城跡の写真
          下野国 唐沢山城(からさわやまじょう)


大手虎口
 城 名   : 唐沢山城

 所在地   : 栃木県佐野市

 伝築城   : 延長年間(923〜931年)  藤原秀郷 説

 伝廃城   : 慶長12年(1607年)  佐野信吉 説

 形 式   : 山城


 小説への登場場面

     海音寺潮五郎著 「天と地と」 五巻 〜 三国峠 〜

 国指定史跡


  地図はこちらから → 地図(Map)
大手虎口
 大手虎口 です。

 写真からは分かりづらいですが、喰い違い 状に構築
 されており、侵入者を阻んでいます。

天狗岩からの眺望 大炊の井戸
天狗岩からの眺望 大炊の井戸
 天狗岩 からの眺望です。

 天狗岩 は、大手虎口 より入ってすぐにある 物見櫓 の
 あったところで、突き出た岩が ゙天狗の鼻" の様であった
 ために名付けられたそうです。

 大炊の井戸 です。

 築城の際に、厳島大明神に祈請し、その霊夢によって
 掘られた直径 8m、深さ 9mを誇る大きな井戸です。
 今日まで、その水が枯れたことはないそうです。
三の丸 桜の馬場
三の丸 桜の馬場
 三の丸 です。

 藤棚の休憩場所もあり、訪れる人の憩いの場となって
 います。

 桜の馬場 です。

 急斜面に掘られた 竪堀 を利用して、馬の訓練をした
 場所で、桜が多いことから名付けられたそうです。
南城の石垣 二の丸
南城の石垣 二の丸
 南城 の石垣 です。

 南城 は、城の最南部に位置する曲輪です。
 藪の中に潜入して撮影した一枚。

 二の丸 です。

 二の丸 は、本丸 の西側に位置しており、周囲を 石垣
 に囲まれています。
唐沢山神社 本丸の石垣
唐沢山神社 本丸の石垣
 本丸 に建つ 唐沢山神社 です。

 唐沢山城 の祖とも云える 藤原秀郷 の遺徳を偲んで、
 明治16年(1883年)に創建されました。

 本丸 の南西部の 石垣 です。

 苔むした感のある 石垣 が、歴史を感じさせます。 
武者詰の土塁 車井戸
武者詰の土塁 車井戸
 武者詰 の 土塁 です。

 武者詰 は、本丸 の北側に位置する郭で、その周囲
 には、土塁 が巡らされています。

 車井戸 です。

 本丸 の西側に位置し、深さは 25mもあり、゙龍宮まで
 続いている" と言い伝えられています。
お花畑 金の丸
お花畑 金の丸
 お花畑 です。

 薬草などを栽培していたことから名付けられたそう
 ですが、今では見る影もありません。 (+_+)

 金の丸 です。

 金蔵のあった場所と云われていますが、現在は ロッジ
 が建てられ、子供会の教育の場となっています。
土橋 竪堀
土橋 竪堀
 土橋 です。

 東方の尾根筋に残っている良質な遺構であり、堀切 に
 架かっている 土橋 を確認することができます。
 竪堀 です。

 唐沢山城 の周囲は、至るところでこのような 竪堀 を
 望むことができ、圧巻です。


唐沢山城の構造
 栃木県佐野市にある 唐沢山城 は、標高 247mに及ぶ唐沢山に築かれた山城で、天慶 3年(940年)に 平将門
 の反乱を鎮圧した 藤原秀郷(ふじわらのひでさと) の居城址だったと伝えられています。
 現在、確認できる 唐沢山城 は、秀郷 の血脈を引く 佐野氏 が戦国時代に完成させたものと云われており、その
 構造は、関東平野を一望できる急峻な唐沢山の山頂部に、西側から東側へ向かって 「大手虎口」 「三の丸」
 「二の丸」 「本丸」 「金の丸」 を配置し、その周囲を縦横無尽に掘られた 堀切 と堅固な 石垣 が敵の侵入を阻む
 関東屈指の要害として知られています。

唐沢山城を巡る攻防
 戦国時代の 唐沢山城 は、関東における攻防の争点に位置していました。
 永禄 2年(1559年)、上杉方に与した 唐沢山城 城主の 佐野昌綱 を攻めるべく、小田原 を発した 北条氏政 は、
 35,000 にも及ぶ大軍で 唐沢山城 を包囲し、昼夜の別なく攻め立てます。
 上野国(群馬県)の 平井城 でこの報せを受けた 長尾景虎(後の 上杉謙信) は、すぐに 8,000の兵を引き連れて
 救援に向かいましたが、北条軍の包囲は固く、突破するのは至難の技に見えました。
 すると、景虎 は甲冑を脱ぎ、黒い木綿の道服を着て白綾で頭を包むと、十文字の槍を握って馬にまたがるや、
 僅かに 44人の武者を引き連れて、十重二十重に城を包囲している敵の真ん中を押し通りはじめます。
 数万の北条軍も毘沙門天を想わす 景虎 の迫力に恐れをなして、誰一人近付く者はなく、城門を開いて中に招じ
 入れた 昌綱 は感激の涙を流しながら、景虎 の馬の口輪を取ったと 「関東古戦録」 は伝えています。
 しかし、その後の 昌綱 は、他の関東の諸将と同様に 北条氏 と 上杉氏 という二大勢力の狭間で家名を保つべく
 離反を繰り返したため、景虎 からも数度に渡って攻め立てられています。

その後の唐沢山城
 天正12年(1584年)、昌綱 の子 宗綱 は後継ぎに恵まれないまま没してしまい、天正14年(1586年)、遺された
 家臣たちは協議の末、北条家 より先主 氏政 の弟に当る 氏忠 を、宗綱 の娘婿に迎え、佐野 の名跡を継がせ
 ると、唐沢山城 の新たな城主に据えます。
 しかし、北条治下の時代は永く続かず、天正18年(1590年)に 豊臣秀吉 による小田原征伐が開始されると、
 佐野氏の一族でありながら、京で 秀吉 に厚遇を持って迎えられていた 天徳寺了泊(てんとくじりょうはく) も、
 秀吉 に従って下向し、抜群の戦功を挙げます。
 戦功により、佐野 の旧領を回復した 了泊 は還俗し、名を 佐野政綱 と改めて、唐沢山城 へ入城します。
 その後、慶長12年(1607年)、城主 佐野信吉 のとき、唐沢山城 から南西部の平野へ新たに 春日城 を築き、
 居を移すと、唐沢山城 は、その長い攻防の歴史に終止符を打ち、廃城されてしまいます。
 廃城から 276年が経過した明治16年(1883年)、初代城主と伝えられる 藤原秀郷 の遺徳を偲んで、本丸跡に
 唐沢山神社 が奉斎され、以後永くこの地の守護神として尊崇されていると云うことです。


〜 ken-you史跡巡り記 〜

   唐沢山城 は、大手虎口 前の駐車場まで車でアクセスできるため、初心者の方にもオススメできる山城で、
   写真にある遺構も、本丸 にある 唐沢山神社 までの参道を歩いて行くだけで、ほとんどのものが見られる
   ので、気軽に楽しめることでしょう。
   しかしながら、そこに拡がる遺構は、戦国時代の面影を残しているものばかりであり、本格的に見始めると
   時の経つのも忘れてしまうことと思います。
   特に上杉謙信(上文では 長尾景虎 ですが)ファンの方は、上記の颯爽とした逸話に想いを馳せながら歩く
   ことによって、楽しさが倍増することは請け合いです! (自分がそうだったりするもので・・・)



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