城跡の写真
          遠江国 二俣城(ふたまたじょう)


本丸の天守台
 城 名   : 二俣城

 所在地   : 静岡県天竜市

 伝築城   : 文亀年間(1501〜3年) 二俣氏(斯波氏とも) 説

 伝廃城   : 慶長 5年(1600年)  堀尾氏 説

 形 式   : 平山城


 小説への登場場面

     新田次郎著 「武田信玄」 四巻 〜 二俣城の水の手〜
     新田次郎著 「武田勝頼」 三巻 〜 信康自刃 〜
           
 市指定史跡

 駐車場完備

  地図はこちらから → 地図(Map)
本丸の天守台
 本丸 の西側にある 天守台 です。

 当時の姿のままで残っている貴重な遺構です。

二俣城址の碑 虎口の石垣
二俣城址の碑 虎口の石垣
 城址入口にある 二俣城址の碑 です。

 これより遊歩道を歩いて 本丸 へ向かいます。
 遊歩道には、二俣城の攻防の歴史を自動でアナウンスして
 くれる設備があり、勉強になります。

 虎口の石垣 です。

 喰い違い 状に構築されています。
 苔むした感じで、雰囲気があって良いです。

二の曲輪 天守台より天竜川を望む
二の曲輪 天守台より天竜川を望む
 本丸の南側に位置する 二の曲輪 です。

 自然な形で残っており、見ごたえがあります。

 本丸の天守台より天竜川を望む。

 木々に覆われていて、眺望はあまり良くありませんが、標高差
 は感じてもらえると思います。

井戸櫓 二俣城図
井戸櫓 二俣城図
 清瀧寺 に移築された 井戸櫓 です。

 二俣城廃城の際に 清瀧寺 に移築され、その後、明治年間
 に改築。現在のものは、昭和37年に再建されたそうです。
 高さがあって、なかなかの迫力でした。

 本丸の説明板にある 二俣城図 です。

 北側から各曲輪が配置されているのが分かります。
 この図は、堀尾氏時代のものですが、基本的な縄張りは
 徳川氏、武田氏のものを踏襲しているそうです。

【 二俣城の構造 】
 静岡県天竜市にある 二俣城 は、戦国期は西に天竜川、東から南にかけては二俣川が流れ、三方を天然の堀に囲まれた
 標高 90mの台地上にあり、北方の山間部と南方の平野部を結ぶ交通の要衝の地にありました。
 北側から 北曲輪、 本丸、 二の曲輪、 蔵屋敷、 南曲輪 とほぼ一直線上に配置されており、現在も残る 本丸の天守台 は
 天正18年(1590年)に入城した 堀尾氏 時代のものと云われています。

 二俣城は、築城当初は、南側に位置する 鳥羽山城 とともに北側に控える 笹岡城 を守るべく構築されたと考えられており、
 この 「三城」 は僅か 2kmの距離にあることから、 ゙一城別郭" 形式と呼ばれています。
 また、このような特殊な事情から 「三城」 の築城年代を正確に割り出すことは難しいと云うことです。

【 二俣城の改修 】
 二俣城が ゙城塞" として本格的に使用され始めるのは、永禄 3年(1560年)の桶狭間の合戦での今川家の当主 義元 の死
 による 今川家 の動揺を端緒とし、遠江国の支配安定のために 笹岡城 の本城機能を移すなどの改修が施されます。
 永禄11年(1568年)の今川家没落を機に 徳川家 の手へ移った 二俣城 は、来るべき 武田信玄 の来攻に備えてさらなる
 改修が施されます。

【 徳川氏と武田氏の攻防 】
 元亀 3年(1572年) 10月、大軍を率いて侵攻して来た 武田軍 は、はじめ御曹司の 勝頼 を大将に力攻めの戦法を取ります
 が、城の守りは固く落ちる気配を見せません。
 城兵が井戸櫓から釣瓶(つるべ)で天竜川の水を汲み上げているのを知った 武田軍 は、水の手を断つ作戦に変更し、上流
 から大量の筏(いかだ)を流して、釣瓶を破壊します。
 攻撃開始から 2ヵ月後の 12月、水の手を奪われ、援軍の来る見込みの無い 二俣城 は、武田軍 に降伏します。

 天正 3年(1575年) 5月の、長篠・設楽ヶ原の戦いにおける 武田軍 の敗北は、徳川軍 による 二俣城 攻撃のきっかけとなり
 南の 鳥羽山城 に本陣を敷いた 徳川軍 は、北に 蜷原(になはら)、東に毘沙門堂 、西に渡ヶ島(和田ヶ島) の砦を築き、
 四方から城を取り囲み、兵糧攻めを敢行します。
 武田軍 は、7ヶ月の長きに渡り耐えますが、兵糧が底を尽き、徳川軍 に降伏します。

【 城主の変遷と廃城 】
 二俣城は、徳川家重臣の 大久保忠世 が入城し、二俣城 及び周辺の諸城砦の改修を施し、遠江北部を統治します。
 天正18年(1590年)の 家康 の関東移封に伴い、大久保氏に代わって豊臣系の 堀尾宗光 が入城し、本丸に 天守 を築き、
 石垣を巡らすなどの改修を施します。
 そして、慶長 5年(1600年)、徳川氏と武田氏の争奪戦の舞台となった 二俣城 は、その長い攻防の歴史に幕を閉じます。

【 徳川(岡崎)信康自刃の地 】
 二俣城 は、徳川家康 の嫡子であり、次期棟梁として期待されていた 信康 の自刃の地としても有名です。
 天正 7年(1579年) 9月15日、 信康 は、武田氏と内通していたという理由の下、同盟者(絶対者)であり、舅(信康 の妻は
 信長の娘)だった 織田信長 の命により、自刃を命じられます。
 この不可解な事件は、後世、様々な説が流布しており、有名なものに
  「 織田信忠(信長の嫡子)が凡庸であり、徳川信康の優秀さに脅威を感じた 信長 が無実の罪を着せた 」 や
  「 徳川信康 の残虐さ、粗暴さが原因 」
 といったものがありますが、いずれも後世に創られたもので信頼に価するか難しいそうです。


〜 ken-you史跡巡り記 〜

   戦国時代に徳川・武田氏の争覇の舞台となった 二俣城 ですが、現在は河川の位置が当時と大きく異なっているため、
   ゙三方向を川に囲まれた要害の城" といった雰囲気はありません。
   しかし、写真にある遺構、特に 「天守台」 は当時のままと云うことですから一見の価値はあると思います。
   また、城の北部にある 「清瀧寺」 には、井戸櫓が復元されているので、足を伸ばしてみることをオススメします。



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