MOTEL
2001年7月20日
 7月20日夕方、因島方面を車でまわった帰りある施設の廃墟を発見した。入口に車をつけその施設の裏手にまわりこむと、さらにその奥に違うもう一つの建物があった。最初に見つけた建物の入口は見つからず、奥の建物に入る。1階にはかつて使用されていただろう備品や、廃墟にありがちのアダルト雑誌などが散乱している。特に多かったのは弁当カスなどのゴミ。テーブルの上に比較的新しい「不夜城」の文庫本を見つけた。何か人の痕跡が他の廃墟より強い。
 1階の奥へ。相変わらず食べ物のゴミが多い。途中2階への階段を見つけるが素通り。1階の奥にはトイレがあった。特に目を引くものはない。引き返し先ほどの階段へ。踊り場はかなり広く左右両方に廊下が続く。2階は簡易宿泊所となっているみたいだ。しかしいつもと違う点がひとつあった。くさい。まわりにはたくさんの食べカスが散乱している。
 気にせず各部屋を見てまわった。やはりゴミが多い。どうみても閉鎖されてからの物だ。これはホームレスがいるかも、と思った。警戒する。一通り見てまわったが人はいなかった。階段に戻ろうと引き返し、ふと先ほど見た踊り場に一番近い部屋を覗いた。窓が開いたままになっている。そういえば最初に車で通りかかった時、開いている窓があった。その窓からなら手前の廃墟の全景を見れるかもしれない。
「くさい」
 窓際に立ち見渡す。確かに外を全部を見通せた。この場所で平常心だった最後の瞬間にだった。
 なにげなく足元を見た瞬間、血の気が引いた。アタマ、マネキン、見えた光景を客観的に判断すべく頭を回転させる。マネキンだろう。いやマネキンと思い込もう・・・。
 今から10年以上前、友達数人と2泊3日で丹沢にキャンプに行ったことがあった。季節はもう秋で自分たち以外に誰もいない。夜、焚火をしようという事になりキャンプ場の小屋に入った。たくさん積まれた薪の上にそれはあった。
 乱れた髪、茶色くなった皮膚。みなを呼び出直し話し合う。確認しに行こう!そして、恐る恐る棒でつついたそれは・・・、マネキンだった。みんなと肩をなで下ろす。なぜ置いてあったかわからないが、恐らく夏の間にキャンプに来た団体が肝試しをしたのだろう。そう、瞬間的にこの10年前の出来事を思い出した。あとで考えると、その時マネキンと思い込もうとしたのは、それが明らかに本物と認識していたからだ。
 しゃがみ込み、ドキドキしながら掛けてある布団をめくる。白いセーター、胸にうごめいた虫。2度目に血の気が引いた瞬間だった。顔は茶色く変色し、頭髪、ヒゲとも白髪だった。そしてにおいの原因が彼だったと気付いた。
 一度でも嗅いだ事がある人なら「死臭」は認識できる。子供のころ近所で死んだ猫とか、山中で見つけた野犬や鹿、ヤギなどの亡骸は同じにおいを放つ。踊り場に上がった時も死臭だと思った。もちろん人間だと思うはずもなく、弁当カスをあさりに来た動物でも死んでいるのかと周囲を見まわしたがそれらしいものはない。そのうち床一面に散乱している弁当が腐った物だと思っていた。今考えれば腐った食べ物と死臭は明らかに違う。完全にそれが死体だと確認して車に戻る。
 正直考えた。警察に通報するか、いやこのまま立ち去ろうか・・・。色々な考えが頭を駆け巡る。容疑者の一人にならないだろうか、マスコミが家に来たりしないだろうか、しかし最終的に出た結論は通報。理由は一つ。彼をこのまま一人残していけない。もし立ち去れば次の人がくるのはいつになるのか見当もつかない。そしてかりに来たとしても通報するかは疑問だ。携帯を取り出した。電波は入っている。
 110番をプッシュ。この時には落ち着きを取り戻していた。死体らしき物を見つけたと伝えると、名前、住所、電話番号と順に答えていく。地図を見ながら正確な位置も伝える。答えながらも色々な事を考えている。この受け答えは録音されるだろうとか、家に迷惑がかからないだろうかとか。この電話担当者にしても現時点でこちらがどんなやつかもわからない。当然犯人の可能性もあると思っている違いない。
 質問は続く。首を吊っているか、腐乱しているか、凶器をようなものが周りに落ちていないか、発見時間は、ご臨終じゃあるまいし見つけてすぐ時計見るか。最後に、もしマネキンと見間違えていたら許してくださいと付け加えた。電話を切り警察を待つ。何台も通りすぎている車。みななんでこんな所に停まっているのかと思っているだろう。そんな場所だ。
 パトカーが来るまでの時間、彼について考える。仰向け、布団を掛けていた。まわりにはゴミの山。窓があいていた。セーター。最初に思い浮かび、今現在でも一番可能性が高いのが浮浪者の行き倒れ。仕事も金もなくここにたどり着き、病気かなんかでなくなったのだろう。セーターからこの冬か、去年の冬か、それとももっと前か。もうどんな顔をしていたかわからないが、歳は初老、もしくはそれ以上。髪もヒゲも白髪だった。ただ浮浪者は実際の歳より上に見える事が多い。
 次は当然事件。ここで殺されたかもしくは殺されて運ばれてきたか?でも状況から見てこれはないだろう。もうひとつは浮浪者の同士のいさかい。入ってからの様子でもわかるように、ゴミの山は明らかに一人から出たものではない。時期は違うかもしれないが複数の浮浪者が生活していたと推測できた。そこからさらに考えが発展した。他殺ではないにしても亡くなってからの彼を最初に発見したのは自分ではないのではないか。実際にあの場所に立たないとわからないと思うが、まず普通の人は絶対立ち寄らない場所だ。しかし廃墟、廃屋、心霊などに興味を持つものは世の中にけっこういる。それだけじゃない。新たな浮浪者、もしくは一度ここに泊まった事のある浮浪者が再びこないとも限らない。まあいくら考えても真実がどうだったか知るすべはない。
 実はこの時間に写真を撮ろうかと考えた。真剣に。しかしやめた。もし撮って警察にカメラを見せろと言われたら厄介なことになる。もうひとつは彼の事。もし自分が彼だとしたら、亡骸を他人に記録されるのは嫌だろう。知り合いには普段から話しているが、霊の存在はまったく否定している。写真を撮ってそこに何か写っているなどという事はありえない。例え撮って残していたとしても、それが原因で不幸な事故に遭ったりするなんて何の根拠もない。もうそこには人間の意思はなく腐った肉体のみ。彼はもういないのだ。
 冒涜するのではない。近所で死んだ猫も、100%訪れるであろう自分の死、自分の亡骸にもまったく同じ事が言える。それに撮らなくても、この場所、彼の顔は、自分が生きている限り忘れないだろう。
 考えているうちに2台のパトカーが到着した。パトカーから降りてきた警官は4人。各一人一人に同じ質問をされた。警官いわく、一人が聞いて他に伝えると、伝言ゲームのように違った意味で伝わる可能性がある。納得して4人に同じ事を答えた。草をかきわけ入って行く現場に、なぜこんな所に入ったのか聞かれる。廃墟の写真を撮ってまわっていると、苦笑する警官。当然の反応ではある。途中にもう一度念をおした。もしマネキンだったら申し訳ないと。そうではないと確信していても・・・。
 4人の警官を引き連れ再び現場へ。もう落ち着いていたのでさらに詳細に現場を観察した。仰向けに、そして布団に埋まる様に、やはり彼はいた。先頭の初老の警官にあれだと指差すといきなり吐き始めた。そして「完璧じゃ、目が落ちとる」と。目が落ちるとは目玉が落ちているわけではなく、腐乱で目の部分がくぼんでしまう事だろう。しばらく彼は吐いていた。嘔吐物こそ出さないがオェオェやっていた。少し拍子抜けだ。
 自分はといえばもう完全に鑑識モードに入っていた。もちろん変死体を見つけたのも見たのもはじめてだが、自分を知っている人間は納得するだろう。当然オエッの一つもない。だいたい見つけた時はたった一人だった。
 みなで車の方に戻ると紺色の車が来ていた。なるほどこれが鑑識の人か。再び同じ事を説明する。鑑識の一人が一瞬自分の胸に目を向けた。瞬間、どうして見たのか気付いて「しまった」と思った。その時着ていたTシャツは思いっきり骸骨のプリントだった。オマケに書いてあるのは「YOU GOT A PROBLEM WITH THAT ?」まるで悪いギャグだ。
 話しを聞いて鑑識は建物に向かって行った。違う警官に聞かれた。「何でこんなとこに入ったんですか」また同じ事を答えた。すぐにまた鑑識に呼ばれる、場所がわからないみたいだ。現場の外の踊り場に警官4人、鑑識2人、そして自分、合計7人が揃った。
 ここでもうひとつ新たな事を発見した。彼の左側の壁に血のりのようなものがたくさん付いている。断定は出来ないがそれっぽい。出血したなら辛かっただろう・・・。何かを伝えようとしているようにも見えた。中から鑑識の声が。
「これは・・・、事件性ないね」
 おいおいそんなに簡単に決めて良いのか。起こしたら頭殴られてたり、ひょっとしたら刺されたりしてる可能性もない訳じゃないだろううに。この頃にはもう懐中電灯無しでは見えないくらい暗くなっていた。あとはもう任せるしかない。またここにこないといけないのか聞いてみた。家からはかなり遠く、また来るのはめんどくさい。それを察したのか、時間があるならこのまま本署で調書を取らせて欲しいとの提案。こちらもそのほうがいい。本署は三原。家から離れる方向に10キロも戻らないといけなかったが、また来るよりは楽だ。場所の説明を受け車のほうに戻る。先ほどオエッとなった警官と二人だ。ここぞとばかりに聞いた。
「警察でもあれ見てオエッとなるんですか」すると即座に死臭がダメだと答えてくれた。
 もう一度本署の場所を確認して出発。どうも容疑者にはならないみたいだ。なぜなら一人でいってくれだそう・・・。骸骨Tシャツ着替えようか?でも現場の警官が戻ってきて着替えてたら変だし・・・。もう1年以上来ていなかったのにこんな時に・・・。などとどうでもいい事を考えた。

 本署でも結局骸骨Tシャツのまま、担当の警官を呼んだ。話し始めるなりその警官、「私、現場見てないんですよ」そんな事はわかっている。「ホントは現場を見た警官が(調書を)取ればいいんですけどね」そんな事、思ってても言うな。調書作成は1時間半におよんだ。見た事を言葉や絵で書いて説明し、警官が文章にして行くという作業。こういう死体が見つかる事はよくあるのかと聞くと、一人暮しのお年寄りが自宅で亡くなっているケースはたまにあるが、今回のような事はあまりないといっていた。その警官は、調書の最後に「行き倒れのような気がした」という発見者の主観を書き添えた。個人の主観など書くべきじゃないんじゃないかと思っていると、案の定、少し考えたその警官は書きなおしていた。それは現場検証や医師の検死が終了してからだろう。最後に署名と共に指紋押捺をした。調書の確認だけではなく万が一の指紋採取ではないかと勘ぐる。
 調べは終わり、責任者の了解の上帰る事になった。死体はすでにここに運ばれて来ていて、医師の検死をするらしい。調書の警官いわくすごいにおいでしたと。そしてお礼を言われ帰宅する事になった。時間を見るともう9時半近かった。
 走り出して最初に家に電話した。出た母に話すと当然驚く。話の最後に聞いた。母なら同じ事態に陥った時どうするかと。即答でそのままにして立ち去ると言った。続けて母、「最初からそんなとこに入らん」そりゃそうだ。
 一晩経過しずっと昨日のことを考えている。検死の結果は病死か事件か?今の時点で連絡もないので、病死で処理されたのだろう。事件ではないので新聞にも載っていなかった。何よりも知りたい事は、彼はいくつで、いつごろ、どこから、何の為に現場に来たのか。そしていつ頃亡くなったのか。家族、親類はどこかにいるのだろうか。行き倒れが真実だとしたら、だれにも知られず看取られずに亡くなった。ただ少なくとも自分と、担当した警察関係者の記憶に刻み込まれた事は確かだ。
 あの開いている窓から最後に見えた景色は青空か、それとも夜の闇か?あの建物を見つけたのは偶然だった。しかし入ったのは必然だった。廃墟を見つける時、事前に場所や情報を下調べする事はほとんどない。本当に行こうとして行ったのは軍艦島、長崎、沖縄の3件のみでそれ以外はすべて移動中偶然見つけた物だ。逆にいえば見つけた時必ず立ち寄り、見てみるのが常だった。彼に呼ばれた訳ではない。何にしても感謝しに来てくれなくても良いので、成仏されることを希望する。
 ちなみにもし心配してくれる人がいたら、昨日の夕飯、肉料理はしっかり頂いたし夜も熟睡だった。ご心配なく。それより、あの場所にももう一度行かないといけない。廃墟としての写真を1枚も撮ってない。
2001年7月21日 記

追記 2001年8月2日
 今日あの警察署へ電話した。調書をとられた警官を呼び出し、その後どうなったか聞いてみた。詳しい事は教えてくれなかったが身元はわかったとの事。安らかに。

再訪 2001年8月14日
 7月21日に書いた文では忘れられない事と書いたが、8月2日に警察にその後の話を聞いて以降忘れていた。しかし唯一やり残した事。あの廃墟自体の写真を撮ることだ。
 連日の猛暑、珍しく三脚も積みこみ出発した。エアコンのない愛車の車内温度はすでに50℃を越えている。今回も廃墟写真がメインではなく、その後予定がある。運転しながら見える景色はこれでもかという夏空。少し前の黄砂の空とくらべ空気も澄みいい天気だ。現場に近づきあの時の事を思い出していた。
 到着。三脚にカメラを据え再びその地に立った。恐らく今まで廃墟写真を撮りに来た中でも最も条件の揃った装備だ。
 今回もまず感じたのがにおいだった。何ヶ月も風呂に入ってない人とすれ違った時にするあの匂い。それとゴミの腐った匂い。この前より少しきつくなってる気がする。この暑さのせいだろう。二階へ。
 階段を上がり始めてから身体が硬くなるのを感じた。それはあの事件を思い出したからではない。ここに立たないと理解できないと思うが、この廃墟は他と違い、人の気配が強い。一人でいる以上、後方から襲われないとも限らない。死人は襲ってこない、生きてる人間の方がはるかに恐い。そう思わせる廃墟は今までどこにもなかった。
 警官、鑑識と最後に話しをした踊り場に上がった。やはり死臭。それも気のせいではなく以前より強い。まわりを警戒しながらあの部屋へ。彼はその痕跡をしっかりと残していた。あたかも自分の足で立ち上がりどこかへいったように。しかし彼はここで死んでいた。残された人型のシミ、首のカタチを残す枕、そして何よりもこのにおい。
 警戒しながらで写真を撮って行く。壁の血のり。近くでよく観察して見るとどうもこれは便ではないか。時間の経過と共にそれは赤黒く変色していて、遠目には血痕に見える。だが微妙な凹凸がある。血をなすりつけてここまで盛りあがりはないだろう。そうなるともう起き上がる力もなくなり、それでも出た便がイヤで壁になすりつけたのか。
 カビの生えたパン。なぜかミシン。台に乗っているコンビニの割り箸はかなり新しい。たくさんの指紋は誰のものだろう。あの窓には夏の空。奥に進みベッドのある部屋をのぞいた。ゴミの山だ。この中にもう一人死んでいてもおかしくはない。それにしても臭い。反転して先ほどの踊り場より左側の部屋へ。
 こちら側の部屋は六畳あり、広いうえにキレイだ。もちろんそれは他の部屋と比較しての事でありゴミは多い。二つ目の部屋に。ここはかなり広く、格子戸の個別の玄関もついている。襖で仕切られた手前の部屋は何もない。破れた襖から向こうの部屋が少し見えた。一転してゴミの山だ。近づいて行くうち、そのゴミの山に。

「まさか!」

「足だ!!」

「マジか?」

「またか!?!?」

「血色がいい!」

「生きてる!」

 逃げよう。

 車に戻り体制を立て直した。再び建物に向かう。部屋の前に立ち観察する。じいさんだ。上半身ハダカ。話しかけてみる・・・。

「こんちは〜」

じいさん:起き上がる。

「暑いですね〜」

じいさん:「あぁぁぁうぅぅぅ〜」

「何してるんですか」

じいさん:「あぁぁぁうぅぅぅ〜」

「どこから来たんですか、警察とかじゃないですよ」

じいさん:「あぁぁぁうぅぅぅ〜」

「あまり話したくないですか」

じいさん:「あぁぁぁうぅぅぅ〜」

「一枚写真撮らせてもらえますか、顔は撮らないんで」

じいさん:「あぁぁぁうぅぅぅ〜。」といって向こうを向く。

(OKという事だろう)「パシャ!パシャ!」「どうも」

じいさん:「あぁぁぁうぅぅぅ〜」

「お邪魔しました」

じいさん:「あぁぁぁうぅぅぅ〜。」

以上、実際の会話。

 じいさん、寝ているとこがスゴイ。ひざまであるゴミ。(弁当カスを入れたコンビニ袋)その上に布団のようなものが敷いてあり窓も閉めてある。暑い。よくもまあ。こんなところに寝ていられる。
 じいさんと別れて踊り場に戻り、そこの便所による。大便器はウンコ盛り盛り。水も出ないし仕方ない。ふとカメラを見るとレンズフードがずれている。広角で撮った物が多いのでけられているのでは。フィルム変えてもう一度撮ろうかと思ったがめんどくさい。そのまま建物を後にした。
 とりあえずここでの目的は果たした。やはりここはホームレスのたまり場なのだろう。死体と一緒に寝泊りしていたヤツがいたに違いない。それも寂しくなくていい。死人にとっても生きた人間とっても。夜20時を過ぎて、帰り道またそこを通った。じいさんはまだいるんだろか、メシ食ったか。そのままそこで死ぬなよ。せっかくこの世に生まれてきたんだから。




2001年8月21日
 突然、「廃らんど」というサイトの管理人からメールが届いた。会ったことはないが、このサイトのことはこちらも知っていて、面白い探検レポートを楽しみにしていた。メールには、発見当日直後、警察が来るまでの時間プロファイルしたそのままの事実が書かれていた。
 こちらが遺体を発見したのが7月20日。その直前、7月に入ってからグループでこの建物を訪れた彼らは、やはり遺体を発見していた。当然驚き、仲間と話し合い、「見なかったことにしよう」という結論に達したらしい。その後うちのテキストを読みメールをくれた。ずっと気になっていてほっとしたと。
 驚くことに、そのときもあのじいさんがいたと。自画自賛するわけでもないが、かなり正確に状況を分析していたことがわかる。

2008.6.24 モーテル“Seven Years Later”
R2-ラブホ跡-モーテル-県59-県82-中央森林公園-県82-県73-河内IC-小谷SA-志和IC-県83-県33-県274-R2
 微妙な天気の中サイトをいじっていると、モーテルの文章が目に留まった。あれから7年・・・。キリの良さに今日の行き先が決定した。
 16:30スタート。空は厚い雲に覆われている。時間も時間だし、他に用もないのでR2を東へひた走る。たった2週間だが通勤のモンキーが続いていたせいで、なんとなくライディングが変な感じ。
 ラブホテル跡到着。この場所は普段でもよく通過する道だしその度に目をやる建物だが、入るのはまったくの7年ぶり。特に避けていた訳ではないが、廃墟としての興味は失っていた。それでもバイクから降りて準備をしていると、鼓動が速くなるのを感じた。恐いからではない。生きた人間に遭遇する事を警戒していたのと、万が一、また骸(むくろ)を見つけでもしたら警察にどう言おうか。
 前言撤回。やはり恐いのかもしれない。何度も書いてきたことだが幽霊は存在自体信じていない。死体や幽霊は攻撃してこないが、恐いのは生きた人間だ。カメラポーチをベルトに装着し、携帯三脚を伸ばした状態で歩き出した。普段なら「クモの巣」や「ヤブこぎの毛虫払い」の為だが、今回は軟弱な警棒も兼ねる。
 すぐにあの時と違う状況に気付いた。バリケードの扉が開いている。そもそも7年前、国道からすぐのこの建物を探索しようと裏へ回ったとき彼に出会った。こんなにあっさりは入れるとは。
 このラブホテルは、全室一戸建てとなっている。営業時利用した事はない。一棟一棟見てまわったが、この時点でもう自分を偽る事は出来なかった。死体、もしくは生きた人間に対する警戒で、心臓が脈打っている。「ぷっすま」のナギスケなら、ビビリはレッドゾーンを越えた状態に違いない。全室チェックしたが、浮浪者の生活の痕跡はあまりなかった。
 いよいよモーテル。ラブホ跡を抜けたところにも出口があり、奥からのアプローチとなった。まず一階の店舗部分へ。相変わらず人の気配が強い。焚き火の跡や弁当カスのコンビニ袋、エロ本などが散乱している。以前見つけた「不夜城」の文庫本は見つけることが出来なかった。
 二階へ。心臓はもうバクバクだ。万が一襲われた時の事も考えて、後ろを確認しながらゆっくりと登った。あの部屋は踊り場からすぐだ。嗅覚も研ぎ澄まされている。(死臭はしない・・・)7年の歳月がにおいの元を分解したか?ただ、ゴミ捨て場と同じにおいは相変わらず。
 宿泊室は左右両方に部屋があるので、危険を避け、誰もいない事を確認して覗いたあの部屋。窓は閉まり、ひと型を残したマットレスは向きが変わっていて、明らかにその後誰かが寝たものと推測できる。しかし、彼がなすりつけたであろう便はそのまま。ミシンの位置も変わっている。
 さらに反転。さっきまで誰かが寝ていたような布団。そして、じいさんのいた部屋だ。ゴミのベッドは同じ。その中に足や手が埋まってないか三脚で突付きながら真剣に確認した。事もあろうに、部屋の右奥隅に広げて掛けたような意味深な新聞紙が数枚。間違いなく今日最高の心拍数を自覚し、めくった・・・。
 ゴミ。
 ホッとした。ほんとに。あのじいさん、もしくは浮浪者の白骨死体を覚悟していた。とにかくここのゴミは生活感がものすごい。今にも誰かが帰ってきそうだ。自他共に認めるところだが、こういう探索は大胆かつ恐いもの知らず。実際、ほとんどが単独だし、あの時もそうだった。しかし、今まで一度だけ今日と同じ状態で対応した事がある。そう、あの出来事の一ヵ月後、ここを再訪した時だ。どこもかしこも、何が埋もれていてもおかしくないほどゴミゴミゴミ。ここでやっと身体の力が抜けた。
 もう来る事はないだろうが、他人に危害を加える事のない安全な浮浪者なら、夜露をしのげる貴重な場所としてずっと残っていて欲しいと感じた。
 帰りは広島空港に隣接する中央森林公園に立ち寄ったが18:00閉園。時計は18:30。久々に小谷SAを堪能しつつ帰路に着いた。

彼のいた場所


めくる時ドキドキがMAXに達した右奥の新聞紙。7年前この部屋にじいさんがいた。


万年床。


ラブホ跡


小谷SA。ドトールのキャラメルワッフルがイケた。


2014.8.30 モーテル「あれから13年」
 前回から6年経過したモーテル。木々が生い茂り、クモの巣も張っていて、でかい毛虫だらけ。二重三重の自然のバリケードに、新たな浮浪者が来ている様子は感じられなかった。建物はかなり痛んでいて、2階の踊り場は床が抜け、1階が見えている。近い将来倒壊が予想される。
 遺体があったマットレスは変わらず。ミシンの位置が動いている。じいさんがいた部屋もあのまま。他の部屋も含めて、布団や毛布、ごみの山などが思わせぶりに盛り上がっている。うかつにめくると、冗談抜きで切断された遺体の一部が出てきそうで嫌。襲われる可能性もあるので、臨戦態勢なのは言うまでもない。
 せっかくなので向かいのラブホテルにも入ってみたが、こちらもクモの巣だらけ。6年前でしょ。今行くと知識が増えていて、アスベスト曝露や未知の病原体感染リスクを意識する。また7年後くらい。取り壊し、もしくは倒壊してるかも。

2017.7.23 モーテル「最終章」
 3年ぶりの中国モーテル。シャンテ本郷の入口に乗りつけた瞬間。
「あ!」
 昼でもうっそうとしていた空間がやけに明るい。近づくまでもなく建物がなくなっていることに気付く。コンクリートの基礎に積み上げられた廃材は黒焦げに炭化しており、火事があったことが容易に想像できる。放火、もしくはその後の住人による火の不始末はある程度予想できたが、なんともいえない喪失感を感じた。
 在りし日の間取りを思い出しながら、当時1階の床だった基礎の上を歩く。あの死臭、じいさんの後ろ姿が懐かしくさえある。「不夜城」の文庫本はどこにいったのだろう。コンビニのゴミに埋もれた不潔な床は、ジリジリと照りつける真夏の太陽に殺菌消毒されていた。
 日没にはまだ余裕があるため近所の別荘地へ。この場所には40年前、サンパーク日名内というレジャー施設があり、母と弟と一緒に訪れた初めてのフィールドアスレチック。そのとき買ったロボットハンドが今でも家にある。こちらもかつての面影はなく、メガソーラーのあいだに点々と別荘が。恐らく当時からあったと思われる小さな池も、記憶とはつながらず。
 もう一つ。野呂山山頂にあった野呂山スピードパーク。50年ほど前サーキットがあり、レースが開催されていた。後にオートキャンプ場に変わったが、それも閉園になって久しい。左右までがっちりと固められたゲートが来るものを拒絶する。
 星降る展望台から川尻遠望。「セウォル」姉妹船「オハマナ」は変わらず係留。「ゆうとぴあ」と「えとぴりか」がいなくなっていた。
 「ゆうとぴあ」を検索すると、なんとシンガポールでドッグ入りしている。「えとぴりか」は現行船しか検索できず、国後島沖にいた。