城跡の写真
          甲斐国 新府城(しんぷじょう)


七里岩の断崖
 城 名   : 新府城

 所在地   : 山梨県韮崎市

 伝築城   : 天正 9年(1581年) 真田昌幸 説

 伝廃城   : 天正10年(1582年) 武田勝頼 説

 形 式   : 平山城


 小説への登場場面

    新田次郎著 「武田勝頼」 三巻 〜 鎮の城 〜

 国指定史跡

 駐車場完備

  地図はこちらから → 地図(Map)
七里岩の断崖
 新府城 の西側の守り 七里岩の断崖 です。

 新府城 は、八ヶ岳火山の泥流による 七里岩 の上に築かれ
 ており、高さは 100mにもおよぶ断崖絶壁となっています。
 往時はこの真下に釜無川が流れていたとのことですが、現
 在は少し離れたところを流れています。

東出構 水堀
東出構 水堀
 東出構(ひがしでがまえ) です。

 出構 は、城の外郭の一部を 堀 の中へ突出させた長方形
 の鉄砲陣地で、防御上で弱いと見られる北側(諏訪方面)
 に東西 100m離れて二基が築かれています。
 盛り上がっている場所が 出構 で、その周囲一帯が 水堀
 だったと推定されています。

 北側で今も水をたたえている 水堀 です。

 北側(諏訪方面)は、要害堅固な 新府城 の弱点と見ら
 れており、水堀 を巡らした上にさらに二基の 出構 を
 設けて、万全の備えを期していたそうです。
搦手・望楼台 望楼台からの眺望
搦手・望楼台 望楼台からの眺望
 城の北西方向にある 搦手・望楼台 です。

 北西の端にあり、搦手 と 望楼台 の機能を併せ持っていたと
 考えられています。
 望楼台からの眺望 です。

 望楼台 から釜無川が流れる西方を望んだ一枚です。
 美しい景色とともに標高差を感じてもらえると思います。

土橋 空堀
土橋 空堀
 搦手 から 二の丸 への途上にある 土橋 です。

 向こう側で発掘調査をしていたため、盛り土とビニールシート
 が見えます。

 城の北西方向にある 空堀 です。

 北西方向にあることから、往時は 水堀 だったと思われ
 ます。
二の丸 蔀の構
二の丸 蔀の構
 二の丸 です。

 本丸 の隣にあり、城の西側に位置する曲輪です。
 蔀の構(しとみのかまえ) です。

 二の丸 と 本丸 の間に植え込みや 土塁 を設けて、
 本丸 が見渡せないようにした備えです。

馬出し 西三の丸
馬出し 西三の丸
 二の丸虎口の 馬出し です。

 枡形(ますがた) になっていました。
 往時は、この道を騎馬武者が疾駆したのでしょうか?

 西三の丸 です。

 城の南側に位置する曲輪で、土塁 で東西二つに分か
 れていたと考えられています。
東三の丸 南大手門
東三の丸 南大手門
 東三の丸 です。

 三の丸 を東西に分けた東側の曲輪で、西三の丸 同様に
 木が生い茂っていました。

 南大手門 です。

 城の南側に位置し、丸馬出し と 三日月堀 が備えら
 れていたそうですが、見つけられませんでした。(泣)
参道 藤武神社 本堂
参道 藤武神社 本堂
 藤武神社への 参道 であり、本丸跡 への道でもあります。

 新府城 の説明看板や 城址碑 が建っていますが、階段の
 傾斜が急で、昇るのに少々疲れます。
 本丸跡 にある 藤武神社本堂 です。

 新府城 の守護神として祀られていますが、どことなく
 淋しさが漂っています・・・

本丸跡 新府城想定復元図
本丸跡 新府城想定復元図
 城の頂上に位置する 本丸跡 です。

 南北 120m、東西 90mの広さを誇ります。
 本丸跡 にある 新府城想定復元図 です。

 城の全体の雰囲気が掴める分かり易いイラストです。

勝頼公霊社 首洗い池
勝頼公霊社 首洗い池
 本丸跡 内の 藤武神社 の北西にある 勝頼公霊社 です。

 武田氏滅亡後、当地民がかつての国主の恩徳を追慕し、この
 地に石祠を建立したのが始まりだと云うことです。
 この周囲には、長篠で戦死した家臣の供養塔がありました。

 城の東方向にある 首洗い池 です。

 草が鬱蒼と生い茂っていました。
 ここで生首が洗われたと思うと気味が悪いですね。

【 新府城の構造 】
 山梨県韮崎市にある 新府城 は、八ヶ岳火山の泥流によって出来た 七里岩(しちりいわ) の断崖上に築かれた
 南北 600m、東西 550mの規模の 平山城 です。
 頂上に南北 120m、東西 90mの広さの 本丸 があり、その西側には 蔀の構(しとみのかまえ) を隔てて 二の丸、
 馬出し と続いていました。
 本丸 の南側には、東西に分かれた 三の丸 があり、さらにその南側を大手として、大手門、望楼 、三日月堀、
 丸馬出し が築かれており、それに対して城の北西には 搦手門 と 望楼台 が築かれていました。
 本丸 の東側には 稲荷曲輪 があり、防御上で最も弱いと見られる北から北東にかけての外郭部には 水堀 を巡
 らし、その 水堀 に突出させる形で 出構(でがまえ) と呼ばれる二基の鉄砲陣地が築かれています。
 これは、鉄砲で敵に十字砲火を浴びせるための突出した陣地で、従来の城郭にはない斬新な特徴です。
 また、城の西側には、釜無川の流れと高さ100mにもおよぶ 七里岩 の断崖があることから、地形の特徴を生かし
 た要害堅固な城であることが分かると思います。

【 甲斐国の防衛拠点 】
 新府城 は、正式には 新府中韮崎城 と云い、武田勝頼 が天正 9年(1581年)春、織田信長 の甲斐侵攻に備え
 て、要害の地 韮崎 を新たに府中と定めて首都を移転するとともに、広大な新式の城郭を構えて、敵を撃退し、
 退勢の挽回を図るべく、真田昌幸 に命じて築かせた城です。
 築城工事は昼夜兼行で行われ、同年(1581年) 12月に 勝頼 は、本拠地を 躑躅ヶ崎館 から 新府城 と定めて
 移りますが、突貫工事であったため、このときの 新府城 は未完成の状態だったと云うことです。

混乱の中で
 新府城 の築城は、民衆や家臣達の負担を重くし、さらに 60余年続いた甲斐国の首都移転に城下町の商人、
 職人が混乱を起こし、勝頼 の叔父にあたる 一条信龍 が移転に従わないなど、その前途には暗雲が垂ち込
 めます。
 そして、天正10年(1582年) 1月末、勝頼 の義弟に当る 木曽義昌 と、一門衆筆頭で 勝頼 の義兄に当る 穴山
 梅雪 の二人の謀反をきっかけに 織田信長 と 徳川家康 の甲斐侵攻が開始されると、信濃国、駿河国の諸城
 は自落し、武田家の武将たちは次々と織田方に内通してしまいます。
 勝頼 は 新府城 での籠城を考えますが、城が未完成であることと城を守るだけの兵士が残っていないことから
 一門衆の 小山田信茂 の守る郡内 岩殿城 への退去を決め、3月 3日の早朝に完成間近な 新府城 に自ら火
 をかけて 岩殿城 を目指します。
 しかし、退去途中に 小山田信茂 も離反し、進退極まった勝頼主従は天目山を目指しますが、織田軍の追撃は
 急で、天正10年(1582年) 3月 11日、天目山田野の地で勝頼父子は自刃し、甲斐武田家は滅亡します。

甲斐国争奪戦
 天正10年(1582年) 3月に甲斐武田家を滅ぼした 織田信長 が、その僅か 3ヶ月後の 6月に京都本能寺に
 おいて、重臣の 明智光秀 により非業の最期を遂げると、甲斐国を統治していた織田家臣の 川尻秀隆 も
 一揆により殺され、広大な甲斐国は無主の騒乱に陥ります。
 この混乱に乗じて甲斐国を争奪しようと、徳川家康 と関東の雄を自負する 北条氏直 が対峙します。
 北条軍は、信濃国から侵入した 氏直 が 若神子城 に着陣し、郡内に進出した叔父の 北条氏忠 と、さらに
 秩父口を固める秩父衆と三方向から、古府中に陣した徳川軍を包囲します。
 兵力においても、徳川軍 11,000に対して、北条軍 55,000と、北条軍が圧倒的に有利なはずでしたが、この
 とき 家康 は甲斐防御の拠点を 新府城 と定めて、改修を終えるとここを本陣とします。
 戦に長じた 家康 は 新府城 を本拠地に、秩父衆と 氏忠軍を撃破し、氏直率いる本体を孤立させると、さらに
 周囲の勢力をも味方に付けて、対陣から 80日経った天正10年(1582年) 10月27日に和睦に持ち込み、甲斐
 国を手に入れることに成功します。
 新府城 は、5倍にもおよぶ大軍を長期に渡って釘付けにしたことで、極めて有効な防御力を持つ城であること
 が証明された訳です。


〜 ken-you史跡巡り記 〜

   上の文を読んだ方は、武田勝頼 が暗愚な武将だったと思われるでしょうが、果たしてそうなのでしょうか。
   局面において、最善を尽くしたものの運に見放されてしまった結果、武田家は滅亡したと私は思います。
   織田信長 と 徳川家康 が、最後まで単独で正面対決するのを避けたのが、その証明ではないでしょうか。
   勝頼 を暗愚だと思う方は、新田次郎さんの歴史小説 「武田勝頼」 を読んで欲しいです。
   小説ですが、きっと見方が変わると思います・・・

   さて、新府城 ですが、私はこの城の悲劇性と静かな雰囲気が好きで、既に 4〜5回訪れています。
   衰運の武田家が織田軍の侵攻に備えて築城するも、その真の力を発揮することなく火をかけられ、皮肉にも
   家康 がその有用性を実証したというこの城は、良好な状態で保存されており、閑静な場所とも相まって様々
   な感慨に耽りながら、散策が楽しめると思います。
   遺構の中でも、特に城の北側にある ゙出構" は、新府城の築城者 真田昌幸の次男の 幸村 が、「大阪の陣」
   において、大阪城外に構築した ゙真田丸" を彷彿させて興味深いものがあります。
   また、釜無川方面からの ゙七里岩" の断崖絶壁も、是非見て欲しい景観の一つです。



城跡と鎌倉の写真