもう5年以上なし。誰かと一緒に行ったことはないが、やはり複数で行くと何かあった時安心なんだろう。ショップの店長は、スマートフォンでラジオを聴きながら走るらしい。聞こえなくなったところが圏外でそこで引き返すと。
 ここまで書くと、雪道の走行がいかにライディングテクニックの向上に役立つかがわかる。スロットルコントロール、ブレーキング、ライディングポジション、トラクションコントロール。すべてにおいて繊細さが要求され、雨天走行や緊急回避に威力を発揮するはず。この長文を活用できる人はまずいないとわかりつつ、独り言。
 最後に。雪道のリフレクション。雪面、木漏れ日、梢から落ちる水滴、すべてが光り輝く、写真では表現できない美しさ。雪が音を吸収して何とも言えない静けさ。多くの人に体験して欲しい世界。

2.15 "So Close to Heaven"
 まだこの時期は雪深く、前回より少しでも標高をあげられればと向かったR488。なんと、もみの木まで通り抜け可能。先週2.7と今日2.15を360度写真とムービーで比較。雪を踏みしめる音がまるで違う。もみの木側で作業の人と出会って、下から上がってきたと言ったら驚いていた。
 近場はもう終わりだが、掛頭あたりに行けばまだチャンスあり。雪解け道は、春へ続く道。

2.10 "True Believer"
 久しぶりの蛇峯はいつ来ても絶景。岩国基地のfighterが轟音をあげて帰って行くよ。カノープスをみて帰りたいがちょっと厳しそう。
 長年の疑問。近く見積もっても数キロあるはずの麓の犬の鳴き声や人の声が聞こえてくる。3〜4キロと仮定すると約10秒前の不思議。地上がいかに雑音にあふれているかがわかる。
 結局厚い雲が晴れることなく早々に退散。15年にもここにカノープスを観に来ていた。十日月がまるで雲に穴が開いたように輝いていた。

2.7 "ゲレンデがとけるほど恋したい"
 R488雪中アタック。

2.6 "春の野を行く"
「きえやらぬ雪に春まつ梢より
     まづにほひくる庭の梅が香」本居宣長

2.5 "テイキングオフ!"
 18:40ころのISS。五日月とともに。

2.3 "What's Up"

2.2 "春泥棒"
 年明けのルーティーン、織彦5回目の5種ワクチン。生まれてから1564日。
 春はすぐそこ。来年の今頃は、どこか違う仮住まいでの訪問になる予定。日付をタイプしていてにゃんにゃんなのに気付いた。猫の日は2.22らしい。

 あまりにも偉大な司令塔が次のライフステージへ。

1.28 "Every Time I See You"
 ごぶさたのあごぶちが寒い中まどろんでいた。背中に日焼けのような茶が入ってきてるね。

1.26 "Tonight's Sky"

1.22 "River Flows in You"
 R488スノートレック。逆光の中、枝から落ちるしずくがまるでダイヤモンドダストのよう。何日か前のハイカーの足跡はあるが、車やバイクが通った跡はまったくない。勾配がきつくなり、前に進まなくなったところでストーブを取り出した。積雪は25cmほど。
 キャンピングツールの多くが91年にそろえたもの。シェラカップの語源となったシェラクラブオフィシャルのカップも30年選手。当時はビーパルの受け売りで意味も分からず買い、取っ手は中指が引っかかるようペンチを使って力ずくで曲げた。自然保護の父、ジョン・ミューアを知ってからは、さらに思い入れのある貴重なアイテムとなる。市場では数千円から1万を越える高値で取り引きされているらしい。初めて直火で使ったとき、焼けたふちで唇をジュっとさせた記憶は、30年たった今でも鮮明によみがえる。
 MSRウイスパーライトも同様。最新のガスストーブと比べると、プレヒートはあるし、火力調節はできないしで使い勝手は悪いが、気温が低かろうが風があろうがお構いなし。あっという間に沸騰する。ペットボトルのコーヒーを暖めた後、洗いがてら雪をぶっこんで沸かし、足湯ならぬ指湯で冷え切った手を暖める。

1.15 "Falling Down"
 土曜夜の宮島SAがこれだけ空いてるのはあまり見たことがない。この後一台になった時間もあり、吉和SAにいるのかと思った。
 この時期の路面は塩化カルシウムで真っ白。昔散布する特殊車両を追い抜いたときぶっかけられたことがある。土俵入りかと思った。帰ってすぐの熱いエンジンに冷水はかけられないし、次回出る前に洗って、走って乾かすのが一番効率良し。錆びる前に乗れってこと。あまり利用することはないけど佐方パーキングのローソンは活気があってうれしい。
 結局走行中1℃まで下がった。路面凍結は出ない理由になるが、寒さは出ない理由にならない。はりつめた空気の中、ほぼ十三夜の月がいっそう輝きを増す。

1.5 "This City"
 宇宙でものごとを考えるようになってから暦上の年度替わりの概念も薄れ、継続する時間でとらえるようになった。当然走り納め、走り初めの感覚もないが、年始の横並びの数字を見ると少し意識することも。
 ひときわ目立つのがモンキー。13年に猿人、いやエンジンに力がなくなりばらしてみると、05年に組み込んだ75ccのピストンが溶け、シリンダーをガリガリに。次のキットを組み込んだが相性悪くオイル漏れ。やる気になれば半日でできる作業も面倒になり、納戸のごみ屋敷の主になって早10年。
 新車で買って32年目。90年代に5年くらい動かしていなかった時期もあり、トータルで人生の半分くらい寝ているのはもはや人間、いや猿か。
 今年は自宅立ち退き解体という大イベントが控えており無理そう。もちろんナンバー付きで納税も継続。廃車にする気はさらさらなし。12V化したいがもうキットが消えつつある。早矢仕ってまだあるの?もういいお年のはず。ストリートビューでは直近2017年8月にシャッター開いてる。サイトも存続確認。

1.4 "Tranquility"
 これまで単発は除き、一度も流星群らしい姿をみたことがないしぶんぎ座。3:00に起きてすぐに外に出ると、晴れてはいるが、やはり市街地では厳しい。しばらくは香川のライブで様子見。先月のふたご座ほどではないが、何個も流れている。お茶でも沸かそうと、今度は何年かぶりのピーク1を持ち出し玄関開けると、なんと満天の雲。その気になってるし、それでも雲が切れないかと魚切ダムへ。
 5:00過ぎ、魚切ダム緑地前の広場。時折雲が切れることはあるが、見上げるとすぐに隠れる。一時は小雨も降ってくるありさま。それでもランタンをつけ、ピーク1を取り出した。まずシェラカップによろず使用の水を満たし、沸騰させる。少し冷めたところで入っていたペットボトルに戻し、ポケットに入れると、手を突っ込むだけで暖かくなる湯たんぽ完成。家を出た時点で気温2度。そばには雪も残っており、おそらく0度以下だろう。あらためてお茶を満たし沸かす。

1.1 "A New World/To Be A Man"
 終業1:30。とりあえずの年越し兼年明けレトロ自販機。
 ひと眠りしてH2に火を入れSA。良い天気。バッテリーが弱っていた。普段からもう少し回しておかないと。
 さらにCRFに乗り換えて憩の森雪中アタック。夏の災害箇所は復旧済み。帰りは行きの轍をトレースしてUFOにさらわれた人を演出。ところがあと1時間もすれば日没というのに普段着のカップルが登ってきてびっくり。逆に驚かされたというオチ。