第38話 :「ボタン」

<update/2002/05/18>

 

 

まぁ、人間なんて天邪鬼なもんで、

「やるな」と言われた事は、「やりたくなるし」

「やれ」と言われりゃ「やりたくなくなる」もんだろう。

 

例えば、なかなかやる機会はそうそうないが、

良く目には付くものがある。

 

ビルなどの壁に良くある赤く丸い装置の中に、

「透明なプラスチックにガードされた魅力的な黒いボタン。」

 

 

 

 

 

 

そう、

「非常ベル」

 

 

誰だって一度は、あのプラスチックを破って、

ボタンを押してみたいと言う衝動に駆られた事はあるだろう。

 

だが、人間は考える動物。

理性があるから、非常時以外にそれを行う事は、

してはいけないと言う分別くらいはつく。

 

子供がやったら「イタズラ」で済むだろうが、

分別のつく大人がやろうもんなら、社会的にそれなりの刑罰が

待っているのは間違いない。

 

 

ただ、身近に良く見るが、通常の生活をしていれば、

緊急時以外まず、それには関わらないアイテムなんてのは、

普段自分の生活の中からは、忘れ去られているもんである。

 

なぜなら、視野の中に捕らえてはいるが、

それがあるのが当たり前のように、生活に溶け込んでいるからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

で。

 

 

俺が27歳位の頃、緊急事態が発生した。

 

会社帰りに酒を飲んでタクシーで帰ってきた、

真冬の深夜4時。それは起った。

 

当時アパートに一人暮らしであった俺は、千鳥足で

アパートまでなんとか辿り着き、部屋のカギを開けようとして、

カバンの中にあるはずの鍵を探したのだが、

 

 

 

 

 

 

 

 

無い。

 

 

 

部屋の「鍵」が無いのである。

何処を探しても無い。

 

当時の俺は、チャック式ではなく、「パカッ」と開く小銭入れに、

鍵を入れておく癖があった。

 

多分、タクシーの中かどこかで小銭を払う時に落としたのであろうが、

とにかく部屋に入るための「鍵」が無い。

 

 

これは、当時の俺にとって致命的でだった。

 

 

何が、致命的かというと当時の状況を説明しよう。

 

1:一人暮らしをしている部屋の鍵が無いので入れない。

 

2:アパートまで帰れるタクシー代だけは残して、

  目イッパイ使っているので、もうすでに残金は、小銭だけ。

 

3:今のようにコンビニで金は下ろせない。

 

4:携帯電話なんて物も無い時代。

  今なら、携帯ですぐに連絡取りあえるが当時じゃ無理。

 

5:友人の自宅に公衆電話から電話できる時間でもないし、

  生憎、アドレス帳なんて物を持ち歩く性格でもなかった。

 

6:小銭で行ける電車も動いていない。(行く当ても無いが)

 

7:実家のように、近くに友達がいるわけでもない。ここは、東京。

 

つまり、八方塞の状況であったのである。

しかも極寒の、真冬の一番冷え込む朝方に。

どこにもいけないのである。

 

しかし俺は、

とにかく部屋に入って、暖かくして布団で寝たい。

 

 

何故!ただそれだけのささやかな希望も叶わないのだ!

 

 

途方に暮れ、なす術も無い俺は、アパートの前の路地で

コートの襟をたて、うずくまり、どうしようかと考え込んでいると、

 

通りかかった軽トラックに乗ったオッちゃんが、通りすがりに

車を俺の前に止め、こう言い放った。

 

 

 

 

 

「おい、にいちゃん、そんな所で寝たら死ぬぞ!」

と、言い放ち行ってしまった。

「どうしたんだい?」とも言わずに。

 

 

 

 

 

 

 

ありがとよ。

都会の人の温もりを感じたよ。

 

 

こうなったら、隣の敷地に住む、大家さんが起きるのを待つしかない。

 

でも、まだ真冬の真っ暗な4時を過ぎた時間。

 

大家が起きるって言ったって、6時〜7時位だろう。

あと3時間もこの極寒の路上で過ごさなきゃいけない事になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無理ッス。

 

 

 

 

そして俺は、とぼとぼ路地を歩き始めた。

意味は無い。歩いて、動かなきゃマジでヤバイと思ったから。

 

 

そして、路地の曲がり角に来た時にあるものがあった。

 

 

 

 

 

 

 

緑色した「公衆電話」

 

 

 

 

 

 

そう、

 

 

 

視野の中に捕らえてはいるが、

それがあるのが当たり前のように、生活に溶け込んでいる、

 

身近に良く見るが、通常の生活をしていれば、

「緊急時」以外まず、それには関わらないアイテム。

 

 

 

 

 

 

わかるだろ。

 

 

 

 

 

 

 

 

公衆電話の下のほうについている、

透明なプラスチックに覆われた赤いボタン。

 

 

公衆電話からお金を入れなくても、警察に「110番」してくれる、

魅惑のホットライン。

 

緊急時にすぐに警察に連絡できる為のボタン。

 

 

 

 

 

 

俺、緊急時。

 

 

 

 

 

そこで俺は、閃いちまったんだよ。

思いついた事をそのまま行動に移しちゃうのが酔っ払いの「性」

 

 

 

 

八方塞がりだった俺は、

藁にもすがる気持ちで、

公衆電話の受話器を上げ、

その赤いボタンを、

 

 

 

 

押した。

 

 

 

ぷるるるるる、カチャ。

 

「はい、○○警察です。どうしました!!」

 

 

 

俺、

「しいません、鍵無くしちゃってアパートに入れないんです。」

「寒くて・・・。どうしたら良いですか?」

 

警察、

「はぁ?」

「あのねぇ、そういうのは、専門の業者さんがいるから

そっちに電話しなさい!!!!(怒)」

 

俺、

「はい。すいません」

 

 

 

ブチ。ぷーっ、ぷーっ、ぷー。

 

 

 

 

真冬の街の中で、俺はついに突き放された。

もう、何も頼るものは無い。

 

振り向き見上げれば、白み始めた空が、

冷たく澄んだ空気の向こう側で、今日という日を、

何事も無かったように刻もうとしている。

 

 

 

俺を置き去りにした事も無関心なように。

 

 

 

 

深呼吸をした俺の息さえも、白く拡散し、

暗闇に溶けてゆく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

受話器を置いた俺は、

コートの襟を再度立て直し、

 

 

空を見上げて、少しだけ笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

押しちゃったよ、

ボタン。

 

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