斎藤道三と
日蓮宗京都本山妙覺寺(堺興覺寺の本寺)



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京都 妙覺寺
岐阜 常在寺
斎藤道三
堺 興覺寺


妙覺寺蔵 道三 遺言書原文まま


態申送候意趣者、美濃国之地、終に
織田上総介可任存分之条、譲状対
信長贈遺候事、其方之儀、如兼約之、
京之妙覚寺へ被上尤に候、一子出家すれは
九族天に生と云り、如此調一筆儀計に候、
それも夢、於斎藤山城者、法華妙躰之中、
生老病死之苦を離、向修羅場仏果を
得んそうれしき、既明日向一戦、五躰不具
之成仏不可有疑候、実や捨てたに此世の
ほかハなきものを、いつくかついの住家なる

    斉藤山城入

  弘治二四月十九日   道三(花押)

    児まいる

妙覺寺蔵 道三 遺言書(南條日誠 意訳)

この手紙を送った意味は、美濃国の領地を、
命がつきたとき織田上総介(信長)に任せる「譲り状」であります。
信長に対してもこの事を贈り遣わしました。
貴方は前から約束しているように京都の妙覺寺で修行を積みなさい。
子供が出家すると、その九族達は天界に生を受けると言われています。
この事も(妙覺寺へ)知らせてありますので心配する事はありません。
それも夢。斎藤山城(道三)は法華妙躰の中に居るので、修羅場に向かおうとも
生老病死の苦からは離脱して、仏の教えを信じる果報にて成仏するのは疑う事が無いからうれしい。
私は明日戦いを交え、身体が張り裂けるであろうが。
「実を捨てたこの世の他はなきものを何処かの終の住み家になる」
 
  斎藤山城入(道三)

  弘治二年四月十九日  道三(花押)
  
  児まいる(道三の子)




道三の子日饒・日覚
遺言果たし妙覺寺で修行


特に
觀照院
日饒上人は
妙覺寺第19世の住職に!!
(岐阜 常在寺 5世にも)
永禄4年(1561)7月16日 遷化(寂)

巣ごもりのひとりごと

紆余曲折、下克上にて美濃守護代「美濃のマムシ」の異名を持ち強固な地域を目指した道三。
幼少時代の法華信仰から信念と大いなる目標(多分、大きな国作り)を持った道三。
晩年はそれぞれの主張がぶつかり合う殺伐とした時代背景の波にのみ込まれてしまった道三。

法華経の旗印は「一天四海 皆帰妙法」
道三はそれをたたき込まれて育ち、道三流に実践したのではないだろうか。

晩年憎しみあった
「父と子」。時代にて命の奪い合いにまで発展。
しかし最後は同じ場所(寺)に祀られている親子。
今頃仏のお城である寺にて、仏の教えを聞き、たしなめられ、わかり合って、尊敬し合い、
そして今の国をどのように思っているのか。
そのキーワードは「大きな国」。
威厳を誇ったり、他者に大きく振る舞う「大国(たいこく)」ではなく、
皆が慈しみ合い、安心できる「懐の大きな国」を両氏は理想としていたのではないだろうか。



令和2年5月
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 堺興覺寺 29世 南條日誠 乱分筆謝

興覺寺ホームページ tamashii.info